魅惑のフォンダンショコラ
数あるチョコレートケーキの中でも難易度の高いものとされている『フォンダン・オ・ショコラ』。
一般には『フォンダンショコラ』という名称のほうが馴染みがあるかもしれない。
発祥はフランスの、『クーラン・オ・ショコラ』というお菓子が原型であるとされていて、フォンダンショコラの『フォンダン』には、フランス語で『溶ける』という意味がある。
『溶けるチョコレート』
まんまのネーミングだが、フォンダンショコラには大別するとふたつの種類があって、ひとつは、生地を外側だけ焼いて中を半生に仕上げるもの。
もうひとつは、生地の中にチョコレートソースを入れて焼くものとが存在する。
近頃では、チョコレートソースの代わりに板チョコなどを入れて、家庭でも手軽に作ることのできる簡単レシピもあるようだ。
けれど舌の肥えた桜小路さんのお眼鏡にかなうモノを作るとなると、手軽さは必要ない。
かといって、半生にして、生焼けの失敗作のように捉えられるのも嫌だし。最近暖かくなってきたため食中毒にならないとも限らない。
となると、やっぱりここは、生地の中に予め冷やし固めておいたチョコレートソースを入れて焼き上げたほうが無難だろう。
……という具合に、静寂に包まれた広くて立派なシステムキッチンで私はひとり脳内会議を繰り広げていた。
ここまでくれば察しが付くだろうが、菱沼さんと一緒に出勤していく桜小路さんを送り出していたときに、『フォンダンショコラを作っておいてくれ』そう命じられたからだ。
脳内会議を終え、さっそく作業に取り掛かろうと、黒いコックコート姿の私は材料を取り出すために収納棚と対峙しつつ、今朝の寝室で繰り広げられた桜小路さんとのやりとりを思い返していた。
***
あの後、桜小路さんはまるで何もなかったかのように、腹立たしいくらい平然としていた。
もうすっかりお馴染みとなってしまった、ちょこんと寝癖の付いたブラウンのショートマッシュ。
その柔らかそうな髪をツンツン弄りながら桜小路さんが寝室から気怠げに出て行った後、私はベッドの上で暫く動けずにいた。
起き抜けから、立て続けにあり得ない羞恥をお見舞いされてしまったお陰で、エネルギーを消耗し、放心状態に陥っていたからだ。
でもそれだけじゃない。まだ続きがあったのだ。
それは桜小路さんが寝室から出ていく間際のことだった。
桜小路さんの気怠げだった表情は一変、なにやら意味深な笑みを浮かべた桜小路さんから、
「……言い忘れていたが、今夜から夕飯の時に菱沼は居ない。俺とお前のふたりきりだ。そのつもりで用意しておいてくれ」
これまた意味深な言葉がお見舞いされたのだった。
寝耳に水だった私が弾かれるようにして顔を上げて、
「そ、そんなっ!? いきなりふたりっきりになるなんて無理ですッ!」
思わず放ってしまった声にも。
さっきよりも意味ありげな黒い笑みを湛えた桜小路さんから、
「一夜を共にしておいて、何を今更。それとも、菱沼にもさっき俺がしたように、手取り足取り免疫を付けてもらいたいのか?」
意地の悪い声音でなんとも意地悪な言葉をお見舞いされ、またもや真っ赤にされてしまったのだった。
羞恥に堪りかねた私が、なんとか言い返してやろうと踏ん張るも。
「……け……けけ、結構ですッ!」
「どうした? そんなに真っ赤になって。もしかして、俺と菱沼に抱かれている姿でも想像してるのか?」
「……ッ!?」
頑張って何かを返してみたところで、結局最後には、面白おかしく揶揄われてしまうことになるだけだった。
***
今思い出しただけでも、悔しくて悔しくてどうしようもない。
それから、『今夜からゆっくり段階を踏んでたっぷり慣らしてやるから安心しろ』なんて言ってたけど。
今夜から一ヶ月というこの短期間の間で、一体どうやって慣らしていくというのだろう。
