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届いた手紙

 翌朝、屋敷の中には様子がおかしい者が二人いた。


 一人はヘレナだ。


 今日のヘレナはおどおどしていて、何をするのもゆっくりになっている気がする。まるで失敗を恐れているかのようだ。叔母の朝の支度を手伝っているときの様子を聞いたところによると、ヘレナは最低でも十回は「遅い!」とアイリスに怒鳴られていたらしい。これまで理不尽なことで叱られはしても、仕事はテキパキこなしていたのに、使用人仲間も不思議な顔をしている。もっとも、食べたいと思った料理や着たいと思った服が、五秒後には目の前に並んでいることを望むアイリスを満足させられる使用人などいようはずもなかったが。


 もう一人の変化があった人物はエルティシアだ。


 朝起きてきたときには顔色が悪く、ぐったりとしていた。あまり眠れていなかったのか、目も充血している。弟よりも早く学院に行って、顔を合わせないようにしようという意志すらも貫く気力がなかったのか、ぼんやりとエリオットが登校する馬車に乗り込んできた。


 ヘレナの態度が変わった理由は推測できる。きっと、自分がセーブデータを破壊したせいだろう。ヘレナの用心の仕方を見るに、もしかしたら、セーブデータの消滅に伴って、別のところでも変化が起きているのかもしれない。エリオットは、それが自分にとって有利なことだと良いと思った。


 しかし、目下のところの心配はエルティシアの方だ。一体どうしてしまったというのだろう。まさか、クロウに頼んだ贈り物がミランダに見つかって怒られでもしたのだろうか。だとしたら自分の責任である。エリオットは不安になってきた。


 原因が判明したのは、それから二、三日してからだった。その日、エリオットは庭に出ていた。と言うのも、ヘレナをお茶にでも誘おうかと考えたのである。やはり攻略対象の一人たるもの、何かしらのイベントは用意しておくべきだと思ったのだ。

 

 ローゼンベルク家の庭は、まるで大きな一つの芸術品のようだった。庭師が毎日剪定を欠かさずに行う園路は季節ごとに様々な花で彩られるように工夫されていて、いつでも目を楽しませてくれる。水路の中に設けられた飛び石はすり減っており、ローゼンベルク家の歴史の長さが伝わってくるようだ。風がそよぐのに合わせて灌木の茂みが揺れ、芝生に落ちる木漏れ日の形が絶えず変化する。広い庭園内にはガゼボがいくつもあり、そこから庭をのんびりと眺めることも可能だった。


 エリオットはその内の一つ、サルビアやナデシコの花が咲き乱れる中に悠々と鎮座するガゼボが特に気に入っていた。下見をしながら、今回のお茶はここでしよう、と決めた。ヘレナもきっとここが最高の場所だと理解してくれるはずだ。

 

 一仕事終えたエリオットは屋敷へ戻ろうとしたが、あることに気付いた。南側のバルコニーに人影が見えたのだ。姉の部屋だ。しかし、何だか変だ。顔を俯けて椅子に座っているエルティシアの肩が、時折痙攣したように上下しているのだ。まるで、泣いてでもいるかのように……。


「姉上!」


 そう思うと、いてもたってもいられなくなって、エリオットは階下から声を張り上げた。エルティシアは弟に気が付いたようだ。顔を上げ、柵から身を乗り出した。


「今行きます!」


 エリオットはそれだけ言うと、屋敷に入って、階段を駆け上がった。ノックも早々に姉の部屋に飛び込む。


「エリオット……」


 エリオットの想像通り、エルティシアは泣いていた。鼻が赤くなって、目の周りが腫れている。「どうしました?」とエリオットは尋ねた。


「まさか、あの人たちですか? 何をされました?」


 エリオットは、エルティシアがミランダかアイリスにいじめられたのかと思ったのだ。姉が涙を流すような事態など、他に思い浮かばなかった。だが、エルティシアは戸惑いつつも「違うわ……」と弱々しく言った。


