主人公補正は容姿以外には適用されないようです
翌朝、エリオットが起きて朝食を食べに行くと、姉はすでに学院に行った後だった。まだ始業まで大分あるというのに、こんなことは今まで一度も無かった。それに、いつもはエリオットと一緒に登校するのだ。もう自分の顔なんて見たくないのだろうかとエリオットは無性に悲しくなって、食事がほとんど喉を通らなかった。たった一人で腰かけていた長いテーブルから、エリオットは食べかけのサラダやスープを置き去りにして、早々に立ち去ろうとした。
だが、ホールを出てすぐに息を呑んだ。一人の少女がレモンイエローのドレスを抱えながら、向こうを歩いている。
見たことの無い子だった。だが、彼女はエリオットのことを知っているようだ。こちらに気付くと、慌てて頭を下げた。
「おはようございます、エリオット様」
エリオットは目を剥いた。まさかと思いながら呟く。
「ヘレナ……?」
「はい、何でしょう」
女の子は当然のように返事した。エリオットはポカンと口を開けてしまいそうになった。
ヘレナは、こんなに可愛かっただろうか。
小作りな顔はとても繊細で、ぱっちりした大きな金の瞳や、仄かに赤い唇がそこに花を添えている。睫毛の一本一本まで、魂が込められているかのようだ。今まで、ボサボサだとしか認識できていなかった髪は、綿菓子のようにふんわりとしていて、コスモスみたいに可憐なピンク色をしていた。遠慮がちな表情さえも、どこかいじらしく、健気そうに見える。
(これが主人公補正……)
なるほど、攻略対象のヒーローには、ヘレナはこう見えているらしい。エリオットも一瞬目を奪われてしまった。
「エリオット様?」
ヘレナはエリオットが何も言わず、自分の顔ばかり見つめているので不思議そうな表情になった。
「いや、何でも」
エリオットはかぶりを振りかけたが、思い直して付け足した。
「今日も可愛いね、ヘレナ」
「えっ……」
ヘレナは絶句してしまった。
(おっと、失敗か……)
エリオットは表面上では余裕の笑みを浮かべつつも、内心で冷や汗をかいた。
そもそも可愛い子は「可愛い」などと言われ慣れているはずだ。自尊心は満たされるかもしれないが、言った人を特別視したりはしないだろう。ヘレナに至っては過去に九人のヒーローからアプローチされているのだ。今更こんな言葉でエリオットに心が傾きなどするまい。自分としたことが、痛恨の判断ミスだ。まあ、乙女ゲームの攻略対象になるのは初めてだから仕方が無いか。
「変なこと言ってごめんね。……それは姉上のドレス?」
エリオットは素早く話題を転換した。ヘレナの抱えているドレスを指差す。エリオットの記憶に間違いがなければ、これは昨日のエルティシアが着ていたもののように見えたのだ。ヘレナはまだ困惑しつつも「はい」と返す。
「裾が汚れていたから落としておきなさいと申し付けられました」
エリオットはドレスに目をやった。付いている赤紫のシミは、昨日こぼした飲み物によるものだろう。新しいのを用意しろなどと姉が言うはずがない。そんなこと義母や叔母たちが許さないからだ。
「ヘレナ!」
怒鳴り声が聞こえてきて、エリオットもヘレナも飛び上がった。噂をすれば影だ。叔母のアイリスが肩を怒らせてこちらに歩いてくる。
「私はこれからモンタギュー夫人とオペラを見に行くんだよ! 早く支度を手伝いな!」
「支度を、ですか……」
「何か文句でもあるのかい?」
一瞬ドレスに目を遣って躊躇いの表情となったヘレナに、アイリスは眉を吊り上げた。ヘレナが肩を震わせる。
「い、いいえ。……分かりました。その……お手伝いします」
ヘレナはおっかなびっくり頷くと、エリオットに一礼してアイリスの後ろにこそこそ従った。角を曲がって二人の姿が見えなくなった辺りで、「何だい、このビラビラしたものは!」という叔母の甲高い声と、布を切り裂くような音が聞こえてくる。アイリスがエルティシアのドレスを破ってしまったのだろう。
エリオットは怒りで唇を噛んだが、裂かれてしまったものは抗議したところで元には戻らない。それどころか、エリオットが本気になって怒れば怒るほど、叔母は愉快な気持ちになるだけだ。
それに間の悪いことに、「ヘレナ、どこにいますの!?」というミランダの声まで聞こえてきた。口調から察するに、相当機嫌が悪そうだ。こんなところに鉢合わせたら面倒なことになる。エリオットは飛び出して行きたいのをぐっと堪えて踵を返し、学院へ登校する準備のために自室へ戻った。