桜小路さんに言われた言葉の数々を思い出しただけで、全身が粟立ってしまう。
慌てて邪念を追い払おうと頭を振って、作業に集中しようとした矢先、私はまたもや羞恥に見舞われてしまい、顔どころか全身真っ赤になってしまっていた。
ーーまだ始まってもいないというのに、今からこんな調子で大丈夫なんだろうか……。
朝から憂鬱な心持ちでいる私とは違って、朝から元気いっぱいで、相変わらず空気の読めない愛梨さんの明るい声が、壁伝いに置かれているサイドボード上の水槽から聞こえてきた。
「菜々子ちゃんてば、創のこと思い出して赤くなっちゃうなんて、本当に初心で可愛いわぁ。まるで若い頃の自分を見ているようだわぁ」
その声で我に返った私が、これみよがしに、大きな大きな溜息を垂れ流してみたけれど、悲しいかな、脳内お花畑全開の愛梨さんには、すこっしも伝わってはいないようだった。
***
夜も更け、タワーマンションの最上階に位置するこの部屋から一望できる煌びやかな都会の夜景は、それはもう絶景だった。
それだけ聞くと、世の女性たちはこぞって、やれロマンチックだとか、ドラマチックなシチュエーションだとか言って頬を染め、黄色い声で色めきだつんだろう。
けれどあいにく今の私には、そんなことを思うような余裕も、ましてや夜景を楽しむような余裕なんてものも一切なかった。
何故なら私は、そのオシャレな空間で、人生最大のピンチに見舞われていたからだ。
それは桜小路さんが帰宅して暫くしてのこと。
前もって、口溶けのいいクーベルチュールチョコレートを使用し作ってあったチョコレートソース。
冷凍庫から取り出したそれを生地の中に仕込んで、焼き上がったばかりのフォンダンショコラを桜小路さんにお出ししたところ、事は起こった。
リビングダイニングのソファに座っている桜小路さんが自分の太腿を手でポンポンと軽く叩きつつ、さも当然のことのように驚きの発言を繰り出してきたのだ。
「ここに座って、お前が食べさせてくれ」
「……ええッ!? 私が桜小路さんに食べさせるんですか? しかも足の上で!?」
驚いた私が桜小路さんのことを二度見して、聞き返すのも無理はないだろう。
「あぁ、そうだ。聞こえたなら何度も言わせるな」
「ど、どうしてそんなことしなくちゃいけないんですか?」
「お前に免疫を付けるために決まってるだろう? 分かりきったことを訊くな」
「……で、でも。何も足の上でなくてもいいんじゃ」
「少なくともこの一月で、俺とお前が恋仲であるというのを周囲の者、特に継母に印象づけておかなければならないんだ。ゴチャゴチャ言ってないでさっさとやれ」
けれども私がどんなに反論を試みようとも、頑なな態度を崩す気配のない桜小路さんがやめてくれるはずもなく、結局はお言葉通りに従う他に道はないのだけれど。
いざ、桜小路さんの前に進み出ると、羞恥のせいで、真っ赤に染め上がった全身を竦ませて立ち尽くすことしかできないのだった。
そんな私に向けて、意外にも優しい笑みをふっと零した桜小路さんから、これまた思いの外優しい声音が聞こえてきて。
「そんなに怯えるな。取って食ったりしないから安心しろ」
その声に、羞恥と怖さでいつしか閉ざしていた瞼を上げると、声音同様の柔和な微笑みを浮かべた桜小路さんのイケメンフェイスが待っていた。
いつも無愛想を決め込んでいる、桜小路さんの王子様のような優しい笑顔に、思わず魅入ってしまった私の胸が、何故かきゅんと切ない音色を奏でた。
おそらく、驚きすぎたせいだろう。けれどそれも一瞬のことだった。
不躾に凝視したままでいた私の視線が不快だったのか、私の視線とかちあった途端、ハッとしてすぐにいつもの無愛想な表情に戻ってしまった桜小路さんから、
「いつまで突っ立っている気だ? さっさとしろ」
