予期せぬ邂逅
放課後、予想以上に気合の入ってしまった勉強会を終えたエリオットは帰路に着いた。いつもよりかなり遅めの帰宅になってしまったが、想像したよりシャルルの出来が悪かったので仕方がない。だが、これからも自分が勉強に付き合ってやれば、卒業できなかったなどという王太子にあるまじき失態は犯さなくて済みそうだ。というか、そうでないと困る。
エリオットの乗った馬車が屋敷の近くに差し掛かる。エリオットは読んでいた本から目を上げて、鞄にしまおうとした。
その拍子に、開け放しておいた小窓からピンクのものが見えた気がした。場所は路地裏だ。
「止まって」
反射的にエリオットは口を開いた。あれはヘレナの髪のような気がしたのだ。見間違いでなければ、もう一人、誰かいたようにも見えた。
(まったく、次から次へと……)
エリオットは顔をしかめた。きっとヘレナの攻略対象の誰かだろう。油断も隙もあったものではない。いっそのこと、ヘレナに屋敷の外へ出るなと命令すべきか。
エリオットは、御者に先に帰るように言い、自分はこっそり路地裏を覗き込んだ。予想通り、ピンクのものはヘレナの髪だった。彼女が誰かと話しているのも見間違えではなかった。しかしその相手は、ヒーローどころか、エリオットが会ったこともない人物だった。だが、ヘレナの方はそうではないらしい。嫌な匂いと汚らしい身なりをした、どう考えても一緒にいたい部類ではないような三、四十代くらいのその男性は、親し気な調子で彼女の名前を呼んでいる。
「なぁ、ヘレナ」
男の猫なで声は、ゾワゾワと胃に響くような不協和音だった。
「俺の知ってるお前は、まだあいつの腹ん中にいたってぇのに、随分と大きくなったもんだな? もう十七なんだろ? え?」
「今更何なの?」
ヘレナは怯えているようでもあり、動揺しているようでもあった。
「何しに来たの?」
「決まってらぁ、次期ローゼンベルク夫人」
男は舌なめずりをした。
「お前は誰のお蔭でこの世に生まれてきたと思ってるんだ? ちょいとは、感謝の気持ちを示すのが道理ってもんだぜ」
「生んでくれた母さんのお蔭よ」
怖がりつつも、ヘレナはハッキリと言った。
「あなたには関係ない。あなたは母さんのこと……」
言いかけてヘレナはぎょっとした。エリオットと目が合ったのだ。
「おや、あんたは……」
男の方もエリオットに気が付いたようである。振り向いた顔は無精ひげが伸び、何日も洗っていないかのように黒ずんでいた。
「エリオット様ですね。へへ……お初にお目にかかります」
男の生涯で一番丁寧にしたと思われる挨拶の言葉が、エリオットに向けて掛けられる。加えて、恭しくお辞儀までしてきた。だが、顔を上げたときに見せた品のない笑みが、彼の腹の底に隠した卑しさを充分物語っていた。
「誰?」
エリオットは男に一瞥をくれた後、ヘレナに聞いた。
「随分、趣味の悪い友だちだね」
「いやいや、まさか」
男は何がおかしいのか大声で笑った。
「そんな他人行儀なもんじゃないですぜ、坊ちゃん。なんたって、俺はヘレナの親父なんですからね」
「違うわ!」
ヘレナが素早く叫ぶ。
「私、あなたなんか知らない!」
「おいおい、冷てぇこと言うなよ、ヘレナ」
脂下がった顔をする男を、ヘレナは睨み付けた。ついぞ見たことのない厳しい表情だ。
「ヘレナの父親は行方知れずって聞いてるけど」
思わぬ人物の登場にエリオットは戸惑っていた。
「何で今頃?」
「坊ちゃん、俺みたいな奴でも、新聞を読むんですぜ」
男はにやけながら答える。
「挿絵を見たときには驚きましたぜ。キャリーそっくりの女が描かれてたんですから。で、俺はピンと来たって訳でさぁ。このヘレナって娘は、俺と昔の女房との子なんだってね」
「嘘言わないでよ。結婚もしていなかったし、母さんのこと捨てたくせに」
ヘレナは憤慨したが、男は「人聞きが悪いねぇ」と悪びれる風もない。
「俺はキャリーと結婚したかったぜ。でもよ、気難しい女だったからなぁ、あいつは。ある日、俺とはもう会わないとぬかしやがった。俺はその通りにしただけさ。で、母さんは元気かい?」
「死んだわ」
ヘレナは唇をギュッと引き結んだ。
「馬車の事故で死んだの。孤児になった私に同情した前の当主様が、ここに住まわせてくれたのよ」
「そりゃあ、運が悪い」
男は大げさに悲しそうな顔を作った。
「母さんが死んで寂しかっただろ、ヘレナ。父さんが慰めてやるぜ、これからはな」
「近寄らないで!」
にじり寄る男に、ヘレナは半分悲鳴のような声を上げた。
「もう私の前に現れないで! ……失礼します」
最後の一言はエリオットに向けて放たれたものだった。ヘレナは矢のような速さで男の脇をすり抜け、路地裏から出て行く。
「いきなりだったもんで、ちょいとビックリさせちまったかな」
男が低く笑った。
「じゃあ、今日はこの辺で退散しますかね。また会いましょうや、坊ちゃん。なんたって俺はあんたの未来の義父なんですからね」
男は最後まで薄汚れた笑みを張り付けたままだった。去り際、彼の顔を見たエリオットは、その瞳が金色であったと気が付く。
「クロウ」
エリオットは影の従者の名を呼んだ。
「排除をお望みですか?」
音もなく現れた黒ずくめの男が低い声で言った。
「そんなことじゃないよ。欲しいのは情報」
「承知しました」
クロウは来たときと同じく、一瞬で消えた。
どうやらあの新聞は、想定外の事態を引き起こしてしまったらしいと、嘆息せずにはいられなかった。