「これ……」


 エルティシアは一瞬躊躇ったが、エリオットがあまりに真剣な顔をしているのに心を動かされたのか、持っていた紙の束を渡してきた。


「……お手紙が来たの。マリーが持って来てくれたのよ」


 余程強く握りしめていたのか、皺が寄っている。差出人の名にエリオットは驚いた。サリヴァン家……実母カサンドラの実家からだった。


 しかし、内容に目を通したエリオットは、更なる衝撃を受けた。思わず姉と顔を見合わせる。


「どうしましょう」

 エルティシアは震える声で呟いた。


「私、どうしたら良いの……?」


 手紙にはサリヴァン家の当主の母親……つまりエリオットたちにとっては祖母に当たる人物についてのことが書いてあった。もう病気で長くない。せめて生きている内に一度、見舞いに来てくれないかと。


 母がまだ生きていた頃、エリオットたちはよくサリヴァン家の領地へ遊びに行っていた。王都からはさして離れてはいないのだが、起伏に富んだ痩せた土地のせいで辺鄙な場所と見なされており、住む者の少ない所謂田舎町のようなところだ。それでも、行く度に温かく迎えてくれるサリヴァン家の人たちに、エリオットもエルティシアも好感を抱いていた。特に祖母は優しく物知りで、今では皆が忘れてしまったような古い物語をいつも聞かせてくれたものだ。


「行きましょう、姉上」

 エリオットはすぐさま言った。


「おばあ様は、きっと待っていらっしゃいます。行くべきですよ」

「でも、ミランダさんが許すはずないわ」

 エルティシアはグスグスと鼻をすすりながらかぶりを振った。


 エリオットたちは、以前は毎年、サリヴァン家を訪れていた。それが途絶えたのはミランダのせいだった。本当はこうして手紙を受け取ることすら叶わなかっただろう。だが、ローゼンベルク家の使用人は、誰もミランダの味方ではないのだ。


 最愛の妻、カサンドラが亡くなった後、父のヒューゴは悲しみで何も手につかなくなってしまった。そんな彼を見かねて、周囲の者は再婚を勧めた。そして、後妻の座に収まったのがミランダだった。しかし、この結婚は失敗だった。彼女は、とても嫉妬深かったのだ。

 ミランダは、ローゼンベルクの屋敷の中からカサンドラがいたという痕跡を跡形もなく消すことに何よりの情熱を注いだ。前妻の子であるエルティシアやエリオットを可愛がらなかったのは言うまでもない。


 さらに悪いことに、ヒューゴが死んでからは、屋敷に叔母が押しかけて来た。叔母のアイリスはヒューゴの妹だ。すでに他の貴族家に嫁いではいたのだが、当時の夫から浪費癖に関して前々から苦言を呈されていたらしい。おまけに火遊びが発覚して、ついに離縁を言い渡されてしまったという。そこにヒューゴの死亡という、彼女にとってはまたとない好機が舞い降りたのだ。アイリスは、何とか自分が当主の後釜に座ろうと試みたようだった。現在のローゼンベルク家当主代理のミランダは、家の財産を食い潰してしまいかねない義理の妹を、当然快く思わなかった。


 現在のローゼンベルク家は、ギスギスした、非常に居心地の悪い場所だった。始終、ミランダとアイリスが火花を散らしあい、半ば冷たい戦争のような状態となっている。


「なら、黙って行くだけですよ」

 エリオットは当然のように言った。ずっと昔にサリヴァン家領に行ったときのことを思い出す。母の実家は、馬車を飛ばせば、大体一時間半くらいで着いた。交通事情によっては、もう少しかかるだろうか。


