ジョブチェンジしても前職の経験値は引き継げるようです
馬車は薔薇の意匠が凝らされたローゼンベルク家の巨大な門をくぐり、敷地の中へと入って行った。正面玄関に横付けされ、エリオットは馬車から降りる。次に下車するヘレナに手を貸してやっている様子を見て、御者が目を丸くしていた。
「では、私はドレスの修繕の他にも言いつけられたお仕事がありますので……」
ヘレナはお辞儀して、裏門の方へ向かって行った。やるべきことがあったのに、学院でのんびりシャルルと立ち話していたとは悠長なことだ。だが、乙女ゲームである以上、ここでの彼女の最優先事項は恋愛だ。そう考えると、ヘレナの行動は筋が通ったものとなるのだろうか。
(何だか分が悪いな……)
恋愛にだけ関心を示していれば後は全て上手くいくヘレナと違って、自分にとっては、ここは現実に生きている世界だ。ヘレナは思うようにいかなかったらリセットをすれば良いだけだが、エリオットはリセットボタンなど持ち合わせていなかった。何か選択する前にセーブして、間違えたらやり直す、なんてヘレナには当たり前にできることが不可能なのである。些細なミスが命取りになるかもしれず、気が抜けない。
(仕方ない……)
エリオットはヘレナの部屋へ向かった。前に入ったときと、中は何も変わっていない。机の上のピンクの本もそのままだ。エリオットは躊躇わずそれを持ち出した。
エリオットは厨房に行こうとした。ヘレナに見つかる前に素早く行動しなければならない。
だが、近くにある小ホールから、ミランダの声が聞こえてくるのにエリオットは気が付いた。見つかると厄介なことに巻き込まれるかもしれないので道を変えようと思ったのだが、彼女の口調に、はっきりとした嘲りを聞き取ったエリオットは、はたと足を止めた。
「本当にそんな恰好で舞踏会に行くつもりですの?」
ミランダの目の前には、シャンパンゴールドのドレスを着て、金の腕輪やネックレスでめかし込んだエルティシアの姿があった。
「品がないですわ。髪や目の色が地味だからといってそんな色のドレスを着るなんて、安易な発想ですこと。金メッキを塗られた子豚がダンスホールに迷い込んできたのかと勘違いされますわよ」
ミランダは、スリットの間から覗くエルティシアのふっくらとした足に侮蔑の視線を送った。
「で、でもミランダさん」
エルティシアは、何とか足を隠そうと腰をもじもじさせたが無駄に終わった。恥と屈辱の混じった顔で必死に弁解しようとする。
「このドレスはミランダさんが用意してくれたものです。私が選んだんじゃ……」
「まあ、わたくしが悪いと仰りたいのかしら?」
ミランダはわざとらしく柳眉を逆立てた。
「他にもドレスの候補はあったでしょう?」
「あれはミランダさんのドレスです。……私じゃ着られません」
エルティシアがこんなことを言いたくないのは明白だった。今や涙さえ浮かべている。ミランダは楽しげに「そうでしたわね」と笑った。
「あんなに胸元の開いたものや体のラインが出るものは、子豚には着られませんもの。醜い容姿を持つと気の毒ですわね。かわいそうだから、わたくしが別なものを見立ててあげましょう。枯草のように地味で豚みたいにブクブクした卑しいあなたのために」
「何か似合うものがあれば良いのですけれど」と付け足しながら、ミランダは聞こえよがしにクスクス笑う。エルティシアはギュッと拳を握りしめながら、震える声で尋ねた。
「でも……ミランダさん、指輪は良いですよね? ローゼンベルク家の指輪……」
「まあ、指輪ですって?」
ミランダが目を剥いた。
「あれは、代々のローゼンベルク家の女性が身につけることになっているものですわ。今回も、わたくしがつけていきます」
エルティシアの言う指輪とは、三代目のローゼンベルク夫人が、何か家宝になるようなものを、と考えて当時の一流の職人を何人も集めて作らせた逸品のことだ。ローゼンベルク家の家紋である薔薇の刻印がなされているだけでなく、珍しい宝石がふんだんにあしらわれた値段が付けられない程の品である。指輪は、普段は恭しく書斎の棚の特等席に飾られて客人を睥睨していた。取り出すのは、特別な場合のみだ。
