例えば本の隙間にも。
妻の浮気の相手は、ホストのような名前の男だった。
それが本名かどうは分からない。
私に分かるのは、彼のLINEの登録名がそうであること。彼が私の妻と一線を超えていること。そして彼が私の妻のことを、雌豚と呼んでいることだけだ。
彼女が浮気をしていることは、薄々感づいていた。
高い服を良く着るようになった。夜の外出が増えた。私はそれらをすべて、見てみぬふりをしていた。ここのところしばらく仕事が忙しくて、それどころではなかったのだ。
だから昨夜だって、積極的に彼女のスマホを盗み見しようとしたわけではなかった。室生屑星の『蜜のあわれ』の続きを読もうと、ソファにある本を手に取ろうとして、そのときに彼女のスマホの画面の通知に着信メッセージが通知されただけだった。彼女は普段はメッセージの表示を切っているので、今日はたまたま切り忘れたのだろう。
不思議と、怒りや悲しみは湧いてこなかった。ですよね、と思ったが、そのメッセージを眺めているところを、彼女に見つかってしまった。
泣きながら謝罪する赤い服を着た女は、次第に私の過失を責めはじめた。仕事が忙しくて寂しかった、とのことだった。私はそんな雑な言い訳はどうでも良くて、彼の名前が本名でないとすれば、そのセンスは一体どういうことなんだろう、ということを考えていた。
女の話はこれくらいにして、死の話をしてみよう。
それは特別なデートのようであるべきではない気がする。朝飯のときに牛乳を飲もうと冷蔵庫を開けたときに、その中にいたことがある。スーツを着て会社に向かう途中にポケットの中にみつけたこともある。だらしない女の髪留めのゴムが、部屋中のいろんなところに散在しているのと同じようなものだ。
私は女に気づかれないように、本を片手にこっそりと家を出る。
まだ色づいていない明け方の空気を吸い込む。白みがかった空は、本を読むのに丁度よい。電車の見える公園のベンチで、先ほどの続きを読む。これはとても面白い小説だ。頭の中を作家さんのイマジネーションで蹂躙されていくのが心地よい。
電車が通り過ぎる。始発電車はもう動き始めているのか。
私は読みかけの小説を膝の上に置くと、スマホを取り出す。雌豚からメッセージが大量に届いているようだ。私はそれを開く代わりに、LINEの設定画面を開く。そして自分の名前をホスト名っぽい感じに変えてみる。いつもの自分のアイコンに、ホストっぽい名前がついている。何だか強そうだ。その違和感に一人でげらげらと笑う。いっそ名前に合わせて、アイコンの写真を光でとばして白くしてみる。それっぽくなったので、それを見てまたゲラゲラと笑う。
そしてふとした思いつきで、スマホを一時間ほどポチポチといじくる。
私はスマホをポケットにしまい、本の続きを少しだけ読む。本の読みかけのページに人差し指をはさむ。ベンチから立ち上がり電車のホームに向かうと、いつもと逆方向の急行電車が目の前を通り過ぎる。
そういえば今日は自分はホストだった。
会社にいかなくても良かったことを思いだした私は、ホームのベンチにすわり、次の電車を待つ。本の隙間から人差し指を抜きとると、隙間にいたものが、惨めったらしい私をささやかに殺したような気がした。