その2
~日曜日 県内某所 私立岡富士学園 グラウンド
「あ、そろそろ大場の番だ……あの子ずっと調子悪いんでしょ?大丈夫かなぁ……」
「アイツならきっと大丈夫、今日は心強い味方も来てるしね」
少しばかり風は強いが、澄みきった青空の広がる爽やかな秋晴れの日。
ユニフォーム姿の真理子達女子陸上部の2年生数人が見守る中、間もなくスタートレーンに入るであろう夏海が、颯太と紘の前で入念なストレッチを行っている。
「ねぇ……
内緒で応援に来てくれたことは本当に驚いたし、とってもとってもありがたいんだけどさ……
二人ともなんでアタシよりガチガチになってんの??」
夏海は深く伸脚しながらそう言って、二人に冷めた視線を浴びせる。
「だだだだ、だってよ夏海、ままま、周り見てみろよ!!皆すげえ速そうじゃんか!!
お前みたいなほっそい女があんなムキムキに勝てんのか?やっぱり今日は日が悪いって!!!!」
「ウプッ……い、いや……俺はただこの独特の雰囲気にやられちゃって……ウプッ……ハハ……頑張ってね、お、大場さん……ウプッ」
颯太はこの会場の誰よりも取り乱した様子で叫び、一方の紘は漂う緊張感に耐えきれず、先ほどからえずきが止まらない状態であった。
「応援に来た人間が不安煽ってんじゃないわよ!!!!」
スタート直前に一体何という気持ちにさせてくれるのか、夏海は目を吊り上げて二人を怒鳴り散らした。
「う~ん、もしかして逆効果だったかも……」
颯太達のやり取りを遠巻きに見ながら、真理子は溜め息混じりに額に手をやった。
「あ、あのっ……こ、こばっ、こ……小林さん!!」
不意に背後から声がした。
真理子が振り向くと、そこにはバチっと七三分けにキメたジャージ姿の勇人が立っていた。
「が、が……頑張ってね!!」
彼もまた、見るからに緊張を隠せない様子だった。
「プッ……今日はありがとね野沢君
それと、いきなり後輩連れてきてなんて頼んじゃってゴメンね」
真理子は思わず吹き出してそう返した。
「!!!!
いやいや……そんなの全然気にしないでよ
こっちも練習休みで暇だったし」
勇人はブルブルと大きく左右に首を振って応えた。
「ふ~ん……そっか
野沢君、君ってやっぱすっごく良い奴だね」
そう言うと真理子は、白い歯を見せニカっと笑った。
どこかしら少年っぽさのある屈託のない笑顔、勇人はそんな真理子を見て嬉しそうに尋ねた。
「そ、そう!?ほんとに!?」
「うん、ほんとだよ」
彼女の返事に、勇人は思わず胸の辺りで拳をグッと握りしめた。
間違いない……
小林さんの俺に対する評価が相当上がってる……
マジで来て良かったぜ!!!!
一人空を見上げ、ニヤニヤしながら喜びを噛み締めている勇人。
だが、真理子はその横で、彼には気付かれないまま少しずつ表情を曇らせていた。
「ほんと……アイツなんかとは雲泥の差だよ
ハハハ……」
そんな彼女が独り言のようにボソッと呟いた。
「え!?」
まさに天国から地獄へ落とされたようだった。
それまでルンルン気分だった彼の耳に届いた言葉。
それは魔法のように『パキパキパキ……』と乾いた音を立てながら、彼の身体を足下から徐々に石化させていった。
「あっ……変な事言っちゃってごめんね
お願い、今の忘れて!!
