皆さん怖くないですか!?
civ6が楽し過ぎる。そして文字数が1万超えた。とは言っても、いつも9000ぐらいな訳ですけどね。木曜日はグノーシアの発売日だから買わなきゃ……。(全文意訳:やることいっぱいだけど楽しい)
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昼下がり。太陽が登れど、厚い雲の上。
「今日は気前が良くて、輪之内君の財布の紐が緩い日だって聞いたから……。傘、買って貰えないかな、って。」
「もしかしなくても、久慈ちゃん発信の情報だよなぁそれ、坂祝さん。」
「うん、そうだよ。
午後の講義が休講になった輪之内下呂二年生は、午前の講義が終わっても、場所を図書館に移しただけで、変わらず本を読んでいた。
【件名:休講のお知らせ。
昼の12時を過ぎていますが、午後の講義を休講とします。学生の皆さん、申し訳ございません。】
そんな内容の、滅多にない茜部志倉教授による休講の報せに、疑問はあれど先ず思うのは幸運の一文字。タイミングが良いと言ってもいい。困り事を調べたいというタイミングで講義が無くなるなんて、なんという巡り合わせ。運命と言っても差し支えは無い。
……でも、まさかその困り事のせいで、教授が休講を決めたなんて。輪之内君は露程も知らないのでした。」
「待って坂祝サン、待って。待って!?」
「声裏返ってる。それと、静かに。ここ、図書館だから。他にも人は居るんだよ?」
「坂祝さんは今迄ベラベラ喋ってたのに!?」
「声量の問題だから……。」
本の虫になっていた下呂の目の前の席に座った坂祝富加、下呂と同じく二年生。彼女は澄ました顔で、小さな声で、見事下呂の度肝を抜いてみせた。
「多重人格について、何か分かった?」
「……それについては、俺の読んでる本の表紙を見れば分かるとして。教授の休講理由が俺の困り事と同じ原因ってのは、冗談? それとも事実? だとしたら何それどこ情報?」
「図書館に来る人はみんな陰キャって、棘のある言い方だよね……。図書館は陽キャの来る所だ、って全世界に定義して欲しいね。但しこの場合の陽キャは、知識の陽キャに限られるけど。」
「……………………、」
会話が成立しているのかもあやふやな、ちぐはぐの問答。事実の是非、情報の出典、何一つとして答える気が無いのかそれともあるのやら。富加の表情、そして口調は、ざわつく下呂の心境とは裏腹に凪いでいる。
『図書館に来てた時点でお察しさ。本を読んで元気になれる奴は稀だよ。それに、図書館は陰キャの来る所だし。』
「……………………流石に、あの下らない世間話まで、久慈ちゃんが君に伝えたとは思えないし。素直に怖いんだけど、坂祝さん。」
「怖がられても仕方無いかもしれないけど、私は、異常事態の時に何も変わらず普通で居られる様な人間じゃないよ。」
「じゃあ、妖怪?」
「……反応する単語が、爛れてる。」
ズバリ訊いた下呂に、富加は苦笑する。
「今の困り事が終わったら、私の困り事を手伝ってくれないかな? ……阿寺さんの様子が、可笑しい事についてなんだけどね。」
「久慈ちゃんが?」
「図書館に来たよね、阿寺さん。」
「それが可笑しい事だって、そう言いたいのかよ。」
「その原因が異常事態なんだよ。」
下呂は今迄の薄ら寒さに加え、ある種の凄味を感じていた。何かを確信している様な、眼。少なくとも、そんな眼をする奴では無いというのが下呂にとっての、今迄の坂祝富加だ。穏便で、人との距離をそこそこに保つ一般人。
……だってのに、これじゃまるで別人じゃねぇかよ。坂祝さんはトラブルに首を突っ込むタイプじゃねぇ、筈だ。何処ぞの兄貴とは違って。
「トラブルは、トラブルになるより先に未然に解決するの。それが、私っていう人間。」
「……にんげん。」
「だからその為に、手伝って欲しい。手伝ってくれるなら、少しだけ、私の分かってる事を教えてあげる。教えてあげるから、ことの解決を急いで欲しいな。」
「……何を、何処まで知ってんの。」
「輪之内君がこうして本を読んでいるのは、複数ある人格の一つを潰す為。だからまずは、多重人格と呼べる物の治療法から当たってみている。けれど、多重人格はそんな一瞬で治せる物では無いという事ばかりが出てくるんだよね?」
