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作者: 楠瑞稀

 世界は砂で満たされる

 雨は気まぐれに大地をしめらせ、人々は海を知らない

 乾いた風が地表を走り、ちりちりと音を立てて焼ける砂

 灼熱の昼に、極寒の夜

 生命が存在するにはあまりにも苛酷な環境の中

 それでも

 必死で生きる者達はいる

 神の悪意にもめげず、世界を謳歌する者が……




 *  *  *  *



 この世には、開けてはいけない箱がある。


 私は崩れ落ちるように足を止め、呼吸を整えた。

 心臓が爆発しそうなほどに高鳴っている。こめかみから顎へとつたう汗の滴がやけに気に障った。

 これまでどんなに身を酷使してもここまで変調をきたす事はなかった。そう訓練してきたからだ。

(なんで……)

 なぜ私がこのような目に遭っているのか。まったくもって理解できない。

 舌打ちをして木の幹を拳で殴りつける。

 そう。

 ≪木≫の幹だ。

 鬱そうと茂った森の中で、私は自分の正気を疑いたかった。

(ここは、どこ……?)

 

 世界は砂に覆われている。

 乾いた沙漠に囲まれ、天を突く山脈が地表を見下ろすこの世界。

 もちろん緑なら点在するオアシスを囲んでいるし、細々とながらも村々には畑がある。場所によっては林だってある。

 しかし、あたりの視界を遮るほど密に空間を埋める木々などというものを私は知らなかった。いや、伝聞でなら一ヶ所にだけ存在していると言う事を耳にしたことはあるが、それがここであるはずがない。だいいち私がいた場所とでは国と山脈一つ隔てている。

 だが今私には目前に広がる光景を否定することは、どうしたってできなかった。

 視覚だけではない。常に聴覚を刺激する葉擦れの音、むっとする濃厚な草の匂いに私はくらくらと目眩を覚える。

(駄目だ)

 私は首を振る。

 それは初めて遭遇する不可解な状況に絶望したわけではない。

 その逆だ。

 私はこんな所で諦める訳にはいかないのだ。私には申し付かった重大な使命がある。

 例えどんな状況下にあろうとも、間違いなく標的を追い詰めなくてはならない。

 私は改めて意志を強く固めると立ち上がった。

 大きく息を吸い込むと、ねっとりと緑の気配を濃厚に含んだ空気に口の中が苦くなった気がした。


 砂漠でターゲットを追う時は砂を読む。

 時間が経てば風が痕跡を隠してしまうが、それでも砂には足跡がくっきりと残る。素人には分かりにくいかも知れないが訓練された私たちには一目瞭然だった。

 私はじっと足元を見た。

 砂漠とは違い下草に覆われた地面は足跡が判別しにくい。私は諦めて顔を上げた。これほど枝葉が密集した中で道からはずれようとすれば、逆に痕跡が目立つことだろう。

 それに自分が追跡している相手は現在手負いだ。逃亡の痕跡を隠す余裕はないはず。

 もっとも手負いだからこそ死に物狂いで向かってくる相手に、油断は禁物である。仕留めるまでの僅かな隙に逃げられてしまったのだって、こんな小物ならば簡単に片をつけられると供も連れずに単独行動に走った結果だ。

 慢心はすべてを台無しにする。今はただ汚名を返上するために全力を注がなくては。

 用心しつつ見知らぬ道を進んでいた私は枝の折れる音にはっと振り返った。反射的にナイフを投擲(とうてき)する。

 しかし、――やはり私はこの常識を超えた空間に平静を失っていたらしい。それは普段の自分からは信じられないような大失態だった。

 ナイフの向かう先にいたもの。

 それは私が追っていた標的では無い。見知らぬ青年だったのだ。

(しまった……っ!)