安定の無愛想で不遜な声音でお叱りを賜ってしまった私は、飛び上がるようにして足の上へと飛び乗っていた。
桜小路さんの足の上でちょこんと正座の体勢で座っている私は、まるでペットのようだ。
そして気づいたときには、私は桜小路さんと正面から見つめ合っていて、知らぬ間に腰に回された腕によりしっかりと包み込まれていた。
どうやら私が落ちないようにしてくれているらしい。
だが、正座から跨るような体勢になったお陰で、互いの身体が密着してしまい、恥ずかしくてしようがない。
命令に従ったまでは良かったが、どうにも不安定で動きにくいし、ちっとも落ち着かない。ちょっとでも動けばバランスを崩してしまいそうだ。
そうなると正面の桜小路さんの身体にぶつかってしまいそうだ。
この場合、ぶつかるというより、自分から抱きつく体勢になるんじゃないだろうか。
ーーそんなの恥ずかしすぎて死ぬ! なんとかそれだけは回避しなければ。
さて、どうしたものか、と思案していた私の眼前に、桜小路さんが片手で器用にフォンダンショコラのお皿を差し出してきて。
「せっかくのフォンダンショコラが冷めてしまう。早くしてくれ」
急かすようにそう言われ、慌てた私はお皿を受け取り、漸く任務に取りかかった。
けれどこれが結構難しい作業だったのだ。
そもそも他人に食べさせたことがない上に、この状況なのだから無理もない。
「あの、もっと大きく口を開けてください」
「あー」
「もうちょっと大きく」
「あー」
「もう一声」
何度かこのやりとりを繰り返していたのだが、どうにもうまく食べさせることのできない私に、とうとう焦れてしまった桜小路さんから、この後、不機嫌な声音が放たれることとなるのだった。
夕食前で空腹だろうし、焼きたての芳ばしい香りが立ち込めているのに食べられないんだから、そりゃ機嫌も悪くなるだろう。
「あー、もう。さっきからまどろっこしい。そんなんじゃいつまでたっても食えないだろう。もういい。代わりにお前が口を開けろ」
桜小路さんの苛立ちに満ちた強い口調にビクッと肩を跳ね上がらせた私には、命令の意図を考えるような猶予などなかった。
言われるがままに口を開け、スプーンを持った桜小路さんの手により器用に納められた、とろりと蕩けた濃厚なチョコレートソースがなんとも美味しいフォンダンショコラは、当たり前だが、私が食べるためじゃない。
私がそのことを察した時には、時既に遅し、後頭部を引き寄せられた私の唇には、桜小路さんの柔らかな唇が隙なく重ねられていた。
驚愕し瞠目してしまっている私の視界一杯には、桜小路さんのイケメンフェイスがデカデカと映し出されている。
だからって、どうすることもできない私はフリーズしたままで、桜小路さんの唇や舌によって、フォンダンショコラが綺麗さっぱり回収されていくのをただただ待っていることしかできないでいた。
咥内で桜小路さんの熱くてざらつく舌が縦横無尽に蠢くたびに、どちらのものかわからない甘ったるい吐息と甘やかな唾液とが溢れてきて、今にも溺れてしまいそうだった。
それは一瞬ではなく、結構な時間をかけて、ご丁寧にも咥内で蕩けたチョコレートソースを舌で、何度も何度も掻き集めるようにして、桜小路さんは私のファーストキスと一緒に掻っ攫っていったのだった。
お陰で、桜小路さんの唇が離れてからも、腰が抜けたような妙な感覚に陥った上に、咥内で蕩けたフォンダンショコラの甘さにすっかり酔わされてしまっていて、未だ放心状態だ。
対して桜小路さんは、昨日と同じで、いつもは無愛想極まりないイケメンフェイスに、なんとも言えない、蕩けてしまいそうなほど幸せそうな表情を湛えて、味を噛みしめるようにして、瞼を閉ざしてしまっている。
そんな桜小路さんは、亀を大事にするだけあって、意外と面倒見がいいようで、茫然自失状態の私のことを落ちないように、自分の胸板へとしっかりと抱き寄せてくれている。