でも、それはそうだよ。多重人格の治療って、人格の消滅って、つまり人殺しだから。
下呂には少しだけ、その一言で図書館の視線が集まった気がした。
「お祓いは出来ないと思ってる。だってお祓いを受ける対処も、祓われてしまうかもしれないから。」
「……だから、今こうして探してんだよ。」
「教えて欲しい?」
「……………………。」
音も無く飲み込まれた息。突然過ぎる取引。まるで腹の内の分からない相手。晒しているからこそ、現段階が最大限とも思えない。
こいつは、何だ。
下呂は、妖怪を名乗る相手にこそ怯えはしなかった。名乗られど、別段恐怖体験を自らが受けた訳じゃなし、故に人間とそう変わらぬ物ではないかと思っている。それは妖怪達が、人間社会に擬態しようとする為に人間らしくあるからなのだが、下呂に対し全く以てその戦略は項を制している。
それが、此度は事の根幹への遠回りになってもいるのだが。
現に、下呂が読んでいる本に、カルトに関する物なぞ一つもありはしない。科学的で、人間的な対処法のみを模索している。義兄が行ったとされるひとりかくれんぼ、そして引越しに追いやる迄に至ったメリーさん。それらに関して触れる程度にすら調べていない。
「一切の疑問を無視して、仮に? 坂祝さんが俺の困り事を解決する術を知ってるとして。じゃあ、坂祝さんがやってはくれねぇの?」
「うん、ダメ。これは、輪之内君のお兄さんが解決すべきだから。」
「兄貴が元凶な訳だしその通りだけど。」
「理解するべき、だから。事のあらましを。」
「…………あらまし、ねぇ。」
必死に調べて知ろうとしてる事を、どうして赤の他人が知ってる風なんだよ。嘘でも本当でも納得行かねぇ。
沸き立つ猜疑心と懐疑心。下呂は別に飼ってもいないが、飼い犬に手を噛まれた心地だった。思っていたのと違う、という想定外。
そもそも。彼らが二人で会話する機会といった物が、入試と合格発表日以来、この日が初めてである所から、下呂にとっては想定外なのだ。
「……………………。」
「……………………。」
「………………んー。」
「…………、」
初めてであるので、それ以上に会話が続かない。
「……納得行って無いみたいだし、今日は帰るね。」
「あ、うん。なんか良く分かんねぇ頼り方でも頼ってくれたのは嬉しいよ。けどさ、悪いけど、引き下がって他を当たってくれねぇ? 久慈ちゃんを助けてくれって坂祝さんに言われたら、助けてくれる奴とか……多分うようよ居るから。」
「確かに、居るとは思う。」
「ほら、だったら、大丈夫だって。多分どうにかなるって。」
「…………どうにか、なんて幾らでもなるよ。」
音も無く席を立つ富加。午後の講義も無くなった以上は、これから帰るのだろう。普段からつるんでいる阿寺久慈達とも別行動をしているのだからこれから再合流、という事もあるかもしれない。しかし直ぐにはその場を離れなかった。目線の先には外の光景、つまり雨。
「……輪之内君、傘奢って貰えないかな。財布持って来てないの、今日。」
「え、その話には戻るんだ。」
「朝も雨が降ってたから、お父さんに傘を借りたんだけど……。お父さんの傘は凄く古くて日に焼けてる、ちゃんと使えるけど見た目だけボロ傘なの。」
「借りた傘なら帰りもそれ差しなよ坂祝さん……。行きはそのボロ傘でここまで来たんじゃねぇの?」
それは何だ、お父さんの傘がそんなにも嫌なのか。
下呂は悲しき世の父親の現状を見てしまった気がしたが、すぐさまそれは取り消された。
「お父さんの傘が嫌って訳じゃないよ? ボロ傘だから嫌って言ってる訳でもないし。」
ただ、と富加は哀しげに続ける。
「ボロ傘だったから、他の人には置き去りにされて放置されたままの傘に見えちゃったみたいなの。」
「見えちゃったから、何?」
「………………持ってかれちゃった。咄嗟の事だったし、この傘なら問題無いと思われたらしくて、置き引きしても持ち主なんか居ないだろって。」
「あちゃぁ、そりゃ災難だ、な…………ん?」
「うん。」
「置き引きにあった? 今日?」
「うん。」
傘の置き引き。それを聞いた下呂に、少しの違和感。そうだ、坂祝富加と言う様に朝から雨が降っていたのに、この学校に傘を持ってこなかった奴なんて、置き引きしなきゃいけなかった奴なんて居たのか?と。咄嗟の事で、傘の置き引き?
