サリヴァン家
翌朝、エリオットたちは計画通りに行動した。すなわち、朝食を食べ、学院の制服に身を包むと、いつもと何ら変わりない風を装って、行きもしない学校の方に向かったのである。
何もかも順調だった。ただ、辻馬車の乗り場に着いたとき、エルティシアは動揺した声を出した。
「な、何でここにいるの!?」
エルティシアの視線の先にいたのはヘレナだった。今にも出発しそうな辻馬車の前に立つその姿を見て、まさかと青ざめた。
「ミランダさんに何か言われたのね?私たちを行かせちゃだめって!」
「違いますよ」
エリオットは姉の勘違いを正した。
「僕が呼んだんです。実を言うと、王都の馬車の乗り換えだの何だの、僕もあまり詳しくないんですよ。でも平民のヘレナなら、その辺りのことはよく知っていますから」
「だからって、何でこの子なの?」
「ヘレナは姉上に呼び出されて、よく学院へ行っているでしょう? 屋敷にいなくても怪しまれないかと思って」
「それは……そういうものなのかしら……」
エルティシアは納得したようなしていないような口調でブツブツ呟いた。本当は屋敷に残しておいて、また勝手なことをされたら困るから、という理由もあったのだがあえて口にすることでもないので黙っておく。
停留所でグズグズしていると、御者が苛立ちを孕んだ声で叫んだ。
「で、お前さんたち。乗るのか乗らないのか、そろそろはっきりしてくれないか?」
急かされて、エルティシアは渋々「そうね」と頷いた。ヘレナが止めておいてくれた馬車に三人は乗り込んだ。
動き出した馬車の中でヘレナはモジモジし、エルティシアは時折ヘレナを睨み付けていた。あまり良好とはいえない雰囲気だ。他に乗客がいる内はまだ良かったが、客が皆降りて行って、車内に三人だけとなると、途端に気まずい沈黙が流れ出す。エリオットは、エルティシアがヘレナを罵倒する言葉の一つでも吐くのではないかとヒヤヒヤしていた。
「あっ、次で乗り換えです」
ヘレナは勇敢にもこの静寂を破ってくれた。心配そうにエリオットの方を見る。
「あの……お金……」
「何ですって!? そんなものがいるの?」
ヘレナの言葉に反応したのはエルティシアだった。
「私たちに、これまでそんなものを要求した人なんて誰もいなかったわ」
エルティシアは憤慨した。今にも御者に抗議しに行きそうな様子の姉をエリオットは慌てて止める。
「姉上、落ち着いてください。目立つと困るんですよ」
「でも……!」
「私、少しなら持ち合わせがありますよ」
ヘレナが控えめに言った。
「馬車代には足りないかもしれないけど、もしかしたら御者さんがおまけしてくれるかも……」
「……ヘレナも変な心配しなくて良いよ。少なくとも僕は君より余分に持って来てるから」
ヘレナもエルティシアもエリオットの顔をまじまじと見た。
二人が意外そうな表情になったのには、訳がある。ローゼンベルク家の財産は、全て義母によって管理され、彼女が把握できなかった分は、叔母が好きなようにしていたのだ。大きな屋敷に住みながら姉弟は何も持っていないに等しかった。エルティシアが着ているドレスもエリオットの食事も、義母たちの言葉を借りるのなら『恵んでもらっている』という状態だ。そんなエリオットが馬車に乗る金銭など持ち合わせているはずがないと二人とも思ったのである。
「エリオット様、一体どうして……?」
「まあ、色々とね」
エリオットはお茶を濁した。ヘレナは深刻そうな、エルティシアは感心したような表情となる。前者はエリオットが良くないことをして金銭を得たのだと考え、後者は弟が上手いことやって義母たちを出し抜いたと思っているのだろう。「あんまり気にしないで」とエリオットは言っておいた。
三人はヘレナの指示に従って、その後何度か馬車を乗り換えた。新しい停車場に着く度、どんどん街並みが古び、人家もまばらとなっていく。そして、二時間と少しの後、エリオットたちはサリヴァン家領に足を踏み入れた。
関所で交通税を払っていると、番をしていた衛兵たちがじっとこちらを見てくるのが分かった。三人とも落ち着かない気持ちになったが、彼らの一人、五十歳前後の男性が嬉しそうに声を掛けてきた。
「失礼ですが、もしやカサンドラ様の……?」
衛兵はエルティシアに話しかけていた。彼女がカサンドラにそっくりだからだろう。エルティシアは戸惑いつつも「お母様を知っているの?」と尋ねた。
「やはりそうでしたか!」
衛兵は歓喜した。
「エルティシア様とエリオット様でしょう? サラ様のお見舞いにいらっしゃってくださったのですね! これは大変だ……」
その後の騒ぎと言ったらなかった。関所中から人が集まって来たのではないかというほど、辺りはごった返し、皆エリオットやエルティシアの顔をじっくりと見ては楽しげな表情となるのだ。「カサンドラ様の息子から通行税は取れない」と払った金は押し返され、終いには、まるで関係のないヘレナまで好奇の目に曝される始末だ。
