BET-2 【実現】1.物事が実際に起こってしまうこと。 「世の中では望まれないことの方がよく―する」
「割に合わないですよ」
目の前の男は白衣にYシャツ、黒縁のメガネといかにも「研究してます!」なんて風貌の若者だった。歳は私と同じくらいだろうか? ボサボサと激しく逆立った後ろ髪が誠実そうな服装とミスマッチだ。
野良のペルシャ猫みたいだな、というのが第一印象だった。
「しかし危ないなぁ……」
男がYシャツの胸ポケットに手を入れる。丁度私が刺した場所、心臓の上だ。
「自分が偶然ポケットに大量の小銭を入れてなければあなたは今頃殺人犯ですよ?」
彼が取り出したのは一掴みの硬貨だった。十円、五十円、百円……全部で五百円分ぐらいだろうか?
「自分のお釣りをついついポケットに入れちゃう癖に感謝して下さいよ、まったく……」
彼は少し不機嫌そうに私を一瞥すると背中を向けて廊下を歩きだす。
「ま、待ちなさいよ!」
反射的に後を追いかける。ついでに彼がさっき放り投げた私の包丁も拾って再び袖口に隠した。
何なんだ?この人。私は今分かる範囲でこの意味不明な状況を考察する。
どうやら私は高槻と間違えてこの男を刺してしまったようだ。長い間待ち構えていた所へ白衣を着た人物が出てきたので、思わず勘違いしてしまった。
本来なら勘違いで済まされない事だが、幸いこの男は生きている。さっき回収した包丁には血が付いていないし、Yシャツにも切れ目が入っているだけ。
本人が言うには「ポケットの小銭が助けてくれた」そうだが、そんな事普通ありえるだろうか?
第一小銭を胸ポケットになんて入れて歩く人間に私はあったことない。その上硬貨の向きや種類によっちゃ刃を止めるのは不可能。私が狙ったのが心臓以外だったとしても彼は死んでいるはずだ。
――――早い話がこの男、非常に運が良い。
素情も謎だ。私はかりんにゼミ生の人数を教えてもらい、3人全てが部屋を出て、講義に出ているのを確認している。つまりこの男は白衣を着ていてもゼミ生ではないはずなのだ。
「ちょっと! あなた何者?」早足で歩く男と並んで訊く「ゼミ生じゃないでしょ?」
「出会い頭に刃物で襲いかかる人に教える名前も身分もありません」
「あれは誤解なの。狙ってたのは高槻の方で……」
男が立ち止まって私を見る。
しまった……。口が滑った。
「そうですか。……でも無駄足でしたね」
にっこりと男が笑う。面白い遊びを考えた子供のような笑顔だった。
無駄足……?
「うわああああああああああ!!」
その時、背後で男性の叫び声が上がった。高槻の部屋のある廊下からだ!
反射的に方向転換して走り出す私。本日二度目の全力疾走で角を曲がると思った通り、高槻の研究室のドアの前で男が一人腰を抜かしていた。
こいつ、高槻ゼミの学生の一人だ……。
「どうしました!?」
一瞬かりんの事が頭をよぎり、暗い憎しみが沸きあがってくる。しかしそれどころではない何かが起こっているのを感じて、ゼミ生を放ったまま半開きのドアの中をのぞくと……
まず感じたのは強烈な寒さだった。今は初夏、東京ではまだ冷房を使う必要なんてない。
壁のエアコンの操作パネルを見ると設定温度は10℃! 冷蔵庫レベルじゃない!
そして寒さに気を取られていて、急に目に入って来た“それ”を見た瞬間思考が停止してしまった。
……嘘…………。
雑然とした机の前で椅子にもたれかかっている中年の男。左胸は真っ赤に染まって、ナイフが突き刺さり、虚ろな目がこちらを見つめている。
――――高槻だ……死んでいる。
「だから言ったでしょ。無駄足だって」
いつの間にか逆立った頭の男が背後まで来ていた。悲鳴を聞いて集まって来た野次馬も大勢いる。
「は、は、は、は」
私が考えられたのはただ一つ。
最後にこの部屋から出てきたのはコイツ!
ゼミ生じゃないのに出入りしたのはコイツ!!
素情不明の不審者はコイツ!!!
あまりの事にわなわなと小刻みに震える指で男を指す。
「犯人はこの人です!」
「……へ?」
首をかしげる男を他所に、集まっていた野次馬が一斉に男に飛び掛かって取り押さえた。