「所で話が変わらないんだけどね。輪之内君のお兄さん、職員用傘立てに傘を置いたまま帰っちゃったから、帰る時持っていってあげて。」
「…………何処まで本当で何処まで嘘かハッタリか、分かんねぇけどさ。本当に、兄貴の傘が放置されてるのなら。傘を奢るよ。」
「そっか。399円だよ。」
下呂は大人しく本を閉じた。
***
「あーっ、結局その傘!」
「……まぁ、どう見てもコイツ、放置傘だし。大丈夫だろ。」
がちゃり。
垂井不破が走って帰路に着く事になった、連日二日目。出迎える様なタイミングで重々しい音を鳴らし、開いた扉のドアノブを握っていたのは、言わずもがな、不破の家に上がり込んでいた茜部志倉。渋い表情をしている。
「………………教授、」
「ええはい、おかえりなさいませ家主様? 勝手に上がらせて貰っていますよ。」
「…………U字ロック外してくれないと、俺入れないです。」
「へぇ、そうですか。」
「……………………。」
ドアチェーンと同じ役割を果たしながら、その実鉄の棒をU字に加工した精巧となっているU字ロック。
それが、恩師と元教え子の間に物理的な距離を作っていた。
「ふ、不破さぁん……助けて下さいこのお兄さん何にも話を聞いてくれません!!」
「いえ聴いていますよミリーさん。ですから早く、この家を出ましょう?」
「……ミリー、さん?」
「あわ、えっと、これは、その。」
不破の目の前で志倉は間違いなく、誤字でもなく、■■■■■の事をミリーさんと、そう呼んでいる。呼び出しのメールに書かれていた名は正しく彼女の事を示していた。
「貴方が誰だか知らないけど、ここはこの分らず屋の家なの。だから入らせて。」
「…………誰です? 貴女は。」
「その子に用事がある者よ。そしてそれには、貴方には及びも付かない様なのっぴきならない事情があるの。だから何のつもりか知らないけれど、その子に関わるのは止して。迷惑だから。」
「及びも付かない事情? 成程それは興味深いですね? 是非ともお話伺いたいです。」
「…………埒が明かない。」
傘を差しては来たものの、走った為に濡れた裾が冷たい。何なら見えないながら靴下はぐしょ濡れとなっていて、家に入れない事も含め不破の中で不快感が増している。
「なぁ、ミリー……さん、で、合ってるよな?」
「は、はい。そうです不破さん。」
「教授を家に上げたのは、お前?」
「…………すみません。」
「何で、どうやって縄抜けしたんだ、ミリーさん。」
「………………ごめんなさいぃ……。」
僅かに眉間に皺を寄せた不破に問い質され、尻すぼみな謝罪を述べるミリー。違うそうじゃない、謝罪ではなく理由が訊きたいのだと、不破は更に続ける。
「名前、あったのかよ。今迄教えてくれなかったのに、教授には話すって可笑しくねーか?」
「あの、でもこの名前は……。」
「お前は結局何者で、何が出来て何が出来な、」
「捲し立て過ぎ、もう少し落ち着きなさい。」
「い……。」
不破は、馬籠が閉じた傘の手元の部分で、不顎を下から小突かれた。舌を噛む程の強さではなかったが、そのまま不破は黙り込む。オロオロとしているミリーはU字ロックを外したいのか手を軽く伸ばすが、どうしても志倉はその場から退かない。直ぐに手を引っ込め、やはり狼狽えている。
「ねぇ、ミリーって呼ぶわよ。それでいいのよね?」
「えっ、は、はい。」
「じゃあミリー、家の中にはこの人のせいで入れそうにないから、せめてタオル持って来て。雨でちょっと濡れちゃって寒いの。」
「……わかりましたけど、タオルって何処にありますかね……。」
「ちょっとそこまでは私にも分からないから、自力で何とかして。」
命令を受けたミリーは狼狽えるのを止め、ぺたぺたと廊下の奥へと進む。玄関先には対峙する、志倉と馬籠、黙ったままの不破。
「……さて、事情が知りたいって、そう言った? 貴方…………ええと、何ていうの? 名前。」
「後ろの彼から聞いていないんですか?」