エリオットが面食らっていると、ちょうど誰かが「馬車をお出しします」と言ってくれた。予想だにしなかった歓待っぷりにたじたじとなっていた三人は、ありがたくそれに従うことにした。
「本当にお懐かしい限りです」
しかし、馬車に乗っても、馬にまたがり並走してくる者もいた。後どのくらいで着くのか確かめようとしたエルティシアが小窓を開けた途端に、お喋りが再開した。
「最後にこちらにいらしてから、もう四年になりますかなぁ。お二人とも大きくなられて……」
あまりに馬車の周りに長蛇の列ができていたものだから、沿道に住む住民も何事かと家から顔を出して、こちらの様子を伺っているのが分かった。無視するわけにもいかないので、エリオットやエルティシアは、ぎこちなく手を振ってやる。すると、馬車に乗っているのが誰だか気付いた住民は弾かれたように笑顔になって、まだカサンドラの子どもたちの到着を知らないであろう隣人を呼びに行くのだ。
道沿いはすぐに、凱旋パレードかと思うほどの人で埋まってしまった。こんな人口の少ない土地で、よくもまあこれだけの人が集まったものだと思わず感心してしまう。ここが片田舎で本当に良かった。同じことが王都で起こっていたら、きっとすぐミランダたちの耳に入っていたに違いない。
そろそろ手を振り疲れ、笑顔も強張ってきた頃、やっと道の外れに一軒の家が見えてきて、エリオットはほっとした。
「ここが、お二人のお母様のご実家ですか?」
馬車が目指しているのがどこなのか気付いたヘレナが、意外そうに目を丸くした。
サリヴァン家は、元は少し広いだけの民家だったのだろう。そこに、あちこち建物を継ぎ足して無理に増改築を繰り返したような外見をしている。それに、家が建てられたのは相当昔のことらしい。外壁は雨露に曝されて半分腐りかけの木でできていて、屋根の上では風も無いのに風見鶏がギイギイと音を立てながら回っている。窓枠など、窓の開閉ができないのではないかと思ってしまう程に傾いているところもあった。
サンドリヨン王国では普通、貴族は領地ではなく王都に屋敷を構えて住んでいる。それでも起居の場を自領にこだわるような例外は、少々変わり者か、土地代を工面できそうもない小貴族だけだ。この、民家を改造しただけの領主館から察することのできるように、サリヴァン家は後者である。ヘレナは、どうして二人の祖母は王都に住んでいないのだろうと思っていたようだが、この館を見て、その疑問は解消されたらしい。
「おばあ様はお身体が悪いのよ」
エルティシアが負け惜しみのように言った。
「こういう空気の綺麗なところの方が良いに決まっているでしょう。そんなことも分からないの? 嫌な子ね」
馬車が止まった。少しもたれ掛かっただけで崩壊してしまいそうな門の前で、一人の男性が立っている。禿げ上がった頭をした背の低い、四十代半ばくらいの男だ。少しだけ側頭部に残っている髪は栗色をしていた。彼は馬車から降りてきたエリオットたちを、驚きつつも満面の笑みで迎えてくれた。
「関所の者が早馬を飛ばしてくれてな!」
彼の名はグラント・フォン・サリヴァン。カサンドラの兄でサリヴァン家の現在の当主だ。
「事前の連絡も入れず、いきなり来てすみません」
エリオットが謝ると、グラントは「何、気にするな」と快活に手を振った。
「こっちはいつでも大歓迎さ。しかしよくミランダ殿が許したな」
「エリオットのおかげよ、伯父様」
エルティシアが誇らしげに言った。最初は怯えていたが、今や義母を出し抜けたことにご満悦の様子である。
「それからヘレナもね」
エリオットは忘れずに付け足した。久方ぶりの親族の再会を邪魔しないように端の方で目立たないように立っていたヘレナが、いきなり名指しされて驚いた。
「こちらのお嬢さんは?」
グラントは、他に人がいるなんて考えてもいなかったような顔をしていた。エリオットが「お供です」と答える。
「それで伯父様、おばあ様はどうなんですの?」
エルティシアは、グラントほどにはヘレナに注意を払わなかった。深刻な顔で本題の方に移る。「そうだったな」とグラントも姪の方を向いた。
「今日は比較的体調が良い。でも、もうすぐ薬の時間だからな。それが終わるといつも寝てしまうんだ。会うなら今の内だな。二人とも長居はできないんだろ?」
訳知り顔のグラントにエリオットたちは家の中に案内された。「おいで」とエリオットに言われ、後ろからヘレナもついてくる。
外側もそうだが、内側も相当年季が入っていた。壁紙は黄ばみ、床板も傷んでいるようだった。
父の時代、ローゼンベルク家と繋がりのできたサリヴァン家は、これから栄えていくのだろうと誰もが思っていた。しかし、当主のヒューゴの死によって、その予測は外れる。それでも小ぢんまりとして温かみを感じるのは、ここに住む者の性質によるものだろうか。ローゼンベルク家の屋敷よりもずっと良いところだとエリオットは思った。