幼き頃の思い出!?
お皿は割らずに済んだものの、テーブルに当たってしまう。ガチャンと派手な音がして、そこに、菱沼さんの鋭い指摘が飛んできた。
「おい、チビ。気をつけろ」
けれど今はそれどころではない。
「あのう、菱沼さん。どうして私にそんな大事なことを話してくれたんですか?」
私には、執事とか秘書とかって仕事がどういうものなのかよくわからない。けど、少なくとも、雇い主のプライベートな情報を他人に漏らしたりはしないと思う。
ましてや、誰よりも仕事に矜持と情熱を持っていそうな菱沼さんが、そんなことするはずがない。
私の言葉に、一瞬、驚いたような表情を覗かせた菱沼さんは、すぐに澄ました執事仕様の顔に切り替えて、実にあっさりと答えてくれた。
「どうしてって、試用期間とは言え、お前は創様の専属パティシエールなんだ。それに、俺にとっても同じ職場の仲間でもある。創様に関する情報を共有するのは当然だろう?」
確かにそうだけど。なにやら引っかかるような気がして、釈然としないのは何故だろう。
菱沼さんの真意を探ろうと顔をジッと見つめてみる。
そんなことをしたところで、何も分かるはずもないのだが、凝視したままでいると、そこへ。
「それに、創様の反応がよく分からなくて、酷く不安げだったからなぁ。そのまま見て見ぬふりをして、うっかり者で出来の悪い同僚がヤル気をなくして、余計な仕事を増やされても困るからな」
厭味ったらしい口調で意地の悪いことを言ってきた菱沼さんの言葉に、まんまと食いついてしまった私の関心事は、桜小路さんのお母様の方へと移っていった。
「そんなことでやる気をなくしたりしませんッ! それより、情報を共有していいなら、訊いてもいいですか? 桜小路さんのお母様のこと」
こうして、一応私のことを同僚として認めてくれていたらしい菱沼さんから、桜小路さんのお母様の話を聞かせてもらうことになった。
何でも、元々病弱だったらしいお母様は、桜小路さんを出産された翌年には、心臓病を患い入退院を繰り返していたらしい。
その間、お父様も仕事が忙しく、一人っ子だった桜小路さんは、ベビーシッターや使用人の方々と過ごしていたそうだ。
桜小路さんが三歳になる頃には、寂しい思いをさせたくなくて、できるだけ自宅で養生していた。使用人の手を借りながらではあったが、得意だった料理やお菓子作りを、桜小路さんと一緒に楽しんでいたのだという。
その頃は体調も良く、桜小路さんのために、何か良いことがあったときや特別な日には、紅茶好きだったらしいお母様がダージリンのセカンドフラッシュの茶葉を入れたシフォンケーキを焼いてくれていたらしい。
それにいつも添えられていたのが、桜風味のホイップクリームだったのだという。
なぜなら、桜小路さんが四月に生まれたから。
それが大好物だったらしい桜小路さんは、毎回お母様が心配になるほどたくさん食べていたらしい。
それもご家族だけでなく、たくさん焼いて使用人にも振る舞われていたため、菱沼さんも何度か食べたことがあったらしい。
それどそれも長くは続かず、桜小路さんが五歳を迎えた頃には、再び入退院を繰り返すようになったそうだ。
ある夏の日、お母様が外泊されて帰ってきた折、お祭りに行ったことがなかった桜小路さんをお父様と一緒に下町のお祭りに連れて行き、久々に家族水入らずで楽しいひとときを過ごしたのだという。
その時に、出店でミドリガメをもらって帰ってきたのが、カメ吉なのだそうだ。
それから一ヶ月ほどして秋を目前に控えた頃、お母様は病院で静かに息を引き取ったらしい。
だから桜小路さんにとっては、シフォンケーキもカメ吉も、大好きなお母様との大切な想い出そのもの、なんだそうだ。
ちなみに、桜小路さんのお父様は、まだ幼い桜小路さんに母親が必要だという周りからの強い勧めにより、その一年後には再婚したそうだ。
腹違いで今年二十歳を迎える弟も居るそうだが、折り合いが悪く、桜小路さんは高校を卒業して以来、ずっと菱沼さんと一緒にこのマンションで暮らしてきたらしい。
話を聞き終えて……
――いくら裕福な家庭に生まれたからって、幸せとは限らないんだなぁ。もしかして、無愛想なのも、口が悪いのも、そういうことが影響してるのかな。
なんてことをしんみりと思っていると、昔のことを懐かしむように遠くを見つめるようにして語ってくれていた菱沼さんがボソッと呟く声が聞こえてきた。
「まぁ、どんな家庭も色々あるだろうが、裕福な家庭ほど複雑なのかもしれないなぁ」
「え!?」
視線を向けると、どうやら無意識に呟いてしまっていたらしく、菱沼さんがすぐに仕切り直してくる。
「……あぁ、いや。とにかく、そういうことだ。くれぐれもカメ吉に粗相がないように頼む。それと、創様がシフォンケーキを食べたいとおっしゃったら、何を差し置いても応じて差し上げろ。分かったな?」
「はいッ!」
仕事モードに切り替えた菱沼さんの言葉に、私は気合いも新たに元気よく答えてみせたのだった。