BET-8 科学色の小悪魔
――私が最初に彼女を知ったのは、入学して間もない頃の講義中だった。
この時期一年生が学ぶのは当然ながら一般教養。専門性の高い講義が始まるにはまだまだ時間がある。自慢じゃないが受験の為に必死こいて勉強して、まだ貯金がたっぷりあった頃の私には易し過ぎて退屈なもの。しかし、私の通う東都大学はそこそこ名の通った私立なので、付属から上がってくる子も多いから、受験組と学力レベルを統一しなくてはならないのだ。
私の横でノートを広げているのは、その頃は知り合ったばかりだったかりん。真面目な彼女は講師がスライド式の黒板に書く何から何まで、それどころか色ペンに持ち替えて重要と思った発言まで書き留めている。
私の方はと言えば、太字で書かれる単語と意味だけ申し訳程度に書き写すのみ。退屈しのぎにペンを回し、窓の外を眺める。何が悲しくてこんな天気の良い日に教室に、閉じ込められなきゃいけないんだか。
「どうせ由佳は外に出ても何もしないでしょ?」
かりんが手を止めてくすり、と笑う。
まあ確かに、外を元気よく走り回ってスポーツするのが好きなクチでもない。高校時代にはラクロスをやっていたが、スカート翻しながら華麗にボールを扱う姿に憧れただけで、別に運動好きというわけじゃなかった。始めてみて、傍から見てるような可憐なスポーツじゃないとすぐに気付いたが、弱小部活だったので辞めるに辞められず三年間。おかげで、走りだけならそこらの男子に負けないぐらいにはなった。
実際普段私が晴天の下ですることと言えば、屋上でコーヒーを飲んだり、適当な服屋を巡って冷やかすだけ。かと言って、狭い1LDKのアパートに帰っても特にすることは無く、テレビを見たり宿題を片付ける程度。趣味を訊かれたら、大して数見ていることもないのに映画鑑賞と答えておく。
かりんは何を普段してるんだろ? イメージ的には木陰のテーブルで編み物をしていそうだ。講義中なのであまりべらべらと喋るわけにもいかず、彼女の横顔からテーブルクロスを編むかりんを想像していると、ずっと板書を書いていた講師が学生に向き直って質問をした。
「じゃあ……そこの君。日本とユーラシア大陸の間にあるここは何と言う?」
授業分野は地理。小学生レベルの質問をして、慣れない場所で講義を受ける新入生の緊張でも解こうと考えたのだろう。最前列付近に座っていた一人の女の子を講師が指した。
指されたのはちょっと長めのボブカットをした小柄な子。ぱっちりとした愛嬌のある目で、寡黙そうな色の薄い唇をしていた。何かアルファベットが大きく描かれた服の上に地味な色の上着を着て、ボーイッシュなジーンズを履いていた。靴まではここからじゃ見えない。
やや垢抜けない感じが逆に好印象で、知らず知らずの内に私はじっくりと彼女を観察していた。動物で例えるならシマリスだろう。何故かこんな簡単な質問になかなか答えない。思った通り、無口な質なのだろうか?
そしてやっと口を開いた。私も心の中で彼女と合わせて回答する。
――日本海。
「……食塩水」
――…………。
間違ってない。間違ってはいないんだけど……何か、間違ってる。
講師も何とリアクションを取っていいか、戸惑っている。苦笑いを始めた講師と、頬杖をつきながら無表情に見つめかえす女の子。両者の間の微妙な空気が教室に広がって、全体を飲みこんだ。
そんな周りの反応も気にせず、指された子は続ける。
「より正確に言うには塩化ナトリウム水溶液、NaClaq。……と言うか、もっと正確にポイントを示して下さい。マグネシウムイオンやカルシウムイオンの含まれる割合が、海域によってかなり違うんですよ」
「…………」返す言葉の無い講師。
広い教室中誰も微動だにしない。私は画面の中の静止画を眺めているような気分になった。
当の発言者本人はようやく異変に気がついたらしく、辺りをキョロキョロと見回した後、ペンを持って板書写しに戻った。
「えーっと……、まあ日本海ですよね」
無理やり事態を収束させる講師。再び黒板に向き直った彼の背中からは、社会のタブーに触れた小学生のような焦りが感じられた。
「すごいね……誰だろう? あの子」
かりんが前を向いたまま、誰となしに言う。流石のかりんもこの時ばかりは具体的な反応が思いつかず、「すごい」の一言でしか言い表わせないようだった。
確かにすごい。質問側の意図をあれだけスルー出来るずぶとさとか、予想の斜め上を行く回答とか……。
何事も無かったかのように黙って講義を受け続ける女の子。私は無意識のうちに彼女を「苦手な人リスト」に加えて、講義で見かけてもなるべく離れた席に座るようになった。――――
――――そしてあの事件、高槻が死んでから三日後のこと。私は一人、生協の学生食堂にて昼食をとっていた。
三日前まではかりんや他の友達と一緒に食べていたお昼ご飯。知り合いが、一緒にどう? って誘ってくれることはよくあるんだけど、何となく気が乗らなくて断っている。みんなと食べる気にはならない癖に、一人で食べるのは味気ないなどと考えている自分の生意気さがじれったい。
かりんは今頃どうしてるのかな――――?