 とっさに投げたナイフに手を伸ばすがそんなことで刃の勢いは衰えない。衰えるはずがない。

 私は腕にはかなりの自信がある。銀色の凶器は違えようもなく、呆然とこちらを見る青年の眉間を貫くはずだった。

 だが。

 そうはならなかった。

 外した訳ではない。むしろ青年は避けることもしなかった。

 しかしナイフは青年の手前でまるで戸惑いでもしたかのようにスピードを緩め、停止し、そのまま地面に落ちたのだ。

 それは到底ありえない――あってはならないことだった。

「なんだ……、人間じゃないか」

 ぼそりとしたつぶやき。

 私は息を呑んだ。

 そして顔を引きつらせて後退る。

 人間とは違う。

 これは人ではないものだ。

(魔族……っ!)

 言葉もない私の前で青年――人間の形を取ったそれは、何気ない仕種で草の上に落ちたナイフを拾おうと身をかがめる。そしてそのままこちらを見た。お辞儀をするように身体を二つに折った不自然な体勢で、不思議そうに首をかしげる。

「なに?」

 私は呆気に取られた。

 それどころか相手がナイフを手に取ったらすぐさま攻撃に移るべく構えていた武器を、私は思わず下に降ろしてしまった。

 相手はあまりにも無防備だった。いや、奴が本当に私の思い描いているような存在ならば、いくら無防備であってもそうやすやすと攻撃を喰らったりはしないだろう。先ほどのように。

 しかし、それは無邪気だった。

 自分でもおかしな表現だとわかっているが、そうなのだ。それからは攻撃の意思というか、敵意というものがまったく感じられなかった。むしろ子供のようなあどけなさすら感じられる。

 もっとも完全に油断することはさすがにできず、武器から手は離さぬまま私は「ここはどこだ」と問おうとしたが、それよりも先に向こうが口を開いた。

「人間がどうやってボクの紡ぐ夢の中に入り込んだ?」

「紡ぐ夢……?」

 意味が分からない。

 何かの比喩だろうか。

 私は自分でもわけがわからないまま、なぜかしどろもどろになりつつ言い訳した。

「私はある魔族を追いかけてきた。灰色の毛並みのウェアウルフだ」

「ああ、さっき狼が一匹飛び込んできたと思ったら、追われてたのか。傷だらけだったからどうしたのかと思ってた」

 再びかくんと首をかしげる。だが何か疑問がある訳でもないようだ。たぶん癖なのだろう。 

「あとをつけたんだ。だから人間が入ってこられたんだ」

 エメラルド色の髪がさらりと揺れる。煙った紫の瞳がやけにピカピカ光って見える。

 そう。

 そのウェアウルフを傷付けたのは私だ。だが傷付けることが最終的な目的ではなかった。

「居場所を知っているなら私に教えるんだ。そしたら……」

 そしたら?

 私は何をするつもりだ?

 私は自問する。答えは分かりきったことだった。

(殺す……)