そして私は、あんなに恥ずかしいと思っていた桜小路さんの胸に顔を埋め、全てを委ねるようにして自らしなだれかかっていたのだった。
放心して桜小路さんの胸に寄りかかっていたはずが、私はいつの間にか眠っていたらしい。
きっと専属パティシエールとしてここに来てからまだ三日ほどしか経っていないのに、この短期間の間で色んなことがあったせいで、精神的に疲れていたんだろう。
すっかり寝入ってしまっていたらしい私が目を覚ましたときには、桜小路さんの寝室のベッドに寝かされていた。
そして驚くことに、桜小路さんの腕の中だったのだ。
どうやら、ずっと傍に寄り添ってくれていたらしい。
目を開けたその先に、桜小路さんのイケメンフェイスがあったもんだから、吃驚仰天。
おまけに、口の中のフォンダンショコラと一緒にファーストキスまで掻っ攫われてしまった、あの場面を思い出してしまったもんだから堪らない。
朝目覚めた時のようにしっかりと腕の中に閉じ込められていた私は、桜小路さんの胸を両手で押し退けるようにして思いっきり突き飛ばしていた。
けれどもチビの私との身長差が約三〇センチという高身長で成人男性である桜小路さんには少しも敵わないのだった。
代わりに、転た寝をしていたらしい桜小路さんから、
「……ん? あぁ、やっと目を覚ましたようだな」
寝起き独特の微かに掠れた艶のある低い声音がかけられた。
そして何を思ったのか、私の身体は軽々ヒョイッと抱き上げられて、横向きから仰向けの体勢になった桜小路さんの胸の上へとのっけられてしまうのだった。
「……ッ!?」
「腹が減ってるだろう? 待ってろ。今持ってきてやる」
あまりの羞恥に言葉を失い、全身を真っ赤にさせてあわあわしている私に向けて、そう言ってくるなり起き上がろうとする。
その桜小路さんの優しい気遣いも意外だったけれど、そんなことよりも、こんなにも心を乱されている私とは違って、意識しているような素振りを全く見せない桜小路さんの態度に、無性に腹が立ってきた。
少々性格には難があるけど、日本最大の財閥系企業の御曹司だし、王子様みたいな見かけなのだ。
ーー女性にモテない訳がない。
いくら化学物質過敏症で香水や化粧にも反応しちゃう体質だからっていっても、この様子だと、きっと今までたくさんの女性とキスだけじゃないことも山ほど経験してきたに違いない。
そんな桜小路さんにとったら、キスなんて挨拶するような簡単なものなのかもしれない。だけど、私にとってはファーストキスだったのに。
なのにあんないきなり、フォンダンショコラを食べるついでに済ませるなんてあんまりだ。
別に夢を抱いていた訳でもいし、今まで大事に守ってきた訳でもない。
ーーけどせめて好きな人としたかった。
本当は昨夜、色々文句を言ってやろうと思っていたのに、桜小路さんのお陰で言えずじまいだった。そのこともあり、それらが堰を切ったように溢れて止まらなくなってしまったのだ。
そんなわけで、この数日で募りに募った感情が大噴火を起こしてしまった私は、大粒の涙をポロポロ零しつつ、今まさに起き上がろうとしていた桜小路さんの、スーツのジャケットを脱いだだけでまだ緩めたネクタイが締められたままのワイシャツの襟首を引っ掴んだ。
そうしてそのまま桜小路さんに言いたいだけ喚き散らした。
「何が、『腹が減ってるだろう?』だ。そんなこと気遣うくらいなら、キスなんかするなッ! バカッ! バカバカバカバカッ! ファーストキスだったのにッ! 返せッ! バカッ! おたんこなすッ!」
散々、好き勝手に喚き散らした直後には、桜小路さんの胸に顔を埋めてワンワン泣き出してしまっていた。
まるで小さな子供が癇癪を起こしたように泣きじゃくる私のことを、驚いた様子の桜小路さんは、なんとか宥めようとしてか、「おい、落ち着け」とか、「謝るから泣き止んでくれ」とか言って声をかけてくれていたようだったけれど……。