「ええまぁ。私達はこうして一緒に家に駆け付ける、みたいな面識こそあるけれど。岡持ち運びと客みたいな者なのよ。客の身近な人間の名前ぐらい最初から知っておけって?」
「成程。貴女はその例えでは岡持ち運びの方なのですね。」
岡持ち運びって何だ、と不破は二人の威圧の掛け合いの中で考えていた。目の前から興味の対象たるミリーが居なくなった瞬間から、呑気な物である。
「で、あれば私が貴女に名乗るのはやはり不思議な話ではありませんかね。どうして元教え子の呼んだ岡持ち運びに、私が名乗る名前があるのでしょうか。ただの自己紹介をする場なら兎も角、ね。ですから私の名前が必要であるのなら、貴女から名乗っては如何ですか?」
「妖怪ハンター。」
間髪入れず食い気味に、彼女は名乗った。しかしそれが正しくもあり認識の齟齬を産む事を知っている不破は、反論せねばなるまいと下顎の動きを阻害する傘を退かす。
「妻籠馬籠、だろ。だからその名前は誤解を招くっつったろーが。」
「何の誤解よ、何も間違ってないのに。」
「間違って無くてもややこしいんだっての!」
「…………………………巫山戯てるんですか?」
志倉は不信という気持ちを隠しもせず、表情筋を歪めていた。もしも彼が妖怪という存在が実在すると信じている人間であったとしても、私は妖怪ハンターですと名乗られたら首を傾げている。ただ、実在の有無の真偽を問わず、彼女の名乗りに問題がある故に、きっと誰でも信じはしない。
あくまでも、目の前に存在しているのは。
お下げ髪で眼鏡を掛けた、セーラー服の少女という見た目なのである。
「取り敢えず目に付いた、バスタオルを持って来ましたぁ! 乾いてます! 小さいタオルも探せばあったかもしれないですけど、これで良かったですか?」
「そう、それよ。今日が雨で良かった。毎日使う物だから、やっぱり干してるわよね、それも室内で。しかも大きいから、直ぐに見つかる。」
「…………あの?」
馬籠は扉の隙間からバスタオルを受け取った。それは流石に志倉も邪魔しなかった。セーラー服の少女が、雨に濡れて寒いと言っているのだから。
けれど何やら、行動が可笑しい。
「ちょっと、何をしているんですか。」
「大した事じゃないから、別にいいでしょう?」
馬籠は受け取ったバスタオルの先を、U字ロックの内側、穴となっている部分に通した。なるべくそのまま引き伸ばすと、今度はその通したタオルの先をぎゅぎゅっと一度だけ結ぶ。この作業に馬籠は10秒と使わず、まるで手馴れているかの様な手付きである。
そして馬籠は、U字ロックに通されていないバスタオルの大部分を、扉の上の隙間から外側に。扉上部にバスタオルが掛かっている様な、そんな状態にした。
「大した事じゃないって、お前何する気だよ。」
「物理。」
言うが早いか、馬籠は目の前の扉を閉めた。
「え゛っ、」
タオルの厚みに拒まれ、閉まり切る事の無い扉の隙間から志倉の驚きの声がする。馬籠は掛かっているタオルをそのまま扉の蝶番の方へ、思い切り引っ張った。ブチブチと繊維の切れる、タオルからの悲鳴が聞こえる。
「ちょ、おい千切れる!」
「仕方ないじゃない。あの鍵を破壊するのとバスタオル一枚ダメにするのと、どっちの方が良いかこれでも考えたの。」
「何かをダメにする前提で居るんじゃねーぞこのイカレ野郎!」
「生憎、私は野郎じゃないんだけど。」
「…………おおー。」
扉向こうからミリーの感嘆の声。直後、馬籠はタオルから手を離す。そして手を乗せたレバーハンドルは問題無く、何かに阻まれる事も無く開扉。
U字ロックを解錠したというだけの行動。
「……寒っ。」
結び目を解き、所々解れてしまったバスタオルを手に取って、馬籠は自分の両肩に掛ける。そして玄関に押し入った。不破も呆気に取られながら、そのまま漸くの帰宅。志倉とミリーは押し込められる様にリビングに誘導された。
「不法侵入技術……!」
「いいえ? この鍵の開け方ぐらいなら、ネット慣れしてない私ですら動画で見た事あるもの。だからこの程度、ただの物理的一般技術。」