 それは覆すこともできない自明の理。そのために自分は今ここにいるし、それが私の役割。

 だがどうしてだろう。それを今目の前にいる相手に告げることが、どうしてもできなかった。私はただぎゅっと唇を噛みしめる。

「教える? 構わないよ。でももう彼を傷付けることは許されない。ここは魔族にとっての、一種の平和領域(アジール)だから」

「それは、聞けない」

「なぜ?」

 何故。

 私は答えに詰まった。

 そんなことを聞くものは今まで一度もいなかった。

 あたりまえだ。

 聞くよりも先に、私はいつもその命を絶っていた。

 それが使命だから。それしかできないから。そうするべきだから。

 それは私にとってはあまりに当然の事で当然だからとしか答えられない。

 だが私は愕然とした。

 私は今はじめて気付いたのだ。

 それはあくまで私に、私たちにとってだけの『当然』なのだと。

「私は……ゼピュロスの、巫女長だ」

 それが理由。

 それだけの理由。

「もう一度言う。居場所を教えるんだ。そうしたら――っ」

 エメラルド色の髪のそれ、すなわち魔族の青年はかくんと首をかしげた。

「ゼピュロスの、巫女長?」

 私は魔族の顔が恐怖に、憤怒に、憎悪に色取られることを覚悟した。

 魔族にとって私たちは、そう反応されて当然の存在なのだから。

 だがあどけない顔立ちの魔族は表情を変えぬまま、今度は逆の方向にかくんと首を傾ける。

「ボクは芙蓉。でもまわりはこうとも呼ぶ。夢を紡ぐもの。封印の要。世界の礎。それから」

 煙った紫の目が真っ直ぐ私を貫く。


「魔王」


 私は。

 武器を向けた。

 条件反射のように、その魔族に襲いかかった。

 何を言われたか分からない。

 それでも脳よりも先に身体が反応した。

 だが武器が魔族に触れる直前、

 突風が吹いた。

 木の葉が舞い上がり視界を遮る。

「ぐぅ……」

 息もできないほどの強風に私は顔を歪める。

 魔王が口を開いた。

「攻撃の意思を持つものはここには居られない。でもまた来るといい。ボクはゼピュロスの巫女長が気に入った。入り口はいつでも開けておく……」

 舞い散る木の葉の隙間から、エメラルド色の髪の魔王の口元に笑みが浮かんだような気がした。


 上役には、単に獲物を逃がしたとだけ報告した。

 気心の知れた同僚が「珍しいこともあったものだ」とひやかして来る。

 私はそういう事もある、と答えて笑った。

 笑ってみせた。

 思いがけぬ邂逅の後、気が付けば私はひとり砂漠に立っていた。

 場所は<西の砂海>。

 オアシスすら存在しない不毛の砂地にして魔族の生息地。そして、私が最後に自分の位置を把握していた場所でもある。

 天では月が砂の海を銀色に染めている。それは私が居場所を見失う前に見たのとほぼ同じ高さにあった。つまり、わずかな時間しか経っていなかったということだ。

 訳が分からない。

 いや、頭が理解を拒んでいる。

 私は驚いていた。

 驚愕して、呆気に取られ、そして信じられなかった。

 まさか。

 あの魔族が魔王?

 私はエメラルド色の髪に縁取られた顔を思い出した。

 すべてに対して無関心であるようにすら取れる静かな眼差し。

 何も知らない動物のような無垢な瞳。

 あどけない表情。

 私の知覚から得た情報のすべてがあの魔族が魔王であることを否定する。

 あるいは信じたくないのかも知れない。

 私が知るところによれば、魔王とはこの世に穢れと災厄を振りまくものだ。

 だがアレは、そんなものにはけして見えなかった。

 それどころか、むしろずっと――、

(……いや、口にするべきではない)

 私はかぶりを振った。

 それどころか魔王を目にしたなどと、事実であろうと誤りであろうと、軽々しく言うことではない。

 私は口をつぐむ事を決め、ゼピュロスの本拠地、大神殿へと足を向けた。



   *  *  *  *



 ゼピュロス。

 すなわちそれはゼピュロス教のことだ。

 ゼピュロスの民の唯一にして絶対の神を信仰し、ゼピュロスの民の為に神の国を地上にもたらすことを最大の目的としている。

 ここは神に見放された地。神が汚れたこの世を厭うなら、我らが世界を浄化してまわり再び神の恩寵を地上に取り戻そう。

 そんな考えからゼピュロスの信徒は世界中におもむき、穢れを浄化してまわる。

 そしてゼピュロスが汚濁の最もたるものとして捉えているのが、魔物であり、魔族なのである。

 魔族とはすなわち穢れそのもの。だから魔族は抹殺すべきもの。そこには何の例外もない。

 それは絶対の正義であり、人間のためには当然の事。


 ――だが、


(それは本当に、正しいことなのだろうか……?)



