表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

範鳩里

作者: 渡邊朱倫

町中華で彼の国への印象を育んだ者による微妙なファンタジー。

 一


 (はん)(きゅう)()が再びこの世に現れたのはずばり第二次国共内戦の時代だ。両軍の兵士らの鋤によって遺構、文書が掘り起こされたが、戦火に消えた。今はスマホ工場になっている。


 二


 稿(こう)(けい)は女に生まれながら、「儒者」の(たん)(ぴょう)に事え『論語』を学んだ――

 但その写本ときたら誤字だらけで、しかも隷書とも楷書とも採れぬ奇怪な字体と書体で綴られていた。そして稿慶はおろか、胆冰すらも一字一字の漢字の字義や音、自らの口語との関係を理解できない。「論語読みの論語知らず」以前の段階である。

 例えば「己不欲所、勿施於人」の「施」が「旋」になっている。ひとにまはることなかれ、とはなんぞや。胆冰も理解に苦しむ。

 言ってしまえば胆冰も碩学ではなかったのである。『論語』とて、昔の孔丘という人の謎の語録、程度にしか思っていなかった。そしてこれを「学ぶ」と遠い土地の王に迎えられ、事務労働の引き換えに美味い獣肉の羹を毎日鱈腹食べられるという、さもしくも素朴な認識だった。

 稿慶の母は胆冰に、月一斗の米を授業料に差し出していたそうである。但しこの「斗」は実質、範鳩独自の単位であった。


 三


 範鳩は峻厳な山地の窪みにある事実上の都市国家であった。人口は最盛期――外界は安史の乱で荒廃しかけている頃――ですら三桁に満たなかったという。因みに稿慶や胆冰と同時代の範鳩民は一応「客家の亜流」を自認していた。但、客家も――見知らぬ土地に客家が現存することも――彼等にとっては伝説でしかなかった。有名な方形の共同住宅も、単に家族ごとの家屋を四角く並べた代物に変わっていた。

 範鳩民は食にはあまり不自由していなかった。穀物は米、大麦、粟、稗、畜肉は異様に赤い鶏肉、羊肉、野菜は|萵苣|ちしゃ》や蕪が採れた。髪を結う習慣はなく、稿慶もボサボサの長髪だった。外界への道は獣道しかなく、寧ろ人が如何にして範鳩に集落を作ったのかが全く不思議であった。

 範鳩には王はいた。寧ろ王の他には農民や鍛冶屋しかおらず、王自身も彼等なりの歴史観故に、好き勝手をすれば悲惨な最期を迎えたり後世に恥を残したりすることを知っていたから、独裁を避けていた。そして範鳩民は「世襲」を恥とする風潮があったから王子の概念がなく、背丈が高いとか髭が長いとかいった適当な理由で一個人が王に担ぎ上げられる様であった。「民主政」とも違う。


 四


 稿慶が女王に迎えられたのは、先代の王が政に飽きて禅譲を志したのがきっかけだった。「『論語』に通じているのが如何にも王に相応しい」という微妙な点に白羽の矢が立った。胆冰も「儒者」ではあるが若くない。寧ろ胆冰は「昔の倭の女王のような善政がついにこの邑にも敷かれる」と大喜びした。「倭」の存在も、中途半端に『魏志』を齧って知っていたらしい。

 稿慶は早速粟や稗の生産量の割合を高める勅令を出した。果して冷夏で米が不作となり、代りに雑穀が有難き糧となった。稿慶の名声は一段と高まった。無論、こんな政策は儒学とは――況や胆冰の「儒学」とも――関係ない。


 五


 そして稿慶は一事業を命じた。外界への獣道を人が安全に通れる道に改装するというのである。そして民衆に獣道の岩を鶴嘴で砕かせたり、樹木を伐採させたりする訳だが、現地に王自らが赴いた。好奇心をそそられての行為だったらしい。

 そして一国民が砕いた岩の破片が稿慶の脳を撃った。いちころだった。後に人道を開拓した者も或る者は崖に落ち、或る者は虎の餌食となった。

 胆冰は崖から身を投じた。或る種の虚無感かららしい。

 なんとか隣の邑への人道を作った数人も散り散りになり、二度と範鳩に帰らなかった。寧ろ耕作能力を上手く買われたらしい。範鳩言葉も、あっさり忘れ去られた。


 六


 今でもスマホ工場の近くの村では、真っ赤な鶏肉が採れるそうである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] これは凄いです。 本当に驚愕しました。 知識がなければここまでこの話を綴り取り纏めるのは まず真似出来ません。 魅力的な作品になりそうです。 [気になる点] 具体的に登場人物を含め今後の展…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