「インターネットって恐ろしい!」
「….…そんな恐ろしい物でも、産んだのは貴方達人間でしょう。ちゃんと使いなさいよ、廃れてしまってもいいの?」
我が物顔で不破のリビングからキッチンに直行した馬籠は、薬缶を手に取った。不破は今度は何を破壊してくれやがるのかと行動をいつでも止められる様に監視する。
そんな中淡々と、薬缶はたっぷりの水を入れられ火の上に乗せられた。
「ミルクと砂糖。」
「へ。」
「事情が知りたいんでしょう? だったら貴方の誤解を解く為も含めて、話し合いが一番じゃないの?
この家、珈琲しかないの。ミルクと砂糖は?」
***
玄関で折り畳み傘の水を払い、鞄へ。そして彼女は、入れ替わりに鞄から、一口チョコの入った袋を取り出した。中身があと幾つあるのかしげしげと検める。与える分が足りないというのは少々避けたいというのが彼女の心持ちだ。菓子で吊る事で勉強をする様に仕向けたのだ、出し惜しみをしよう物なら駄々を捏ねられて勉強が捗らない。
「……こんなに減ってたっけ? 足りない訳では無いけれども。 」
大学から一旦の帰宅。昼食後暫くして、阿寺久慈はアルバイトである小学生の家庭教師をする為にある家へと出向いていた。
「こんちはー。」
久慈はそもそも、働く事が嫌いな人間である。彼女にとって今の家庭教師のアルバイトが、人生で初めての職業経験だ。とは言っても、社会的に見ればホワイトを通り越したアットホームな職場であった。
何せ久慈の母親が、久慈が勉強を教える小学生の母親と、小学校からの友達であるのだ。
仲良くBBQなんて事は年に数回の頻度で行われる、最早恒例行事。久慈が教える事になっている小学生の顔なんて既に見飽きた物で、産まれてホヤホヤの猿顔からの変化こそが見ていて楽しい期間だった。
「あぁ、久慈ちゃん! あの後大丈夫だった!?」
「はい?」
久慈が使い慣れない丁寧語で挨拶すると、奥から顔を出した雇い主が心配そうな声を上げる。
あの後?
「一昨日、帰る時様子が変だったけど……良かった、何も変わりないみたいで。」
「……?」
「あれ? 何の事か分かってない? けど大事じゃはいなら、それでもいいのか。」
「そんなに一昨日、変でした?」
「え、うん。何話し掛けても無反応で気もそぞろ、って感じだったけど? まぁ何も無いに越した事は無いから、さぁさ上がって上がってー。」
雇い主の背中を見ながら久慈は一昨日を思い出す。無反応で気もそぞろ。それはとても、久慈には不可解な話だった。久慈の一昨日の記憶とは、どうにも相手の訴えとズレがある様に思えるからだ。
一昨日の、午前を端折った午後の行動。大学で受講し、下校し、道を訊ねられ、アルバイトに来て、そして何の異常も無く終了、帰宅した。そして寝た。
「ん? 何だ? 足りなくないか?」
久慈が妙だと今迄思っていたのは一昨日のその次の日の記憶が、昨日の記憶が無い事だ。しかしこうして、一昨日の事を思い出さねばと考えて。一昨日への妙な疑問も発覚する。
「…………待て。思えば、一昨日夕飯を摂った記憶が無いな。」
一食程度なら抜くのは問題無いかもしれないが、久慈には翌日の記憶が無い。つまりその後の、次の日の食事丸々三食も抜いた事になるのだ。
更に言えば久慈は今日、朝起きて日付が可笑しい事に驚愕し、思いの外慌てて図書館に赴いた為に朝食も抜いていた。つまり、一昨日の夕飯、昨日の三食、今日の朝食と五食抜き。朝に奢られた珈琲を朝食とカウントしてもいいが、雀の涙であろうか。
そして記憶にある最新の食事は、昼食。おにぎりを一つだけ。
「…………いや、違う。幾ら何でも平気過ぎるだろう、私。微塵も身体に不調が無いだって? いやいや、富加との昨日のやり取りもあるようだし、これは昨日一日ずっと寝ていたのでは無く。昨日の記憶が、本当にそのまま抜け落ちていると考えた方が自然じゃないか?」
「泥濘ったか。流石とも言うべきか? だがそれでこそ、嗚呼それでこそ!」
「!!」
ゴッ!