「どうした、元気ないじゃないか」

 ドン、といきなり背中をどつかれる。

 私はよろよろとたたらを踏んで振り返った。

「……なんだ、おまえか」

 そこに居たのは顔見知りのゼピュロスの僧兵だった。彼はそれなりのベテランで、何度かタッグを汲んだこともあるかなり気心の知れた相手だった。

 ゼピュロス教には司祭や神父といった聖職者のほかに、僧兵や巫女といった役職がある。僧兵は雇われの傭兵などと共に魔族を討伐してまわる。巫女は祭事や神殿の内部業務などを担当するが、腕に覚えのあるものは彼らと共に討伐に加わることもあった。私のように。

 彼はよろめいた私を驚いたように見て、さらに顔をしかめた。

「お前、本当にどうかしたんじゃないのか。この間魔族を取り逃がしたとかいう時から様子が変だぞ」

 堅苦しい気質の者が多い神殿関係者の中でも珍しく気安い性質の彼は、飄々と私を励まそうとしてくれる。

「失敗を気にしてるのか? だがそんな細かいことまでいちいち気にしていたら身が持たないだろう」

 何よりお前は巫女長なのだし。

 体を壊したら元も子もないぞと言う彼に、私は苦笑して見せた。

「違う、そうじゃない。私は失敗なんか気にしない。これでも自慢じゃないが魔族を殺し損ねたことも一度や二度じゃきかない」

「そりゃ確かに自慢にゃならねえな」

 彼もおどけて苦笑する。

 だが――、

 私は顔を伏せる。私は分からなくなっていた。

「……なぁ、どうして魔族を殺さなきゃならないんだ?」

「お、お前そりゃあ……」

「魔族はこの世の穢れだからか? だがそんなこと誰が言ったんだ。魔族を殺すことで本当に世界が浄化されているのか? いったい誰がそんなことを証明出来るんだ」

「巫女長……」

 彼は酷く呆然とした顔で私を見ている。

 気持ちは良く分かる。私は自分たちの存在意義を根底から覆すことを口にしているのだ。

 私は開けてはいけない箱を開けようとしている。

 彼はおずおずと、しかし確固たる意志をもって反論した。

「……それは、確かに分からないな。少なくとも俺には証明できねぇ。だが、俺らのしていることは、魔族を討伐することはけして間違ってはいないはずだ。魔族は人に害をなす。魔族は人を殺す。俺らは人を守る為にも魔族を殺しているんだからな」

「では何故魔族は人に害をなす? それは人が魔族に害をなしたからではないのか。今、各国が競うように魔族の集落を襲っている。先に手を出したのは人の方ではないのか――?」

「やめろっ!」

 彼は悲痛な、あるいは怒りを必死でこらえているような表情で首をぶんぶんと振る。

「もうやめるんだ。ゼピュロスの巫女長。お前は疲れているんだ。だからそんなことを考える」

 彼はしかめた顔を伏せ、真っ直ぐ住居棟の方を指差した。

「しばらく休んだほうがいい。何も考えずにゆっくり寝てろ」

 私は静かにため息を漏らす。

「あぁ。そうだな、わかった。そうすることにするよ」

 悪いことをした。

 私は心からそう思った。

「それからもうひとつ、忠告しておくぞ!」

 くるりと身を返し歩き出す私に、彼は呼びかけた。

「今言ったようなことはもう誰にも言うな。ここでは誰にも理解されない。下手に言いふらせば異端者として報告されることもありうるぞ」 

「ありがとう」

 私はわずかに振り返り、再び歩みを進めた。

 彼の気遣いが嬉しかった。

 忠告に従ってゆっくり休んでみよう。そうすれば緩んだ(ふた)も元通りになるだろう。


 ――だが。

 そう考える思いとは裏腹に、いつまでたっても私の心が晴れることはなかった。  



   *  *  *  *



 まどろむ私の部屋の扉が激しく叩かれた。

「……なんだ」

 重低音の私の声音の所為か、隔てたドアの向こうから一瞬戸惑うような気配を感じた。

 寝起きの私の声は実はかなりドスが利いている。最近は特に寝付きが悪く、慢性的に寝不足だから不機嫌にも拍車がかかっているのだろう。

 目を瞑ると、なぜだか分からないがエメラルド色の色彩が瞼の裏でちらついた。もはやそれは何かの呪いのように。

(おかげで心休まる時がない) 