世間では大学で起きた殺人事件を大々的に報じ、連日門のところにマスコミが大量に集まっている。犯人が現職の国会議員の娘だというのも、好奇の目に拍車をかけているのだろう。かりんのお父さんは事件発生の当日の内に辞職会見を開いた。
「被害者とそのご遺族には本当に、何と言って良いのか分からず……世間をお騒がせして、真に申し訳ありませんでした」
涙ながらに頭を下げるかりんの父親の姿は立派なものだったが、それを報道する記者たちは揚げ足を取るような質問ばかりで、“殺人犯の父親”というレッテルを彼に貼るのに必死だった。私自身も、かりんのした事は父親が頭下げて辞職したぐらいじゃ済まされないことだと思うが、あまりに強すぎる風あたりに釈然としない。
やっぱり殺人なんて割に合わないのだ。私は正直、高槻を殺そうとした時にその後の自分の事は考えていたが、家族や友人がどうなるかまでは考えていなかった。今、かりんの家族はどんな気持ちなんだろう? 悲しい? 申し訳ない? せめて、あんな子生れなければ良かった、なんて考えていない事を祈りたい。
そして、そんな残された人として事件を憂うには彼女と遠すぎて、赤の他人として傍観するには親し過ぎる私が居る。私に出来るのはただ、目を背けずに今後のかりんと家族を見守ることだけで、実質的には何もしていないのと一緒のそれは、何もしないより辛かった。
私がもっと早く彼女の弱さに気づいてあげられてれば――――毎日そんなことばかり考えて過ごしている。講義にも身が入らない。ただ朝起きて、電車で登校して、教室でぼーっとして、帰ってくるだけだった三日間。いい加減止めにしようと思うのだけど、私が気丈に振舞うのはかりんへの裏切りのような気がして、体が躊躇する。
――――よし! そろそろ食べて、元気出そう! そう思って味噌汁に口をつけた瞬間、いつの間にか向かいの席に人が座っているのに気付いた。
誰かと言えば、あれだ、例の彼女である。日本海を食塩水と言い切った例の彼女だ。
福神漬けを大量に盛った大皿カレーをトレイに載せて、黙々と食べている。その小さな口からは想像も出来ないスピードで切り崩されていく白米、すくい上げられていくルゥ。小柄な体に似合わない食いっぷりに、思わず私は目を見開いた。
食堂で彼女を見るのは初めてだった。が、そのあまりの勢いに私は僅かに椅子を後ろに引いてしまう。小動物系の可愛い女の子なのだが、とても今はそんな事考えていられない。子供は動物園の白クマを可愛いと言うけれど、初対面が血を口の周りに付けながら、生魚を食らうお食事シーンだったらドン引きだろう。
小動物少女の肉食獣な一面を目の当たりにして、若干の戸惑いを隠せない私に余計な考えが浮かんだ。すなわち、話しかけようという算段である。
多分数日間ほとんど人と会話をしていなかった私は、他者とのコミュニケーションを求めていたのだろう。一人で食べる食事を味気ないと思っていたからかもしれない。
「ねえ、あなた講義で同じクラスの子だよね?」
機械的に動いていた彼女の手が、カレーを載せたスプーンを持ったまま止まる。
マズイ! 私はうかつに彼女に質問を当てた講師がどうなったかを思い出す。
手を止めたまま、じっ、と私を見つめる女の子。顔つきも目がクリクリとして、体つきと同様に幼い。
「あ、いきなり声かけてびっくりした? 実はね、あなたが授業中に当てられて塩化ナトリウム水溶液って答えたとき、私も同じ講義に居たんだ」
「…………」じぃ――――っ。彼女は私をみつめたまま。
「何かさ、先生は変なリアクションしてたけど、海水だって食塩水だもんね」
「…………」じぃ――――っ。
「NaClってさ、何か良い響きだよね! いかにも、“食塩!”って感じでさ。カッコイイよね!」
「…………、良いよね」
おっ! 反応したよ、この子。
まさに動物園でパンダがこっち向いた気分だ。ずっと背中を向けられていた後だと、その顔は数百倍可愛く見えるもの。
「うん。私もそういうの、良いと思う」
“そういうの”が何かも自分で分からないまま彼女に乗っかる。一度声をかけてしまった以上、相手の言う事は何でも賛成しておくのが無難だろう。
――でも、それが失敗だった。
「良いよね! 最高だよね! もうさ、塩素とナトリウム組み合わせようとした、って所から完璧じゃない? 真っ白に染め上げちゃう塩素が、すぐに熱くなる熱血漢のナトリウムとセットだよ! こんな夢の共演他に無いよねっ!」
――……はい?