そんなことに耳を傾けるような冷静さなんて失ってた私は、なりふり構わずワンワン大泣きしていた。
暫くしても興奮は収まらず、ただただ大泣きすることしかできない私のことを、桜小路さんはただ黙ったままで背中を何度も何度も優しく擦ってくれていたようだ。
そして漸く私が泣き止んだ頃には、またまた桜小路さんの胸に顔を埋めたまま放心してしまっていた。
そんな私に向けて、ホッとしたような笑みを浮かべた桜小路さんから、笑み同様のホッとしたような声音が聞こえてくる。
「やっと泣き止んでくれたようで、ホッとした」
けれどすぐに、付け加えるようにして、
「お前に泣かれると、どうすればいいか分からなくなる。頼むからもう泣かないでくれ」
そう言ってきた桜小路さんの声も表情もとても悲しげで、何故か私の胸はキリキリと締め付けられるような痛みに襲われてしまうのだった。
どうやら、昨夜、不器用ながらも濡れタオルを用意してくれたり、謝罪してくれたりしていたのは、別に私のことを慰めてくれたんじゃなくて、ただ泣かれるのが嫌なだけだったらしい。
ーーなんだ、そうだったのか。でもどうして、こんなに胸が痛くなっちゃうんだろう……。
私は自分の抱いてしまった不可解な感情に戸惑うばかりだった。
ーーな、何をがっかりしちゃってんの? 私ってば。
そうじゃなくて、今はファーストキスのことでしょ!
いけない、いけない。桜小路さんがやけに申し訳なさげに言うから危うく煙に巻かれてしまうところだった。
こうして私は、ようやっと正気に戻ることができたのだった。
同時に、すっかりなりを潜めつつあった怒りがふつふつと腹の底からこみ上げてくる。
再度攻め立ててやろうと、体勢を立て直すためにも正面に見える桜小路さんの爽やかなネイビーとサックスのレジメンタルのネクタイをぎゅっと締め上げるように引き寄せた。
「……おっ、おいっ!?」
途端に、恐ろしく均整のとれたイケメンフェイスを苦しげに歪ませて抗議するように声を放った桜小路さんに向けて。
「何が、『頼むからもう泣かないでくれ』だ。元はといえば、あんたがフォンダンショコラを食べるついでにあんなことしたからじゃないかッ! 私のことなんか好きでも何でもないクセに、あんなことするなんて信じらんないッ! キスくらい、好きな人としたかったのにッ!」
勢い任せにぶちまけてやったのだった。
鼻息荒く言い終えた私が桜小路さんのことを正面から見据えて、はぁはぁと肩を上下させながらトドメとばかりにネクタイをぐいっと締め上げようとしたその瞬間。
状況は一変することとなる。
突然、私の身体が背後に傾いたかと思った時には、既にふかふかのシーツの上に横たえられていて。私が引っ掴んでいたはずのネクタイは、桜小路さんの手によって綺麗さっぱりワイシャツの襟元から抜き取られていて。
そしてそのネクタイは、私の顔のすぐ横にパサリと舞い降りてきた。
いきなりのことで頭が追いついていかない私の眼前には、桜小路さんのイケメンフェイスが息のかかる至近距離まで迫っている。
どういう状況か説明するまでもなく、私はベッドの上で桜小路さんに組み敷かれているのである。
この状況だけでも、私にとっては結構なハードルだというのに、無表情を決め込んだ桜小路さんが、知らない男の人のようで途端に怖くなる。
羞恥と恐怖とでぎゅっと瞼を閉ざした私の耳元に唇を寄せてきた桜小路さんは、これ以上ないくらいに身体を小さく縮めてどうにかやり過ごそうとしている私に、ふっと柔らかな笑みを零してから、
「そんなに怖がらなくても、今すぐ取って食ったりしないから安心しろ」
確か、ファースキスを奪われる前にも言ってたこととなんら変わらない台詞が放たれた。
ーーもう騙されないんだからッ!
