その5
ギコギコギコ……
自転車を捨てて歩きたくなる程勾配のキツい登り坂だった。
それでも中山の言葉を思い出せば不思議とペダルを漕ぐ力が湧いてくる。
クソッ……ペンギン?ペンギンだと?
俺が空を飛びたがってるペンギンだって言いてぇのかよ?
中さんといいあの女といい、人のプレーにケチ付けるような事ばかり言いやがって
俺に足りねえものっつたら……ん?
流れていく景色に気を止める余裕もなく自転車を走らせていると、次第に近づく住宅街の切れ間からは静和中が見えていた。
グラウンドは照明で煌々と照らされ、その光の中にボールを蹴る数名の生徒の姿が確認できる。
「だから何で分かんねーんだよ!!!!このスカタン!!!!」
「ひぃいいいいいいっ!!!!」
柳井の怒鳴り声に紘は思わず悲鳴を上げて震え上がった。
「まぁ柳井もそう熱くなるな……よし、じゃあそろそろ終わりにして帰る準備を……」
いつの間にか無理矢理グラウンドへ駆り出されていた小林が、タイミングを伺いつつ慎重に口を挟む。
「せっかくフリーでボールを受けてんじゃねぇか!!」
「お、おい……だからそろそろ終わりに……」
「わざわざ相手に向かってく必要なんかどこにもねぇだろ!!!!」
「あ、あの……お、終わりに……」
悲しいかな、ヒートアップした柳井の耳に小林の声はまったく届かず、なしのつぶてであった。
「トラップの方向も考えろっつたのに何回同じ事言わすんだテメーは!!!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!!」
すっかり鬼軍曹と化した柳井に怯えきった紘は、耳を塞ぎながら背中を丸め、外敵から身を守るダンゴ虫さながらグラウンド中央で縮こまった。
「何丸くなってんだ!!こんなに優しく教えてやってるじゃねーか!!早く立ちやがれっ!!」
「ぎぃやあああああ!!!!」
柳井が紘の首回りを引っ張ってその小さい体を強引に持ち上げる。
「まぁまぁ……教えたからって今日に今日いきなり出来ることでもないって」
藤波がそう言って子猫のよう持ち上げられた紘に助け船を出した。
「ちっ、それもそうか……でもコイツせっかく良いモン持ってるってのによ……」
……え!?
柳井のそのセリフに紘は思わず自分の耳を疑った。
「ホントそうだよね、あの紅白戦の得点も稲葉だったし……とっ、よっ……」
高木が二人の方を見もせず、リフティングしながらサラッと言ってみせた。
「受けるまでは文句無しだな、その後の展開は最悪だけどよ」
江藤も鼻で笑って少しばかり紘をからかうように言った。
こ、これは……まさか俺、誉められてる……のか???
「ケッ、お前ら全員買い被り過ぎだっつーの、あんなのたまたま良いところに突っ立ってただけだろ?どうかしてるぜまったくよ」
「やっぱそう見えるか、かわいそうだけど勇人にはそういう感覚全然無いからね」
勇人が面白くないように吐き捨てると直ぐ様藤波が痛い所を突いてきた。
「な!!!!」
その言葉があまりにショックだったのか、勇人は白目をむいて石像のように固まってしまった。
「オ、オイ……言い過ぎだって……プッ」
港はピクリとも動かなくなった勇人を気遣いながら言ったが、込み上げてくる笑いを必死に抑えていたのは誰の目にも明らかだった。
「コホン、まぁこんな脳筋野郎はほっとくとしてよ……」
すっかり話の腰を折られた柳井が仕切り直すように咳払いして言った。
「とにかく稲葉、テメーはフリーでボールを受ける能力がクソほどたけぇ!!ありゃ相当なもんだ……だがその後が最悪だ、馬鹿の一つ覚えみたいに敵に突っ込んだり、そうかと思えばその場で亀みてぇに縮こまったり……
目の前の敵を処理する事だけがサッカーか!?
そうじゃねえだろ!!自分で自分の強みを潰すようなプレーするんじゃねえ!!!!お前はお前にしか出来ないプレーをしやがれ!!」
!!!!
お、俺にしか出来ないプレー……
柳井のその一言が紘の頭を激しく打ち揺らし、彼の胸の奥底にまで響いた。
「よく言うぜ……それお前が散々姫野に言われてきた事じゃねぇか」
江藤はやれやれといった風だった。
え!?そうなの!?