「明日、学院へ行くと見せかけてそのままサリヴァン家領へ行きましょう。往復で約三時間。向こうで何時間か過ごせば、いつもと同じ時間くらいに帰って来られると思います」

 エリオットは素早く頭の中で計算しながら言った。エルティシアは、目を丸くしている。


「でも、バレたら大変なことになるわ。それに、学院から今日二人が無断欠席していますって連絡が来たらどうするの?」

「ミランダさんのところに知らせが届くまでに、使用人の誰かが握りつぶしますよ」

 ローゼンベルク家の使用人は、ミランダの味方ではなくともエリオットたちの味方ではあった。


「それに、バレないようにすれば良いんです。まず、朝は普通に学院へ行く振りをして、町の辻馬車に乗るんです。そして、そのままサリヴァン家領まで行けば良いんですよ」

「どうして辻馬車に?」

「ローゼンベルク家の馬車だと、何時間も行ったきり帰って来ないのをミランダさんが不審に思うかもしれないからです」

「なるほど……確かにそうね」

 エルティシアは頷いたが、まだミランダに怯えているようだった。それでも意を決したように、「分かったわ、行きましょう」と言った。


「おばあ様、きっと私たちが行ったら喜ぶわね。……でも辻馬車なんて、私乗ったことないわ」

「そこはご心配なく」

 エリオットが心得顔で言った。


「大丈夫ですよ。僕に任せておいてください」

「……やっぱりエリオットは頼りになるわ」

 エルティシアは笑顔を見せたが、その瞳は、またすぐに潤み始めた。


「ごめんなさいね、怒鳴ったりして。私、馬鹿だったわ。エリオットが、もう私のことなんてどうでも良いって思っているのかもって勘違いしてしまったの。でも、エリオットはいつものエリオットだったわ。泣いている私を見て、真っ先に駆けつけて来てくれたんですもの」

「当り前ですよ」

 エリオットは微笑む。


「僕は姉上を守りますよ。絶対に、です」


 傷つきやすくて繊細な姉。どうして彼女を放っておけるだろうか。ミランダもアイリスも、エリオットにとってはどうでも良い存在だった。『家族』という肩書で縛られているから、同じ家に住んでいるようなものだ。エリオットが本当に大切に思っていた人たちは、エルティシアを残して皆この世からいなくなってしまった。だから、最後に残された『きょうだい』である姉のことだけは絶対に守らねばならないのだ。父が死んでから姉と肩を寄せ合って屋敷の中で息を潜めるようにして過ごしてきたエリオットは、自然とそう思うようになっていた。


「頼もしいわ。謎のファン君もこんな子なのかしらね」

「謎のファン?」

 エリオットはおうむ返しに問うた。エルティシアは少し得意げな顔になる。


「この前、私に贈り物が届いたのよ。美味しいクッキーの詰め合わせ。私の好きな味ばかりだったわ」

「ああ、それ、僕が送ったんですよ」

 エリオットはもう言っても大丈夫だろうと思った。「あら」とエルティシアは微笑む。


「やっぱりエリオットね。私を慰めようとしてくれたの?優しい子」

 エルティシアは慈愛に満ちた目をしたが、ふと眉を曇らせた。


「私も、少しはエリオットを守れたら良いのだけれど……」

 エルティシアが口惜しそうに言った。「良いんですよ」とエリオットは苦笑する。しかし、エルティシアは「だめよ」と頬を膨らませた。


「私だってエリオットのことが大好きなんですもの。エリオットには幸せになってほしいの」

「幸せに?」

 初めての姉弟喧嘩から仲直りした後だからなのか、エルティシアはいつにもまして素直に思っていることを吐露したようだった。エリオットは思わず首を傾げてしまう。


「ねぇ、エリオットの幸せって何?それを叶えるために、何か私、お手伝いできるかしら」

「僕の幸せは、姉上の……」

「もう、そうじゃなくて!」

 エルティシアは分かってないとばかりに腰に手を当てた。


「私のことじゃないの。他の誰のことでもない、エリオットのためだけの幸せよ。何かあるでしょう?私だったら、シャルル様と結婚することって答えるわ」

「僕のためだけの……」


 そんなこと、考えたこともなかった。エリオットの最優先事項はいつだって姉だったのだから当然だ。彼女はこの息苦しい家の中で一番弱い存在であり、エリオットは自分のことなど毎回後回しで考えていた。だから、いきなりこんな質問をされても答えられるはずがなかった。


「まったく、ダメね。優等生君」

 エルティシアは不満げにエリオットの鼻をつんと人差し指でつついた。


「今度質問するときまでには、きちんと答えを用意しておくこと。良いわね」

「……はい、姉上」

 エリオットは困惑しながら頷いた。こんなに難しい問題を出されたのは初めてだと思った。

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