 寝台から身を起こし、あくびを殺す私の前で扉が開いた。飛び込んできた仲間の僧兵は寝乱れた私の姿を見て顔を真っ赤にし、再び室外へ飛び出す。まあ、神に仕える身としては女性の下着姿を見るなど誉められたことではないだろう。

「お前っ! 何でそんな格好をしているんだっ」

「気にするな。これが私の就寝スタイルだ」

「じゃあ、ノックに返事をするな! むしろ部屋に鍵を掛けろっ」

 ドアの向こうから浴びせられる悲鳴に、私はため息をついて返事を返す。

「それより用事は何だ。こんな時間に私を呼ぶなんてただ事ではないんじゃないか?」

 そんなこと言ってはぐらかすなと、ぐちぐち呟いていた彼は突然硬い声で私に告げた。

「魔族の討伐指令が出た」

「それがどうした」

 私は顔をしかめる。

 私はここのところ討伐には加わらず、ずっと神殿の通常業務に励んでいる。だからそれは今の私には何の関係もない仕事だ。

 だが彼は硬い声のまま続ける。

「対象は灰色の毛並みのウェアウルフ。お前が取り逃した魔族だ」

 私ははっとして扉の向こうを凝視する。

「お前はあれからずっと調子がおかしい。何があったかは聞かんが、この機会にもう一度初めからやり直せ」

 双方の間にしばし沈黙が降りる。

 無言の私に彼がため息をつき、扉の前から気配が消えるその直前、私は答えた。

 是と。


 私は鎧を身にまとい、兜を被る。

 そして戦斧の長い柄に手を伸ばす。

 幾百もの魔族の脳天を叩き割り、幾千もの魔族の血を吸った戦斧だ。

 『戦巫女いくさみこ』。

 それが私が巫女長として神殿から賜った二つ名だった。

 私が戦装束を整え、神殿を出ると仲間たちが駆け寄って来た。

「久しぶりだな。巫女長」

「戦巫女のようやくの復活だ」

 口々に掛けられる言葉に私は曖昧に微笑む。

 この動乱の時代、身体を動かすだけが取り得のような私が巫女長に選ばれたのも、聖戦の象徴として人々の意気を高めるという思惑があったからこそだろう。

 最近になってようやくそんなことにも思い至るようになった。

 だが、今となってはそうした他人の視線などどうでもいい。

 吹っ切れたわけではない。

 わだかまりが消えたわけではない。

 ただウェアウルフの話を聞いたとたん、脳裏に浮かんだのだ。

 あの、エメラルド色の髪の魔王の姿が。

 なんとも自嘲せずにはいられないことか。自分でも分かっているのだ。いくらウェアウルフを追いかけたって、またあの魔族に会えるとは限らない。

 だが私にはもうできなかった。このまま、ずっと訳の分からない衝動を抱えたままいたずらに時を重ねることが。

 この世には開けてはいけない箱がある。

 その(たが)が今緩んでいる。

 だから私は決めたのだ。

 ここでけりをつけようと。



   *  *  *  *



 仲間の一人が言った。

 ここに魔族を追い詰めたと。

 そこは<西の砂海>に程近いオアシスだった。私たちはオアシスを取り囲むように散らばり、泉をかこむ木々の間に踏み込む。周囲には結界を張って逃げられないよう備えた。

 私はそろそろと緑地に足を踏み入れ、あたりを見回す。けして大きくはないオアシス。茂る緑も以前に迷い込んだあの密林に比べればかなり貧相に思えた。

 果たして逃げた魔族はどこにいるのだろか。どこかの樹の影で追跡者に怯えているのか。

 だがもはや取り逃がすことはない。後はふいを付かれないように気をつければ……。

 そう思っていて私の頭上で木が揺れた。

(魔族だ)

 戦斧を構える私の前に、灰色の塊が落下する。無骨な刃を振り下ろしかけた私は、だがそのまま硬直した。

(子供!?)