えへへ恥ずかしいな、一人で馬鹿みたい……」
真理子は、目の前で見事な石像と化した勇人にそう言って照れ臭そうに笑った。
「エ?アァ……
アイツネ、ハハ……
アイツノコトカ……ヤッパリネ……」
ガチガチに固まった顎の間接を強引に動かし、何とか言葉を捻り出した。
その衝撃で彼の全身にはヒビが入り、石化した表皮がボロボロと剥がれ落ちていく。
呪縛が解け身動きがとれるようになると、彼は力無く膝から崩れ落ち、そして悟った。
どれほど距離を詰めたとしても、彼女にとって自分は只のクラスメート。
それ以上でもそれ以下でもないという事を。
同時に、彼女の心の中に大きくあり続ける姫野という男の存在。
その、決して越える事の出来ない分厚く高い壁の存在を、彼女の言葉からハッキリと感じとった瞬間でもあった。
『…………』
いつしか二人の間には、埋められない隙間のような沈黙が生まれていた。
「……あ、あのさ……ほ、ホントはアイツも来たがってたんだぜ?」
その嫌な間を掻き消すように、勇人は敢えて明るい口調で切り出した。
「え?……ってイヤイヤ、そんな事あるわけ……」
真理子は言いかけたが、握り込まれた彼の拳がプルプルと震えている事に気が付き、それからそっと口をつぐんだ。
「……い、いや、ほらアイツって超が付くほどひねくれ者だからさ……その……あの……」
自分でもどんな表情で喋っているのかよく分からない。
身も心も張り裂けそうだった。
野沢君、もしかして……
ひょっとしたらアタシって最悪かも……
真理子は勇人のその様子に、不確かな自己嫌悪みたいなものを感じつつ、どうしようもないままただただ切なくなった。
「真理子!!
そろそろアップしないと!!」
『!!!!』
少し距離を置いた仲間達からの呼びかけに、思わずハッとする二人。
「ほ、ほら、小林さんもう行かなきゃ……
それと、アイツの話は本当の事だからさ!!」
勇人は無理矢理笑顔を作ると、胸の奥から込み上げて来るものを堪えながら、吐き出すように言った。
「……うん、分かったよ野沢君
そういう事にしとく……
ありがと、君……ほんと良い奴だね
じゃ、応援よろしく!!」
真理子はそう言って優しく笑い、心苦しさを感じつつもその場を走り去って行った。
「お、おう!!頑張って!!!!」
遠ざかっていく彼女の後ろ姿に、慌てて手を振る勇人。
彼の胸の辺りがズキズキと鈍く疼いた。
「ハハ……
良い奴……良い奴か……
クソッ!!
姫野、あの野郎め……」
「まったく二人ともいきなりやって来て……
一体何がしたかったんだか……」
ブツブツ言いながら夏海が100m走のレーンに入って行く。
キョロキョロと左右に首を振って見渡せば颯太の言う通り、夏海は他の選手に比べ明らかに体格で劣っていた。
……近くで見ると確かに皆速そう
強化選手の選考も兼ねてるんだし……そりゃそうよね
スタートが近づくにつれ、徐々に鼓動が高まっていくのが分かる。
良い感じにドキドキしてきた……
これだから短距離は辞められないのよね
夏海は、スタート前のこの焼けつくような緊張感が堪らなく好きだった。
勝ちも敗けも一瞬で決まる
今まで積み上げてきたものも全部……
終わった後に後悔なんてしたくない
だから……今、この一瞬にアタシの全力を!!!!
「い、いよいよだね……見てるこっちが緊張しすぎて死にそうなるよ」
「うぅ……ダメだ見てらんねぇ……紘、俺レースの間目をつぶってるからアイツが走り終わったら教えてくれない?」
「小林さん……ブツブツ……一体あの冷酷な男のどこが……ブツブツ」
「あ、アホな事言うなよ、颯太はちゃんと見届けてやれって!!」
「う、うん……で、でも……やっぱり怖いよぉ……」
「やはりそうだ……これこそは……ブツブツ……神が与えたもうた……ブツブツ……試練……ブツブツ……」
離れた位置からスタート前の夏海を見守る、サッカー部員の三人組。
当事者以上にプレッシャーを感じ、その重圧に押し潰されそうな颯太と紘。
そんな二人とは対照的に、勇人は魂の抜けたような憔悴した表情で心ここにあらず、上の空で何やらずっとブツブツ呟いている。
程なくして、競技者全員がクラウチングスタートの体勢に入り、スターターがピストルを天高く掲げた。
『ひょええええええっ!!!!
はっ、始まるぅううううう!!!!』
耐えきれずに悲鳴を上げる颯太と紘。
何とも情けない男子二人の心臓を撃ち抜くように、スタートのピストルが鳴り響いた。