「そんなこと言って、ファーストキス奪ったくせにッ! 嘘つきッ! もう信じないッ!」
怒り心頭に発するで放ったまでは良かったのだが……。
「……あれは、お前の見せる反応がいちいち面白いものだったから、つい。悪かった」
意外にもあっさりと自分の非を認めてきた桜小路さんにまたまた唖然とさせられ、勢いを削がれてしまうのだった。
ー ーいやいや、だから、そんなの謝ったうちに入んないから。
『反応が面白い』とか、『つい』とか言われちゃってるし。
またまた誤魔化されそうになってしまった私が自分を律して、いざ目をがっと見開いたと同時。
なにやらシュンとした表情で私のことを心配そうに見下ろしている桜小路さんの瞳とかち合ってしまい、たちまち心臓がどくんと大きく跳ね上がった。
そしてここぞというタイミングで、桜小路さんから今度は強く意志のこもったしっかりとした声音が放たれて。
「でも、これだけは信じて欲しい。昨夜も言ったが、好きになれそうにない女を傍に置いたり、キスをしたりするのには抵抗があるし、他の女が泣いてもなんともなんとも思わないが。お前のことは泣かしたくないと思うし、泣かれたらなんとかして泣き止ませたいとも思う。勿論、機嫌を直してもらいたいとも思ってる。どうしたら機嫌を直してくれる?」
「……どう……したらって」
畳み掛けるようにして、これまた意外なモノが次々に飛び出してきた。
立て続けにお見舞いされた私は、無意識に声を漏らすも、頭が混乱している上に騒がしい鼓動が思考の邪魔をして、喉がつっかえたように二の句が継げないでいる。
そこへ、なにやら閃いたというような表情を湛えた桜小路さんから、
「そういえばさっき、『キスくらい、好きな人としたかったのにッ!』って言ってたよな?」
唐突に、念を押すように問い返されてしまい。
「……へ?」
意表を突かれてしまった私は妙な返しをしてしまうのだった。
そんな私に向けて、今度は昨夜見せたような黒い笑みを湛えた、そのやけに妖艶な色香を纏った桜小路さんの表情に不覚にも見蕩れてしまっている私に対して。
「てことは、お前は好きな男になら何をされても許せると言うことだよなぁ?」
桜小路さんは、相変わらず黒い微笑を湛えて尚も意味ありげに訪ねてくる。
なにやら嫌な予感がして、けれど桜小路さんの圧倒的色香とその気迫に圧されてしまっている私は、何もできないままただただ見つめ返すことしかできないでいた。
「ならお前には、俺のことを好きにさせてやる。そうしたら文句はないだろう?」
そんな私に向けて、やけに自信たっぷりな口ぶりでそんなことを言ってくるなり、桜小路さんはドヤ顔を浮かべている。
そんなドヤ顔で言われても、絶対そんなこというような、あなたのことなんて好きになりませんから。
ーーいやいや、絶対に好きになるはずがない!
「そんなの横暴です。あなたのことなんか絶対に好きになんかなりませんッ!」
「言ったな? 自慢じゃないが、これまで俺のことを好きにならなかった女なんて誰ひとりとして存在しない。絶対に好きになるに決まっている。賭けてもいいぞ?」
内心では威勢のいいことを散々喚いてはいるが、桜小路さんの圧倒的な色香と気迫の前では、為す術なく睨み返すことしかできないのだけれど。
それでもこればっかりは譲れない。
おそらくこれが桜小路さんに対抗できる最後のチャンスなのだからーー。
「望むところです。その勝負受けて立ちますッ!」
私は声高らかにそう言い放っていた。