「い゛ッ………た、」
背後から唐突に、何やら嬉しそうな声。久慈は驚いた拍子で肩を跳ねさせ、肘を鈍い音を立たせて扉にぶつけた。小さく悲鳴を漏らしながら、その異常を久慈は理解する。
「…………、………………。」
真後ろにあるのは、肘に当たったのは扉だ。家に入ってから閉じたのだから、扉しか無い筈なんだが…………では声の主は、扉か?
久慈がゆっくり振り返ると、そこには、
***
下呂はガックリと項垂れた。
「マジかよ……本当にあったよ兄貴の傘……。」
「輪之内君、お兄さんとは連絡、取れた?」
「家で珈琲飲んでるってよ。……客人二名と、志倉教授と一緒に。」
「そう。」
簡素的な連絡事項の並ぶトーク画面にスタンプを打ち込み、下呂はスマートフォンをポケットに仕舞う。
こいつは何を知っている?
志倉が授業を休講にして、今居る場所が兄貴の家である事を、下呂は自ら証明してしまった。そして彼女の訴えの通りに、兄は帰宅しているにも関わらず傘は放置されたまま。
「なぁ……怖いんだけど、坂祝さん。」
「そうかもしれない。でも、出し惜しみなんてしてられないから。」
富加は玄関近くの購買に向かって歩き出し、下呂も兄の置き去りにした傘を手に、その後を追う。借りた本により大きくなったリュックで肩が重たい。
「輪之内君は、今の所は大丈夫。トラブルに巻き込まれる事は良くあるかもしれないけど、自分でトラブルを起こす事は、多分無い。」
「それが本当なら、飛んで喜びてぇけどさぁ。」
「輪之内君は上手くやってるよ。ちゃんと考えてる。だから大丈夫。」
「そりゃ、余っ程の事じゃなきゃ考え無しでは動かねぇよ。」
富加は抑揚のない声で続ける。感情の起伏を表情からは読み取る事は出来ないが、変わりに言葉の情報量は多かった。その上に美人であるから、絵画と話している様だと下呂は感じる。
「口ではそう言うけど不安で、自信過剰にも成れないで、そのままで考えてる。ずっと考えてる。きっ輪之内君は、考える事を辞めない。だから私は、安心して容認する。」
「容認って……まるで俺が悪い事してるみたいに言うなよ。」
「自覚、あるよね?」
そして見透かされている風で、実際見透かしているかもしれない大きな伏せ目が、実に不気味さを醸し出し。
「え、何の話してんの?」
見透かされるのが御免である下呂は、厄介だと思い始めている。
「私から言ってもどうにもならない。だってもう既に、注意された事があるけど辞めなかった前例があるから。」
「…………………………。」
「そのブレない芯は、誰かにどうこう出来る物じゃない。だから、トラブルにならない限りは容認する。それにまだ、誰も不幸にはなっていないしね。」
「もっかい訊くよ? 何の話、してんの?」
足を止めた下呂。暫くの沈黙の後、その頭の中とは裏腹の晴れやかな笑みを富加に向ける。
「………………。」
「怖いよ、輪之内君。」
「兄貴に言ったら、ぐちゃぐちゃにしてやる。」
逆手に持ち替えられた傘。
「……あ、そっか。こうやってお願いすれば良かったんだ。手伝ってよ輪之内君、阿寺さんの事。手伝ってくれたら、お兄さんには黙っててあげる。」
「…………今の、兄貴の困り事についての情報は付いてくるのか?」
「物事にはタイミングと、立場の有利不利があるんだよ。だからもう、教えてあげない。」
「さっき渋った俺のミスだってのかよ…………あーあー、分かったよ。じゃあ取り敢えず忠誠の証として、傘を貢がせて頂きますかね。」