 違う。魔族だ。

 しかし、前回と違い人の形を取る灰色のウェアウルフはどう見ても幼い子供だった。

 呆然とする私にむかい、鋭い爪を閃かしウェアウルフが飛び掛る。

「何をしているっ」

 がつん、と容赦ない力で突き飛ばされる。

 仲間の僧兵が間一髪で私とウェアウルフの間に割り込み、盾で半獣の子供を弾き返したのだ。彼は私を振りかえり、怒鳴る。

「何を敵の前でぼんやりしている。お前はそこまでふ抜けていたのか!!」

「違うっ、私は……っ」

「子供の姿をしていてもこれは凶悪な魔族だ。もういい。お前ができないなら、俺が代わりにやってやるっ」

 転がり咽ているウェアウルフに、彼は槍を振り下ろす。

「待て、止めろっ!!」

 私は叫ぶ。

 どうしてだか分からない。

 けれどどうしたって、私はそれを止めずにはいられなかった。それなのにいま、私の声はあまりにも無力だ。

 叫ぶしかできない私の目の前で槍が子供を貫く――その寸前、

 激しい突風が吹いた。


 叩きつけるような激しい強風に、私たちは耐え切れずごろごろと地面を転がった。

 仲間はそのまま気を失う。魔物はいつのまにか消えていた。

 息もできないような突風の中、しかし私は顔を上げあたりを見回した。

 この風に、私は覚えがあった。

 ふいに涙が滲む。

 果たして私は、舞散る朽ち葉の間にエメラルド色の色彩を見つけたのだった。


 エメラルド色の髪の魔王は、吹きすさぶ風をものともせず真っ直ぐ私の元へ歩み寄る。

「私を殺しにきたのか?」

 魔王はしゃがみ込んでいる私の前で足を止めると、かくりと首をかたむける。

 ふと風が止んだ。

「殺す? なぜ?」

「私は魔族を、お前の同胞を数え切れないほど殺してきたんだぞっ」

 つまり魔族にとってはまぎれもない敵であり、仇なのだ。

「それが?」

 しかし魔王は再び首をかしげた。

「魔族と人間は違う。見知らぬ同朋が殺されても、魔族は復讐しない」

 それよりも、とエメラルド色の髪がさらりと揺れる。

「なぜこなかった?」

「来る?」

「ボクは待っていた。入り口を開けていた。なのにどうして、ゼピュロスの巫女長はこなかったんだ」

 私は顔が赤くなったのを自覚した。

「魔王……」

「芙蓉」

 魔王は律儀に訂正する。

「芙蓉……まさかお前は、私に会いたかったのか……?」

「ゼピュロスの巫女長は会いたくなかったのか?」

 今度こそ私は言葉を失った。

「そ、そのために、私に会うためにウェアウルフを囮に使ったのか?」

「おとり?」

 魔王は首をかたむける。

「そんなのは知らない」

「だが魔族は魔王の命令を聞くんだろ?」

「魔王に従う魔族なんていない。魔王は夢を見るもの。封印の要。すべての魔族の敬意を受けるが、魔族を束ねる主ではない」

 やはり訳が分からない。

「ここにはゼピュロスの巫女長の気配を感じたから来た。それだけ」

「あっ」

 私は納得した。ゼピュロスの大神殿には結界が張ってある。今このオアシスを覆っているものよりずっと巨大で強力なものだ。あれからずっと大神殿にこもっていた私の存在は、それにより隠されていたのだろう。

「芙蓉、私は……」

 首をかしげた魔王の煙った紫色の瞳が真っ直ぐ私を貫いた。

「ゼピュロスの巫女長、ボクを殺したいか?」

 私は息を呑んだ。

 魔王を殺す。

 それはゼピュロスの一族の悲願ではないか?

