BET-3 【警察】1.社会の秩序と安全を維持する国家機関。2.噛ませ犬。探偵小説においてはほぼ確実にその意味で用いられる。
「通報を受けて参りました。警視庁の信楽です」
研究室の周りに集まった野次馬をかき分けて、やってきたおじさんが手帳を見せる。
事件発覚から約十分、意外と早いお出ましじゃない。
既に廊下では信楽さんの部下であろう、刑事や制服警官が野次馬を追い払って、「KEEP OUT」の進入禁止テープを貼り始めている。
研究室内に居るのは死体の高槻と私、それから第一発見者と後から呼ばれてきたゼミ生三人組。そこへ丁度今この信楽さんが入って来た。
「警部さん……ですか」
見せられた手帳に書かれた役職を読む。
警部がどれ位偉い人なのかは分からないけど、漫画とかで殺人事件が起これば大抵警部と名乗る人が出てくるわね。
「ええ。この事件の捜査指揮を執ることになりました」 頭に載せた、くたびれている帽子を直しながら「第一発見者というのはあなたですかね? お嬢さん」
どうして中年男性が「お嬢さん」と言うといやらしく感じるんだろう? 私だけかな?
「いいえ。あの隅っこにいる三人組の学生の内の一人です」
部屋の隅で歯をガチガチ言わせながら固まっているゼミ生たちを指す。震えているのは部屋の異様な寒さからか、それとも何かを隠しているのか……。
室温以上に冷やかな視線を私は彼らに送る。
どいつもそこら辺にいそうな顔、むしろどちらかと言えばオタクっぽい。服装は三人揃ってセンスの悪いTシャツと安物ズボンに白衣だ。一気にやってきた大量の警察を見て圧倒されている。
こんな奴らに、かりんは……。
まだ袖口に隠したままの包丁で三人をメッタ刺しにしてやりたい衝動に駆られたが、今死体を三つも増やしたら信楽さんたち警察が可哀そうだろう。
管轄内で殺人が起きるといろいろ面倒だと昔刑事ドラマで言っていた。くすんだ茶色のコートに帽子という刑事のイメージを裏切らない彼は、ドラマと同様に非常に疲れた顔つきをしているから、若者としてはいたわっておきたいのだ。
それにしても本当にイメージ通りだな。ここまで私の想像内の刑事とぴったりならば、きっと懐にはアンパンを常備しているに違いない。
「お話、聞かせて頂けますか?」
信楽警部は私を連れてゼミ生のところへ。
丁寧な口調だが、その奥には選択権を与えない迫力がある。
「え、ええ」
ぼそぼそと三人の内の真ん中、背が低く小太りの学生が答えた。
「死体を発見したのは?」
「この乾です」 小太り学生が斜め後ろに立っている、長身で手入れの行き届いていない長髪をした男を目で示す。「俺が猿渡で、乾と同じ四年生。で、雉山が三年」
全員そこの高槻先生のゼミ生ですよ。と、小太り学生こと猿渡は、床でシートを被せられた高槻の死体を見ながら付け足した。
乾は神経質そうな仕草で髪をいじり、小柄で髪を必要以上にワックスで立てた雉山は、ごめんなさいと言いながらも、内心はまるでそんな気はない生意気な子供のような目で信楽さんを睨みつけている。偏見かもしれないが、チヤホヤされて、我がままに育ったタイプに見えた。
「死体発見時の状況をお聞かせ願えますか?」
「は、はい。俺、二限目の講義が終わったので、暇つぶしに研究室に帰ろうと思って……ドアを開けたらこの通りでした。二限目が終わってすぐだったので、12時20分ぐらいだと思います」
時刻は私の記憶と一致している。それから十分ぐらい野次馬だらけで大騒ぎ。十分で警察が到着して今は12時半過ぎだ。
「とにかく警察に話を聞かれると思ったので、同じゼミ生の猿渡と雉山を電話で呼びました」
「事件の前に被害者と会われたりは?」
「……しました。うちの大学の一限目は9時からなんですけど、一日の講義が終わった後……そのぉ…………実験をする予定だったので、八時ごろに教授も含めて四人で集まって打ち合わせをしてました」
思わず「何が実験だ!」と言いたくなる。逆らえない、か弱い少女をいたぶろうとしていたくせに!
