その3
「いやぁ、田代さんが静和のコーチだったなんて俺もビックリですよ」
向かいの席でこの世の終わりのようになっている百合に、まったく淀みのない眩しい笑顔を見せて渡井が言った。
百合が撒き散らした残骸の片付けもすっかり終わり、何事もなかったかのように酒宴は再開されていた。
百合と渡井以外の仲間達は、映画、音楽、ファッション、それから過去の恋愛話など話題が尽きる事もなく大いに盛り上がっている。
「いえ、あのオホホ……まだ始めて一ヶ月位ですけど」
渡井とは真逆の、ぎこちない笑顔を返しながら百合が答えた。
「一ヶ月か、そうなんですね……じゃあうちとの試合の時はまだ?」
「ええ、でも試合は外から観てましたよ、結果はまぁその……アレでしたけど」
「そうですか、あの時あそこにいたんだ……何だか変な感じですね」
「ほんとにそうですね、変な感じ」
そう言ってお互いの視線がぶつかると、二人は自然にクスクス小さく笑いあった。
それから暫く二人は各々が持つサッカー観、指導者としてのあり方などについて、お互いの経験を踏まえながら熱く語り合うという非常に有意義な時間を過ごしていた。
合コンが持つ本来の目的とは程遠い感はあったが。
しかし、この和やかムードもそう長くは続かなかった。
この後渡井が放った何気ない一言。
そのたった一言でサッカー馬鹿二人の和やかムードが一変する事になる……
「やっぱりプロの話は参考になるな、ウチの選手達も連れてくれば良かった……それと本音言うとね、姫野君、彼にはできればウチでやって欲しかったとは思ってたんですよ、彼のように闘志剥き出しで戦う……ウチの選手達にももう少しあのハングリーさがあればなぁ」
「そうですね……彼がピッチで放つあの人を刺すような独特の雰囲気には私も思わず圧倒される時があります……でも、彼のように闘志剥き出しで我が強い子なら他にも松山君や野沢君、柳井君なんかも……」
「へぇー、姫野君以外にもそんなに凄い選手がいるなんて知らなかったな……こりゃ静和の未来は頼もしい限りですね」
「……え!?知らな……かった?」
渡井の口からサラッと出てきたそのセリフ。
言った本人は当然知る由もなかったのだが、それは百合の胸中にしっかりと鋭い爪を立て、重く、そして深い衝撃を残していた。
……え?ちょっと待って……嘘でしょ?
今、知らなかったって言ったの?この人
あんなに多くの子供達に、それこそ人生を大きく変えてしまうほどの傷を与えておいて……
それを……「知らなかった」ですって?
周囲の音が遠ざかり、視界が狭くなっていく。
自分の感情が徐々に昂っていくのが分かる。
「結局ウチは姫野君、彼を採らなかったけど、彼には何だか申し訳なかったな…………ってあれ?」
そう回想しながらしんみり話す渡井だったが、ふと百合の方へ目を向けた瞬間、どうしようもない位の不安に襲われるのだった。
渡井がそう感じたのも当然、まったくもって無理のない事であった。
渡井が顔を向けた時、百合は深くうつ向いた姿勢で彼からは完全に視線を外していた。
一見するとどこか具合でも悪いかのように思えたが、テーブルの上に置かれた彼女の拳は震える程力強く握り込まれている。
奥ゆかしくも朗らかに笑う、つい先程までの彼女とは明らかに様子が違っていたからだ。
「あ、あの?田代さん?……大丈夫?」
「……姫野君に申し訳ない……ですか」
問い掛けにはまるで答えず、下を向いたままの状態で百合はそう返した。
表情こそ艶やかな黒髪に隠れていたが、余程のアホでない限り声のトーンだけでも彼女の尋常ではない心理状態が伺える。
「え!?……ええ、後で聞いた話ですけど彼どうしてもうちに入りたがってたみたいで、期待に添えられず……
あ、あの……ど、どうしました?また顔が……」
しどろもどろに答えている最中、スッと顔を上げた百合を見て、渡井は自身が感じた不安が見事に的中してしまった事を確信する。
この人……絶対怒ってる……
急変した百合の態度に、渡井は軽くパニックを起こしそうになった。
「松山君、野沢君、柳井君、江藤君、高木君、藤波君、石川君……」
「??何です?誰と誰と……え?」
「……やっぱり記憶にありませんか?」
「??えーっと……」
焦る渡井は百合の言葉にしっかりと耳を傾けるが、まったく理解が追い付かない。
唯一はっきりしている事と言えば、目の前にいる女性が尋常ではないくらいに怒っており、その矛先が何故だか自分に向けられているという事だけだ。
「一昨年おたくのセレクションを受け、そして見事不合格にされたウチの選手達です、もし落とした事を申し訳ないと思うのなら姫野君だけじゃなく、彼ら全員にも向けて言って下さい」
「!!!!」
今度は百合のセリフが渡井にとてつもない衝撃を与えた。
彼の心拍数は一気に上昇し、一瞬目の前が真っ白になる程だった。
「それに……姫野君だけじゃない、彼らだって才能とイマジネーションに溢れた素晴らしい選手達です、アナタの印象にはイマイチ残らなかったかもしれないけれどね……」
何とか呼吸を整える渡井をよそに、片側の髪を耳に掛けながら百合は薄く冷やかに微笑んで言った。
「ちょ、ちょっとアンタ何急におっかない顔してんのよ、さっきまであんなに盛り上がってたじゃない、ほら……楽しくやろうよ」
異変をキャッチした友人が二人のやり取りに慌てて口を挟む。
他の友人達も漂う不穏な空気に思わず会話を止めてしまった。
「あ、あの、た、田代さん……もしかして……俺が落とした彼等を覚えていなかった事……それを怒ってるんですか?」
「……」
「その……えっと……田代さん、アナタ元プロ選手ですよね?