下呂は財布から400円を取り出し、購買部の人間に。1円ぐらいの釣りは募金箱に入れといてくれ、等と言う数秒後には、先程までの晴れやかな笑みは消え失せていた。
「で、何? 久慈ちゃんをどうにかしてくれって話だよな? 具体的にどうすんの?」
「……急に積極的だね。」
「この程度、割り切らなきゃどうにもならねぇと見た。」
「…………ありがとう。」
「!」
ずいっと押し付ける様に渡された傘を受け取りながら、富加は薄くではあるが笑った。下呂には、笑った様に見えたのだ。
「……喜んでくれてるなら何よりだけどよ、でも脅す様な真似をして俺を服従させた事は、忘れるなよ坂祝さん。」
「あ……そうだね、お願いって言ったけど、立派に脅迫だったね今の。」
「そうだそうだ。怖過ぎだっての。」
「分かった、私は輪之内君を脅してしまった事を忘れない。それと、具体的に何をするか、だっけ。それについては、図書館でも言ってたんだけど今の困り事を、問題を解決してくれてからでいいから……。」
「へぇ、そうかよ……………………ん?」
下呂はもう帰るべきだろうと目を向けた玄関、そしてその向こうの校門の外。降りしきる雨の中、傘も差さずに歩く誰かを見つけた。普段であれば無茶をする人間も居るものだ、と思う程度であるのだが、下呂にはその人間の服装にどうにも見覚えがあった。下呂は金髪でポニーテールで褐色肌で赤眼という凡そ勉強が出来るタイプの人間の見た目をしていないが、侮るなかれ記憶力はそこそこの物なのだ。ついでに言えば、視力も。
「噂をすれば居るじゃん、久慈ちゃん。」
「え、何処に?」
「あそこ。何でもびしょ濡れになってんの? アイツ。」
「え……違うよ、阿寺さんじゃないよ。」
「いやいや、坂祝さんも知ってるじゃんか、今日の久慈ちゃんの服装。覚えてない? カーディガンとか、まんま久慈ちゃんだって!」
「…………あ、確かに、服は同じだ。」
「おーい、久慈ちゃん!」
「あっ、輪之内君!」
兄の傘を片手に、自分の傘を傘立てから出して下呂は走る。両方の傘を器用に差し、下呂は自分の傘の方を久慈に差し出した。久慈は顔を伏せていて、濡れた髪は頬に張り付いている。
「濡れに濡れて何やってんの? あ、エロい意味じゃねーから。傘は差さねぇの?」
「…………蛇の目擬きか。生憎持ち合わせて居らんな。特に必要でも無い。」
「?……いや、風邪引いちまうだろ。寝込んだら俺が襲っちまうぞ? 文明の利器は大事だろうが、俺ので良ければ使えよ。いつも持ってた折り畳みはどうしたよ?」
「折り畳み……、何の話だ? 出目金。」
「…………デメキン?」
デメキン。デメキンって、何だ? 金魚すくいのアイツしか思いつかねぇんだけど。
下呂が語句の意味や口調の違いに頭を捻る最中、久慈が伏せていた頭を少し上げた。捻った頭と上がった頭とで、目が合う。合ってしまった。
久慈の眼に写ったのは、下呂の赤いカラーコンタクト。
下呂の眼に写ったのは、不自然な程にみどりいろの瞳。
「…………ッ!?」
「それよりも、出目金。お主、今。儂の番に、よもや、まさか、下卑た口を利いたのではあるまいな?」
あかいあかいおおきなくちがにたりとわらい、
「輪之内君、ごめんねッ!」
「ぐふっ、」
後ろから駆けて来た富加が、下呂をタックルで突き飛ばした。
ぎぶみーれすぽんす。