 世界を浄化に導くためにすべての魔族を抹殺する。そこには何の例外もない。例外はあってはいけない。

 それが魔王であれば

 殊更に。

 震える唇から私は無理やり言葉を搾り出した。

「魔族は殺さなければならない。魔王は……、殺すべきだ……」

 幼い頃から私はそう教えられてきた。だが、

 だけど、

「殺したく、ない……。殺せない」

 私の目から、涙があふれた。

 私はもう殺せなかった。目の前にいるこの魔王だけではない。多分私はどんな魔族だって殺すことはできなくなってしまった。

 私は気付いてしまったのだ。これはたんなる殺戮だ。見も知らぬ相手を悪と定めて殺すことに、正しさなんかないんだと。私の信じていた絶対の正義などこの世には存在しなかった。

 それに気付けなかった私はあまりにも愚かだった。

 だがもうとっくに手遅れだろう。

 私の手は、もうどうしようもないくらいに血にまみれて汚れている。

 魔王はそんな私を見下ろしてかくんと首を傾げた。

「なら、殺さなければいい。簡単なことだ」

 私は呆気に取られて魔王を見た。

 魔王は私に向けて手を差し出す。

「ゼピュロスの巫女長がなかなかこないから、ボクは迎えに来た」

 手を取らない私に、魔王は再び首を傾げる。

「こないのか?」

「だって……、だって私はたくさんの魔族を殺してきた……」

「魔族と人間は違う」

 だけど、と魔王は笑った。

「ボクは共に居たい」

 あぁ、降参だ。

 私はうつむくと力を込めて目を瞑った。

 駄目だ。もう堪えられない。

 私はくしゃくしゃの顔いっぱいに泣き笑いを浮かべると、芙蓉の手を取った。

 白くて繊細な魔王の手は人間と同じくらい、暖かかった。


 私は箱を開けてしまった。

 この世は災厄で満ちるだろう。すべての災いが人々に降りかかるだろう。

 だが私は――、



   *  *  *  *



 ノックの音がして、扉が開く。

 今日訪ねて来るという事は前もって聞いていたが、それでも約束の時間よりはだいぶ早い。

 返事も聞かず、お邪魔しますとうそぶいて入ってきたそれは部屋の中を見るやに顔をしかめた。

「うわっ、何でこんなに暗いのさ」

 そしてかって知ったる様子で部屋を横切りカーテンを開く。陽光でそれの薄茶色の髪と翠色の瞳があらわになった。

「開けるな。薬草を陰干ししているんだから」

 私は文句を言って今の自分の商売道具である薬草を日差しの中から避難させる。こうして薬草を調合しては、薬を作り近隣の町に卸しているのが今の私の仕事だ。大した金になるわけでもないけれど、自分の糊口を凌ぐための大事な商売なのである。

「だからって何日も日を遮っていたら部屋にカビが生えるよ」

 呆れたように肩をすくめて、相手はてきぱきとものが散乱する部屋の中に自分の居場所を作っていく。

 この口うるささは誰に似たんだか。私は自分の息子を見てため息をついた。

 もっともこの他人をまったく気に掛けないふてぶてしさは、彼自身の父親に似ているような気もしないでもない。

「それよりも、母さん。もっと嬉しそうにしてよ。言っただろう? 今日はオレの子供を連れてきたんだ」

 息子はにっこり笑うと、抱いていた赤子を私の前に差し出す。

「母さんにとっては初孫だよね。ぜひとも母さんに名前を付けて貰いたいんだ」

 抱かされると、ずっしりとした重さが腕にかかった。

 熱い子供の体温。

 深い緑色の髪に、煙った紫の瞳。

 ぴかぴかと光る煙った紫の――あの人と同じ色の瞳。

 布に包まれて、小さな命はこちらを見て笑う。


   災いと共に箱の中に隠されていたモノ。

   私の手元には今、それがある。


 知らぬ間に、私の口元に笑みが浮かんでいた。

 私は『希望』を手に入れたのだった。



   *  *  *  *



  それは遠い遠い大昔

  失われてしまった世界に伝わる伝承



  災いの詰まった箱を開けた女、パンドラ

  その名の意味は


 ―――『すべてを与えられたもの』。



<終>


 この作品は、作者のホームページ『飛空図書館』に掲載されているものと同じです。

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