俺や彼らなんかよりも……ずっと厳しい世界にいたんじゃないですか?
……酷な事を言うようですけどセレクションですよ?
ウチに入りたいって子は山ほどいる、そりゃあ中には印象に残らない子だって当然……」
いきなりの事に度肝を抜かれた彼だったが、ようやく合点がいったようである。
百合の怒りの原因対して、厳しいながらも優しく諭すように至極真っ当な見解を示した。
「そう、仰ることはよくわかります」
それに同調するよう百合は深く頷いて答えた。
「なら……」
百合の言葉を受けて少し安心したのか、渡井はうっすら安堵の表情を浮かべた。
「だからね、渡井さん、これは……」
「は、はい……」
「これは私の超々個人的な怒り……
妙な空気に飲まれてすっかり忘れてたわ、アナタが私のカワイイ教え子達を失意のドン底に叩き落とした憎き存在だったって事をね!!」
「そ……そ、そんな言い方……」
ほっとしたのも束の間、よもやの不意打ちだった。
渡井はノーガードの状態で百合の攻撃を受けてしまった。
表情から察するにそのダメージはかなり深刻なようである。
「完全な言いがかりね」
友人が冷ややかな視線を百合に送りながら呟いた。
「そうよ!!!!
これはただの言いがかりよ!!完全にね!!
でも良いの!!」
『!!!!』
何のためらいもなく開き直った百合の態度。
渡井を始め、周囲にいた人間は皆開いた口が塞がらない状態になった。
「良い?渡井さん、今年はせいぜい全国大会で思いっきり暴れて箔をつけてくるといいわ、その方がこっちとしても潰し甲斐がある」
「は、はぁ……」
「来年……来年の夏の大会、必ずあの子達は上州学園に勝って全国へ行ってみせる、そしてその時アナタ達首脳陣は後悔するのよ、自分の目は節穴だった、彼等を落とすべきじゃなかったって!!覚悟しておく事ね!!!!」
「ちょっとアンタ……」
「い、いや、大丈夫、大丈夫ですよ……ハハ」
失礼極まりない百合の暴走を止めようとする友人に対し、渡井は余裕の素振りを見せつける。
しかし実際の所彼のライフはほとんど「0」、立ち上がる事さえ困難な状態だった。
何て強烈な人だ……
並大抵のメンタルじゃ5分と持たない
この短時間でこんなに心が削られるなんて……
だが、ようやく理解した……
これはある種の代理戦争
この人相手に俺が負ける事は許されない
絶対に……
正直……
正直、関わりたくないレベルの超面倒臭い人だが……
「そ、そうですか、来年の夏ですか……
でもウチは今の3年生主体のチームよりずっと強くなってると思いますよ?
何せウチのエースはまだ1年生の子ですから」
自分がここで負ける事は上州学園が静和に負ける事と同じ、ギリギリの渡井が一歩も引かない覚悟を見せた。
「知ってるわ島崎海ね、確かに恐ろしいまでのスピードとテクニックの持ち主だけど……ウチにもとんでもない秘密兵器がいますから、それも同じ1年生に」
渡井の覚悟に応えるように、百合もまた沸き上がる闘志を剥き出しにして喉元へと食らいつく。
友人達の迷惑もそっちのけで、ここに上州学園vs静和の構図が完全に出来上がった。
「秘密兵器の1年生……それってウチの合格を蹴ったあの中野の事ですか?」
「中野君……確かに彼も素晴らしい才能の持ち主だけど私が言っているのはまた別の1年生です」
「……」
「今の彼はお世辞にもサッカー選手だなんて呼べる代物じゃない、けれど……来年の今頃にはその才能を充分に発揮して、島崎海と並ぶまでの存在になっている!!!!(……ハズ)」
「中野じゃない……他にそんな凄い選手が……」
「ええ、是非楽しみにしていて下さい」
僅かばかりの動揺を見せた渡井に百合が軽く微笑む。
てっきり中野の事だと思ったが……
それに……海と並ぶだって?
……あの海に?
そんな奴、県内……
いや、全国にだってそういるハズが……
面白い……
渡井も抑えきれずにニヤリと笑った。
「そうか、そりゃあ海の奴もうかうかしてられないな……
ウチは昔からの慣例で県内の大会はリーグ戦と全中以外ほとんど参加しない、それこそ県内のチームとは練習試合すらしないんです」
「そうなんですね……」
___だから静和とウチが闘うなら来年の全中、そこしかない……
来年の6月、アナタの育て上げたチームと闘うのを楽しみにしてますよ田代コーチ ___
夜の闇に溶け込んだ信号が赤に変わり、百合はゆっくりと丁寧にブレーキを踏む。
車が止まると同時にハンドルへと頭をもたれ、彼女は大きく深い溜め息をついた。
結果、上州学園は全国制覇か……
今思い出すと勢いとはいえ随分大きい事言っちゃったわね、悪い癖だわ
……小川君も予想以上に不器用で全然上達する気配がないし
渡井のあの自信に満ちた口ぶりを思い出し、彼女は今になって自分の浅はかさを悔いるのだった。
それにしても……
『県内のチームとは練習試合すらしない』
あの時確かにそう言ってたわよね……
方針が変わったのかしら?