失われたもの
「おいおい、なんだよこれは……」
荒らされた室内を見たウィリアムが絶句する。続いてアイリスの声。
「あれは私の宝石じゃないか! なんてことだろうね!」
アイリスは脇目も振らず自分のコレクションに近づいて、何か無くなったものはないかと確認し始めた。
「泥棒ですって!?」
やや遅れてミランダも到着した。何人かの使用人を引き連れている。
「コソ泥が、私の宝石を狙ったんだよ!」
アイリスが声に怒気を孕ませる。
「ああ、こんなところに傷が付いちまって……」
「ご自分のお部屋に入りきらなかったからといって、このようなところに保管しておくからですわ」
ミランダは、良い気味だとでも言いたげだった。その目が、室内を一巡する。棚の上を見て、そこにあった指輪が姿を消しているのに気が付き、ミランダは眉をひそめた。
だが、窓の下で粉々になったものが目に留まった瞬間の動揺は、それ以上だったようだ。
「誰か!」
ミランダは叫び声を上げた。
「あれを取って来なさい! 早く!」
使用人の中から弾かれたように一人が進み出て、ハンカチで、その欠片を拾い集めた。ミランダは、微動だにせずにその様子を見つめている。
それが終わり、欠片を見せられたミランダは凍り付いた。
「……あなた、泥棒がこれを壊していったんですの?」
ミランダが、エリオットとヘレナに尋ねた。エリオットは、ここは自分が答えるよとヘレナに目で伝え、ハンカチの中を覗き込む。大小さまざまなアイボリーの破片が見えた。そのいくつかに、彫刻が施された跡がある。今はバラバラになって元が何の模様だったか分からないが、これらをパズルのピースのように組み合わせていくと、薔薇の形になるとエリオットには分かっていた。
「はい。袋の中に、宝石と一緒に入れていました。でも逃げるときに踏んでしまって、壊れたみたいですね」
「何だい、どうしたんだい」
ミランダのただならぬ表情に、アイリスが顔をしかめた。
「まさか、私の宝石じゃないだろうね。これ以上の大損はごめんだよ」
「あなたの宝石などより、よっぽど価値のあるものが失われましたわ」
ミランダが冷たく言った。
「公印が壊されました」
「なんだって?」
流石のアイリスも肝を潰したようだ。
泥棒が木っ端微塵にしていったのは、ローゼンベルク家の公印だった。公の文書にサインするときには必ず捺印しなければならない、重要な印章である。これが押されていないと、正式にローゼンベルク家が内容を受理したとみなされないのだ。
公印が壊されてしまったということは、これからの公務に差支えが出るということである。ミランダたちが青くなるのも無理はない。
「盗まれなかっただけ、良かったじゃないか」
二人が顔を見合わせているのを見て、ウィリアムが慰めるように言った。しかしアイリスは「あんたは間抜けかい?」と、ウィリアムを罵る。
「新しく公印を作るのに、どれだけ手間が掛かると思ってるのさ」
「でもよ、お前。こんなもん職人を集めりゃ一晩も……」
「この愚図!」
アイリスは眉を吊り上げた。
「あんたみたいな馬鹿はお話にならないよ。作り直しても、それが新しい公印だって承認されるのに時間が掛かるって言ってるんだよ! 何せこれは、この世に一つしかあってはいけないものだからね。ここまで言わないと分からないのかい?」
いくつもの公印が作られ、それが使用されると、偽造文書が横行する恐れも高まる。そのため、公印の数は、一家に一つと決められていた。何度も作り替えたりするものでもないので、公印を変えるときの手続きは煩雑なだけでなく、時間が掛かることこの上ないのだ。