柳井先輩が?……マジか……
「ん?あぁ?そうだっけ?まぁ良いじゃねぇか別によ、ワハハ……」
その指摘が恥ずかしかったのか、柳井は誤魔化すように大声で笑った。
「そういやそうだ、1年の時のヤナと稲葉ってプレースタイルが似てるよ、ボール持った瞬間固まってよく簡単にボール奪われてたよね……何か笑える」
高木がリフティングを続けたままそう言ってクスクスと笑った。
「稲葉、もうわかったろ?コイツはお前を見てると昔の自分を思い出すんだよ、ボール受けてもビビりまくって何にも出来なかった自分をな……笑っちゃうだろ?」
江藤は紘の肩に手を回すと、柳井を横目に底意地の悪そうな顔つきで言った。
「わ、笑うだなんてそんな……ハハ」
紘は江藤のセリフに何だか気恥ずかしいような気持ちになり、つい声に出して笑ってしまった。
それは今日この場で初めて見せる心からの笑顔だった。
「しっかり笑ってんじゃねぇか!!この座敷わらし!!お前らも余計な事言ってんじゃねーよ!!」
真っ赤になって大騒ぎする柳井のその様に、2年生全員がここぞとばかりに腹を抱えて盛大に笑った。
また新たに青春の一ページを刻む彼等、そんな彼等の脇で完全に空気と化していた一人の中年男性が思いの丈を叫んだ。
「お前らもういい加減帰ってくれ!!!!」
「……自分にしか出来ないプレーか……よく言ったもんだぜ」
静寂の闇に響き渡る柳井の大声は、遠く離れた姫野の耳にもしっかり届いていた。
照明の優しい光に包み込まれ大いに盛り上がる彼等をよそに、姫野は一人、暗い夜道の中再びペダルをこぎはじめる。
昔からずっと彼が目指すもの、それはどこにも穴の無い完全無欠のサッカー選手だった。
小学生時代から県内屈指のプレーヤーだった彼は、自分こそが最高のプレーヤーだと信じて疑わなかった。
あの日、上州学園のセレクションに落ちるまでは。
それからというもの、彼は徹底的に自分の欠点を補おうと人知れず努力し続けた。
とにかく必要だと思う事は何でもやった。
決して揺らぐ事のない強い意志、投げ出したくなる程過酷な日々の中、彼を支えていたのはそれだけではない。
__努力は必ず報われる、やって出来ない事なんて一つもない、信じていれば夢はきっと叶う……だから絶対に諦めるな__
かつての恩師が遺した言葉だった。
よく聞くありきたりな言葉だが、姫野にとってその言葉の持つ意味は大きく、彼を突き動かす一番の原動力となっていた。
努力は決して裏切らないし、諦めなければいつまでも夢に終わりはない。
ほんの一握りのトッププレイヤー達、彼等の成功の影には必ずと言って良いほど、血の滲むような努力の跡が絶えずあるのだ。
だが……
たとえダイヤの原石であろうと、磨き方一つでその輝度は大きく変化してしまう。
今の彼は大きく自分を見失っていた。
おそらくこのままでは“ただの上手い選手”、そんな評価で彼の中学サッカーは終わってしまう。
百合や中山が危惧しているのはそこだった。
姫野優、サッカー選手として大いなる可能性を秘めた彼は、今まさに大成するか否かの岐路に立っていたのだ。
『……との契約問題で本日イギリスから帰国した天才サッカー少年木塚蓮、空港に降り立ったばかりの彼を多くの報道陣が取り囲みます
彼の去就は未だ不透明ですが、すでに複数のJリーグ下部組織が名乗りをあげているようで……』
「はぁー、こんな子供にすげぇ報道陣の数だな……」
姫野が去った後のラーメン屋。
店主の男は片付けもほったらかして、備え付けのテレビに釘付けだった。
「おい親父、勘定してくれ……
わりーな、すっかり長居しちまって……」
「なになに、良いって事よ……それより中さん、今ニュースでやってるこの子、……これほんとに中さんの?」
「おぉ、俺の孫だよ……スゲェだろ?
さっきの小僧と同い歳だ……
アイツならきっと孫の良いライバルになってくれるだろ」