02 魔道具をこの手に
朝、もとい昼近くまで眠っていたウェイドは起きて早々街へ繰り出した。すると門近くの商店が泥棒に入られたという噂を耳にする。具体的な内容までは聞こえてこなかったが、十中八九ウェイドのことである。しかし当人はどこ吹く風で街を闊歩した。
成人として認められると、ギルドへの所属許可や、役場の求人募集の閲覧権限が与えられる。つまり十八にならない限り、縁もゆかりもない人間は合法的に金を稼ぐことができない。なぜならこの国では基本、家業を継ぐのが当たり前で、わざわざ他の仕事を見つけて働くなんてことはしないからだ。成人になるまでは親の下で働き、親の権限のもと生活を営むことしか許されない。子供の人権は親に帰属するのだ。
「……我ながら、よくここまで生きたよな」
求人募集の掲示板を眺めるウェイドは、今更ながら自身が強運の持ち主なのかもしれないと自讃した。それは一種の現実逃避であり、ウェイドは掲示板の前で困り果てていた。たくさんのチラシが上へ上へとかぶさっているが、めくって吟味する気は毛頭起きはしない。それには無論、理由がある。ウェイドは両腕を胸の前で組み、小首を傾げた。悩んでいるようで、悩んだところで解決する問題ではないことを、本人はわかっているがどうにも動く気にはならなかった。
――ウェイドは、字の読み書きができない。
国境近くを練り歩って来たため、隣国の言葉が多少わかったり、風土によって異なる言い回し――訛りが混じったしゃべり口調を模倣及び理解することはある程度はできた。しかし、まともな教育過程を踏むことが一度もなかった彼の識字能力は皆無であり、さらにいえば彼の人生ではそのことを不便に思う機会がなかったのも問題であった。ウェイドの生きていた世界、つまり生活圏での識字率も壊滅的なのである。
紛争地域であり、小さな争い事が毎日毎日ひっきりなしに起きる、治安の悪い村々。そこで学ぶことは学問から最も遠い分野であったからだ。かくいうウェイドもまた、自身の盗みのスキルの向上くらいしか学ぶことができなかったわけで、そういうのが日常なのだ。
ウェイドは途方に暮れ、あてもなく街を歩くことしかできなかった。成人を迎えれば、自分も多少なりともまともな生活をおくれると信じて生きてきた。しかし読み書きもできず、何かの職についた経験も、腕っぷしも強くもない若いだけの男を雇ってくれる酔狂な人間などいるのだろうか。
ウェイドはこれまで軽く考えていた未来の夢のようなお話を、現実的な問題だと今この瞬間改めて実感したのだ。今日を生きていくことだけで精一杯であった彼に取っては、これからの人生を考えるだけで目がまわるが、同時にようやく自由を手中に収めたような気になった。
「読み書きができねーくらい、何でもない。俺は今まで数々の死線をくぐってきたし、人当たりはそれなりにいい。旅をしてきたから土地勘もあるし、薬学の知識も多少はある。……そうだ、目利きもできるし、なんかそういう……高値のものを売る問屋とかで雇ってもらえれば、『きゃあっ!』!?」
前向きにこれからを検討していたウェイドは何かにぶつかる衝撃とともに甲高い声を浴びせられた。ぶつぶつと喋りながら細い路地をぐるぐると歩くウェイドの前方不注意だ。外套のフードを目深に被る目の前の人間は、ぶつかった拍子に転び尻餅をついていた。声と体格からして、女であることは明らかである。フードからは藍色の髪の毛先がのぞいており、ウェイドはすぐにこの女が身分の高い人間だと察した。
「すまない、大丈夫か?」
しかし生憎、身分が高い人間に媚びへつらう人間性をウェイドは持ってはいない。形ばかりの礼をこぼし、手を差し出した。この街の住人たちとは比べ物にならないくらい上質な布を使った服を着ている女に気に入られたら、何かしらおこぼれがもらえないかというなんとも邪な考えを構築しだす。
街娘を装っているようだが、どう考えたって良い家柄のお嬢さまのお忍びである。ウェイドは目の前の女が、今まで会ってきた誰よりも高貴で尊い血が流れている人間だと見分けがついた。
