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完全に正気を失ってしまっているメル。
その瞳は赤く光り、魔物のような獰猛な輝きを放っている。
声は届かない。メルの素早さに面食らい、いいようにされてしまっていた。
美奈の元へと迫る爪牙に、フィリアは最悪の未来を想像してしまい、結果目を背けてしまっていた。
だがその未来はフィリアが予想したようにはならなかった。
「ぐ……ううう……やめるのだ……メル」
顔面蒼白で気を失いかけている美奈の前に瀕死のドリアードが立ち塞がっている。
その獰猛な鰓は彼の肩口に深く食い込んだ。
この攻撃自体は魔族であるドリアードには何の効果も及ぼさない。
だがそもそもここに現れる以前に身に受けた傷は致命傷である。
美奈を庇い、正真正銘最後の力を振り絞ったのだ。
それをきっかけに、ドリアードの足元がボロボロと崩れ去り、灰になった。
獣と化したメルを腕に抱きしめたまま、床に倒れるドリアード。
「グルルルル……?」
獲物を一体仕留めた満足感からか、それとも獣人の鋭い嗅覚によって懐かしい匂いに当てられたのか。
はっきりとした要因は分からないが、メルの獣化して赤く淀んでいた瞳が徐々にその輝きを取り戻し、その光に理性を宿し始めた。
みるみる元に戻っていく体。
それにより正気を取り戻すメル。
だが正気を取り戻したメルの目の前に広がっている惨状は、彼女にとって最も見たくない、最悪なものであった。
「ド……ドリアード? ……ドリアードォ!!」
足元が崩れ去り、最早上半身だけとなってしまったドリアードをその小さな体で抱き寄せ、涙を流しながら叫んだ。
「そんなっ! ……いやだよぅ……ドリアードォ!!!」
悲壮な叫び声を上げ続けるメル。
だが無情にもドリアードの身体は崩れる速度を速めていく。
見る間に体は塵屑と化していき、あっという間に胸元にまで到達した。
ドリアードの腕が泣きじゃくるメルの頭に乗せられた。
だがそれもすぐに崩れ、ドシャリと音を立てて地に落ちる。そのまま数秒も経たないうちに灰と化した。
「メル……泣くな……私は……どの道長くはなかったのだ。……最後に……最強と思える剣士と戦い……見事に敗北した……本望とも言える結果を得る事が出来た……何も思い残す事は無い……」
アリーシャとの戦いはドリアードにかけがえのない意味をもたらしていた。
お互い限界以上の力を出し尽くし、満足のいく結果を得られたのだ。
「いやだいやだいやだあっ! どうしてそんな事言うの!? ……ずっと一緒にいてよ! ずっとわたしのそばにいてよ! 死なないでよ! ドリアード!」
何度も愛しい者の名前を呼ぶ。
だがもうその声はドリアードには届いてはいなかった。
天を見上げるドリアードの瞳は虚ろで、ぼんやりと光を宿しているのみ。
メルはただただ泣きじゃくることしかできなかった。
涙は止めどなく溢れ、彼女の心は絶望へと塗り染められていく。
「わた……しは……わたしはドリアードと一緒にいたいだけなのにっ……どうして? ……どうしてなの!?」
自分は一体何のために生まれてきたのか。
親にも捨てられ、自分を育ててくれたドリアードにも見捨てられ。
誰にも必要とされず、これからもずっと一人きりだ。
この先自分が生きていく事に意味などあるのだろうか。
いや、生きる意味などこのスラムで生きていく子供にとっては誰しもあっても無いような、そもそも不必要なものなのかもしれない。
けれどメルはドリアードに育てられ、生きる意味を与えてもらったのだ。
そしてその生きる意味足り得る者の死が、喪失が、今目の前に広がっている。
最初から無いのなら諦めもつく。
しかしメルは持っていたから。
持ってしまったから。
この失望を光に変えるにはまだあまりにも幼すぎるのだ。
「メルちゃん……どいて?」
「!? ……お姉ちゃん?」
顔を上げるとそこにはメルに微笑みかける美奈の顔があった。
その慈母のような笑みとは裏腹にかなり苦しそうに見えた。
それもそのはず。メルがつけた腕の傷は未だに塞がってはいない。
ドクドクと血を吐き出し、顔面は蒼白だ。
腕の感覚が無いのか、振り子のようにふらふらと虚空をさ迷い、赤黒い血が衣服に滲み、咬まれた箇所がじゅくじゅくとした亀裂を生んでいた。人体のそれとはおおよそ異質な様相を呈している。
脂汗が額からふつふつと溢れ、ふらついて立っているのもやっとの状態であるにも関わらず、優しい笑顔で微笑んでいる。
「私に……任せて?」
「ミナ様! 無茶です! せめて回復魔法を!」
そう言いフィリアは美奈に駆け寄りヒールの魔法を施した。
何とか血は止まりはしたものの、かなり満身創痍であることにはかわりない。
「ミナ様っ、そんな体で無茶しないでください!」
「ごめん、フィリア。急いでるの。もう時間がない」
「……っ」
フィリアを右手で制し、半ば怒ったような表情で厳しい視線を送る。
それだけでフィリアはそれ以上の言葉を飲み込んでしまう。
おずおずと引き下がるフィリアを横目に美奈は再び涙にまみれたメルに笑顔を向けた。
メルはわけが分からないといった風に美奈に目を向け首を傾げる。
美奈はメルの隣に並び、ドリアードの横にしゃがみこんだ。
もうほぼ首から上だけになってしまったドリアード。彼の額にそっと右手を添えた。
一度短く息を吐き、瞳を閉じて精神を集中させる。
脂汗を額に滲ませながら、スッと息を吸うと力ある言葉を発したのだ。
「タイムトラベラー・リバース!」