ようやく彼らが怯えている理由が分かった。殺人事件が恐ろしいんじゃなく、自分達の脅迫が警察にばれるのを恐れているのだ。
人でなしめ……こんな状況でも保身のことしか頭に無いのか。
「でも、俺達全員一限目の講義を取ってたから、9時前にはここを出たよ! その時だって教授はピンピンしてたさ。解剖すりゃ死んだ時間が分かるんだろ? さっさと済ませて解放してくれよ!!」
押し黙っていた雉山がヒステリックに声をあげた。
うわぁ……。こいつ思った通り、自分中心のガキまんまだ。相手に対する尊敬心ゼロの語り口に思わず吐き気がした。こいつは信楽さんたち警察を市民の奴隷ぐらいにしか思ってないんだろうな。最低。
私が心の中で思いつく限りの悪態をついている一方で、信楽さんは大人のスマイルを浮かべて対応していた。慣れているのだろう。
「それがそうも簡単に行かなくてですね。はっきりと死亡推定時刻が出るか分からんのですよ」
「どういうことだよ! あんたら警察はそんなことも満足にできないのか?」
「そうでは無くてですね……」
「“室温”……理由はこれでしょ?」
突然ゼミ生三人が居る壁とは反対側、私と警部の背後から声がかかった。
ああ、そういえばこの部屋にはもう一人……。
「居たんですか? 犯人さん」
「おかげさまでね!」
例の謎の男だ。
私の呼びかけに応じてくれた野次馬の野球部員たちに取り押さえられた彼は、縄跳び部が持ってきた競技用の硬いロープで椅子に縛り付けられている。縄跳び部なる部活の存在はまったく知らなかったが、同じ学び舎の仲間の結束が固いのは素晴らしいことだとちょっと感動した。
「何だね? “これ”は?」
信楽警部も今男の存在に気づいたらしく、訝しげな顔で私に訊く。
「警部さん。一応“これ”も人間ですから物称代名詞はやめときましょうよ」
「あなただって言ってるでしょうが!」
男が椅子に縛られたま叫ぶが聞こえない振りをした。
謎の彼は警察の到着まで野次馬から、トマトやら卵やら絵具のチューブやらを、中世の処刑前みたいにぶつけられていろんな奇怪な色と匂いに包まれている。警部がモノ扱いするのも仕方あるまい。
「で、室温がどうしたって?」
「さっきからこの部屋は10℃なんていう冷蔵庫並みの寒さです。当然体の腐敗とか硬直とかの死後の反応も緩やかになりますから、こういう状態に置かれていた死体の死亡推定時刻はすごく幅が広くなっちゃうんですよ」
ねー刑事さん。と媚びるように言う男。縄を解いてもらおうという算段らしい。
「うむ。まあ、その通りだ」
「ていうか早く死体を検死に回してクーラー切って下さいよ。現場保存も良いけど、自分凍え死んじまいます」
わざとらしくクシャミをする男。卵がもろにかかった後ろ髪は、特徴の逆立ち具合が若干下がっている。
「誰が犯人の疑いがある奴の指示になんて従うもんですか!」
思いっきり顔を近づけて睨んでやる。
そして、ずっと考えていた疑問をゼロ距離でぶちかました。
「第一! あんた何者?」
「自分は唄方 道行、テッカバの者ですよ!」
意外な返答だった。
まさか……こんなただの寝癖坊やがあの「鉄火場」の……?
「疑うんなら刑事さん、自分のポケットの財布を見てください」
刑事じゃなくて警部なんだが、とぼやきながら椅子に固定された彼の尻ポケットを探って、黒革の財布を取り出し開ける。
途端に目を見開いて驚く警部。
「まさか……確かにこいつは鉄火場の連中のIDカードだ」
警部の手元を覗き込むと、白地のカードに「TEKKABA」というゴシック体の文字と、目の前にあるのと同じ顔の写真がついていた。若干目の前にある方はトマトで汚れているが。
「しかもこいつは……」
警部がカードを裏返すと、そこにあったのはトランプの図柄だった。
スペードの7。普通のトランプとは微妙にマークや数字のデザインが違うが、剣を象った七つのマークと対角にある数字はどう見てもトランプだ。
「数札持ちか……」
数札持ちの意味はよく分からなかったけれど、少なくとも信楽さんがものすごく驚いているのはよく分かった。