「いえ、私も前を見ていなかったので。あなたこそ、どこか怪我はしていないかしら? それか、お召し物が汚れてたら大変だわ」
「はは、俺はもともとボロ切れを着ているから気にしなくていい。そういうあんたは? 転ばせちまったし、なんかできることがあったら返したい。……ん? そういえば、さっき何か落としてたよな?」
道の隅に何かが落ちている。それは目の前の女が落としたものに違いなく、ウェイドはそれを拾い上げ、土埃をはらった。見れば身分の高い人間が持っているにしては飾り気のないコンパスであった。
「? あれ、なんだこのコンパス?」
ふと、ウェイドは拾ったコンパスが普通の代物ではないことに気づく。普通ならば一本の針の両端がそれぞれ尖っており、北と南の二方向を指し示すはずだ。しかしこのコンパスは時計のように、中央から外に向かって一本の針が一方向のみを指していた。さらに、指している方角は北でも南でも、ましてや西でも東でもなかった。太陽の位置と時刻から察するに、おそらく南東の方だろうが、なぜこんなコンパスを持っているのだろうか。
「なあ、あんた。このコンパス壊れてるんじゃないか?」
ぶんぶんと振ってみると、針は今度は北西を指した。どうやら本当に壊れているようだ。いや、この場合は俺が壊したことになるのか? ウェイドはバツが悪そうに女へ代物を返す。高額請求でもされたらどうしようか。逃げ足の速さにはそれなりに自信があるし、いざとなったら逃げれば大丈夫か。
「こ、壊れるわけありません! だってこれは!」
「? これは?」
「……! あ、え? ど、どうして? 本当に壊れてる……?」
女は絶望の表情をあらわにし、項垂れた。怒りか、はたまた悲しみか。体を震わせ、両の手のひらで握りしめたコンパスを胸へ引き寄せる。それは神への祈りに似ており、ウェイドのかけらほどの罪悪感がちくりと心臓を刺した。
「あー、修理に出せばいいんじゃねーの? 時計屋とかなら直せるだろ?」
「これは……! これは、そんな簡単に直せるものではありません!」
「っ……。何だよ、さっきから。壊れるわけねー、とか、直せるもんじゃねー、とか」
女は自身の足で立っているのも困難なほどに動揺し、ついに地面へと座り込んだ。上質な服を土で汚すことなど厭わないその様子に、ウェイドも目線を合わせるようにしゃがんだ。ようやく女の瞳と視線が交わる。美しい深海を思わせる紺碧の瞳であり、長らく見ていれば吸い込まれそうなほどに鈍く眩く悠久をたたえていた。
女はとんでもない美人である。美術品のような洗練された美が今まさに生きて動いて喋っている。しかしそんなことに感動する暇もなく、ウェイドはまるで幼児に声をかけるかのように励まそうとした。
「特別なものなんだな」
気の利いた言葉を言おうと頑張ったが、上手くはいかなんだ。そうしてやっとの思いで口からこぼれたのはなんともまあ平凡でありふれた言葉だろうか。
「……これは、このコンパスは魔道具なのです」
――だから、簡単に直すことはできません。
女の瞳から海の雫がこぼれ落ちる。白い陶器のような肌を撫でるように雫は流れ、やがて顎の先から落ちていった。
「ま、どう……ぐ?」
何だ、それ。
口をついて出た言葉に、女は諦めたような表情で涙を乱雑に自身の袖で拭った。すると先ほどまで地面に座り込んでいたのが嘘のように、綺麗な所作で立ち上がった。女に合わせるようにしゃがみこんでいたウェイドを見下す女は、貴族の顔をしていた。
「忘れてください。私と会ったことも、喋ったことも。どうか」
そしてその貴族は、死人のような顔をしていた。
ウェイドは、貴族こそ一人も目にしたことはないが、死人の顔は腐るほど見てきた。もしかしたら生人よりも多いかもしれないほどに、だ。だからこそ、ウェイドは女を見捨てることはできなかった。生人よりもずっとずっと、身近で、親しみ深く、悲しみを分かち合った存在が死人であるからだ。
「あんた、どこかに行きたかったのか?」
「え……?」
「俺はこの街の住人じゃない。むしろ街の外の方が詳しい。だから、あんたが行きたい場所に連れてってやるよ」