そして指輪はこの四年間、使用されるときはいつでも、ミランダのほっそりした長い指の上で華やかに輝いていた。そんな事実を思い出したミランダは、自分の白魚のような手を撫でて、嘲笑を漏らした。
「だって、そうでしょう? あなたの太い指に、どうやってあの繊細な指輪を嵌めると仰るのかしら? 壊してしまうのが関の山ですわ」
残酷な事実をエルティシアに突きつけると、ミランダは、エリオットがいるのとは反対側の入り口から出て行った。
ホールからすすり泣く声が聞こえてくる。エルティシアが顔を覆ってしゃがみ込んでいた。
「姉上……」
怒りのあまり動くこともできなかったエリオットは、ようやく中に入った。エルティシアが、はっとなって顔を上げる。
「来ないで」
しかし、エルティシアはエリオットを拒絶した。
「あなたもあの女と同じ意見なんでしょ」
「違います」
エリオットは即答した。
「姉上は素敵な女性ですよ。そのドレスだって似合って……」
「似合う訳ないじゃない!」
エルティシアは逆上した。
「こんなの悪趣味だって、私にも分かるわ! でも仕方ないじゃない! あの人が……あの人が……」
エルティシアは恥辱に耐えられず、それ以上は口にできなかった。肩で息をしながら立ち上がると、「出て行ってよ」と恨めしそうに言った。
「私は、今誰とも会いたくないの。どこかへ行って」
「姉上、ですが……」
エリオットは途中で言葉を飲み込んだ。エルティシアの黒い目が危険な光を放っている。今彼女のそばにいても、慰めにはならないのだ、とエリオットは認めるしかなかった。
エリオットは重い足を引きずってホールを出た。少し歩くと、影から音もなく一人の男が近づいてきた。
「消しますか?」
二十代にも五十代にも見える男だった。黒い髪と瞳。眼光の鋭いやせ形で背が高い。場合によっては威圧的な雰囲気を纏うこともあるが、今はそのときではないと判断しているようだった。
「それで僕が満足すると思うの?」
エリオットは冷たく返した。「出過ぎた真似を」と男は大人しく引いて、どこかの暗闇と同化していった。
彼の名はクロウ。ローゼンベルク家の影だ。誇り高い名門貴族がするべきでないことを一手に引き受けてくれている。エリオットが父によって初めてクロウと引き合わされたのは、ほんの七、八歳くらいのときだ。その頃から父は、エリオットの才を完璧に見抜いていたのだろう。エリオットが父から継いだのは、容姿だけではなかったということだ。ミランダたちは、もちろんそんな存在がいることなんて知らない。エリオットもわざわざ教えてやる気などさらさらなかった。
「ああ、でも一つだけ」
エリオットは思い出して付け足した。傍から見れば、一人で喋っているように聞こえるかもしれない。
「姉上に何か贈り物を持っていってあげて。あの人が見つけられないようなものが良いな。食べたら無くなるお菓子とか。……姉上を刺激したくないから、僕からだって分からないようにしてね」
返事はないが、主人の要望をクロウが聞き逃す訳がない。エリオットはそのまま厨房に向かった。
厨房にエリオットが来たことに料理人たちは驚いたようだった。だが、エリオットが人払いを命じると、文句も言わずそれに従った。誰もいなくなると、エリオットは迷わず手に持っていた本を竈の火の中に投げ入れた。
(これでやっと、同じところからスタートできるね、ヘレナ)
エリオットは思わず笑ってしまった。これでもう、セーブなどできまい。エリオットは、ヘレナのアドバンテージが黒こげになって跡形も無くなる様を眺める。ローゼンベルク家を暗部から支える者に主人と認められていたり、主人公の退路を断つような手段をとったりするなんて、いかにも悪役という気がする。だが、エリオットは、自分ではヒーローの一人にはなり得なかったのだとは思わなかった。きっと、ジョブチェンジしても前の職の経験が生かせるのだと、そう考えたのだ。