突然声のトーンもボリュームも最大になったこの女の子。スプーンを皿に放り出して、身を乗り出し私の手を握り上下にシェイク。目はランランと輝き、無口そうな印象を一気に吹き飛ばす情熱を宿している。
言ってる事もやってることも、正直訳が分からない。
「きっと生真面目さと情熱を兼ね備えた素敵な秀才、そんな彼だから、氷の温度を-21℃まで下げられるんだわ! あえて例えるならジョニー・デップ! ああ、アタシも冷やされたい……」
やっと私の手を離したかと思えば、「消毒作用まで持ってるなんて完璧ぃー!」と自分の頬に両手をやって顔を赤らめている。一連のマシンガントークで私たちが居るテーブルの端は、多くの学生たちの注目を集めてしまっている。
――何なのよ、この子……。
「あれ? 黒御簾さん、彼女のお知り合いだったんですか?」
向かいで自分の世界に入り込んでしまった女の子を前に、顔をひきつらせていると、聞き覚えのある声がした。
「相変わらず、あなたの周りはいつも騒がしい」
「唄方くん!」
三日ぶりに会う彼は、私のイメージする唄方くんとは若干服装が異なっていた。
まず、メガネをしていない。髪は相変わらずだが、服は意外と長い脚にマッチしたスリムなパンツに有名ブランドの半袖、肩には江戸時代の遊び人を思わせる、和風モダンな霞模様の綿シャツを羽織って、手に持った扇子をパタパタとやっている。
「メガネはどうしたの?」
「あの時は学生になりすましてましたから。今のが自分のお仕事モードってヤツですね」
確かに、江戸の遊び人を現代チックにしたようなコーディネートは、飄々とした彼の性格にピッタリだ。今の彼なら、違和感なくギャンブラーと呼べる。
「あっ! ミッチーだ!」
唄方くんに気付いた例のボブカットの子が、彼に抱きつく。小柄な彼女と唄方くんじゃ身長差が結構あるので、脇腹にしがみつく形になる。
ミッチー……? と考えて、唄方くんの名前が道行だったことを思い出す。
「祐善さん、二十歳手前の男にミッチーは止めて下さいよ」
「えー! じゃあ、“ミッチー”と“ウータン”ならどっちが良い?」
「どっちも勘弁して下さい……」
そう言いながら祐善と呼ばれた女の子を、体から優しくひきはがす唄方くん。その仕草は妹を可愛がるお兄ちゃんみたい。
普段誰かと居る様子の無い彼女も、唄方くんにはなついているようだ。
「えっと、唄方くん。この子と知り合い?」
さっきされた質問をそのまま返す。見る限り、私よりこの二人の方が仲良いもんね。
唄方くんは頭の後ろをかきながら、
「ええ、仕事仲間みたいなものです」
――仕事仲間?
彼の仕事というのは当然賭博師だろう。で、その仕事仲間ということは……。
凝視する私に向かって、女の子はポケットから取り出したIDカードを突きつけた。
「鉄火場の賭博師、スペードの5と言えばこのアタシ、“科学色の小悪魔”こと祐善 奈々子のことだよ!」
――私が二度目に彼女を知ったのは、最初の事件の三日後の学生食堂でのことだった。