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インソムニア上空。
その町並を眼下に置きながら、頬を緩やかな風が撫でる。
二人はそんな中で密着し、本来ならば一見ロマンチックとも取れなくはない状況で互いの思考を付き合わせていた。
「アルテ、一体どうしたの? 急に?」
美奈は話の意図が見えず、質問に質問で回答してしまう。
アルテの表情はやっぱりこの格好だと見えないが、それでも彼の真摯で真っ直ぐな、それでいて少し困惑しているような雰囲気は伝わってきて。美奈はそれにまた真摯に応えようと努めるのだ。
「君はこの世界の人間じゃない。勇者だか何だかは周りの人間から言われて、言わば利用されているだけのことだろう? 腹が立たないのかい? 納得がいくのかい? 魔族と戦うなんてことは投げ出して、元の世界に帰りたいとは思わないのかい?」
「……」
思いもよらない問い掛けに、美奈は言葉に詰まった。
正直一刻を争う状況ではある。だからそんなに時間はかけたいとも思えないなのだが、美奈は真剣に考え込んでいた。
何故だか理由ははっきり見えない。けれど美奈はこの問いかけを無下にしてしまってはいけないような気がしたのだ。
「思わない……て言ったら、嘘になるかな」
ここに来るまででも色々な事があった。
その間美奈は、様々な心の動きを体感した。
それは決していいものばかりではない。
それにより辛いと感じることの方が多かったのではないだろうか。
「だったらどうしてさ。どうしてそんなに頑張るんだい? 無理する必要なんかない。相手が強大なら逃げればいいじゃないか。逃げるだけならまだ何とかなると思わないかい?」
「私は、……ね。きっと自分の言葉に責任を持ちたいんだと思う。うまくは言えないんだけど。……もう一度逢いたい人がいるの。その人に会う前に、自分が自分の心に嘘をついてるようじゃ、その資格すらなくなっちゃうって思うんだよ……」
不思議と哀しみは無かった。
ただ言葉にする事によって、自分の心を再確認出来た事による決意めいた感情が胸を充たした。
それだけで美奈は力が湧いてくるような気がしたのだ。
「……ミナ」
ほんの少しの沈黙とため息。
その後に、彼はゆっくりと自身の言葉を噛みしめるように言葉を紡いでいった。
「僕は……人間の傲慢だったり、欲深い所が大嫌いだ。そう……人間は時に本当にくだらない事で争う生き物なんだ」
それは一種の達観のようであり、そしてその声には深い哀しみの色が滲んでいた。
「……でも、それだけじゃない。時に人間は互いを思いやり、その想いを力に変える事も出来る。それは……うん、それはまるで奇跡のような、神の力にも似た美しい力なんだと思うこともあるんだよ」
アルテの話には美奈も同じような気持ちだ。
しかしどうにも分からない。
アルテはどうして今この時にこんな話をするのか。
アルテの話の意図を美奈が読めるはずもない。
だがアルテは真剣そのものだ。
今のアルテには一種の覚悟すら感じさせた。
だがら無下にはできないと思ったのだ。
その心には寄り添ってあげるべきだと。
例え今が一刻を争う時なんだとしても、美奈はアルテをこのまま放っておく事は出来ない。
それは彼女の母性本能がそうさせるのだ。
彼女の優しさがアルテの手をぎゅっと握り、自然と言葉が漏れていた。
「……あなたが今何を思ってそんな事を言うのか私には全くわからないよ。だけど、私は自分の心に正直な行動をしたい。そして、どんな時も絶対に諦めない。そう、約束したから。だから、私から言える事はそれだけ。アルテ、自分の心に正直になって。そして、諦めないで?」
アルテに自分の言葉が届くのか、そしてその言葉が今のアルテに対して的を得た発言なのかどうかすら分からない。
けれどアルテをこのままにしてはおけなかった美奈の、精一杯の励ましの言葉だった。
結局人は急を迫られた時に自分自身の嘘偽りの無い言葉でしか応える事は出来ないのだ。
例え嘘の発言をしたとしてもこの瞬間において、その嘘はきっと本物の言葉としては機能し得ないのだから。
「ミナ……」
やがてゆっくりと思い腰を上げるようにアルテが口を開いた。
まるでその先の答えを今も尚渋っているような。想い悩んでいるような。
美奈は自分の脇に添えられたアルテの両手に添えた自分の手をゆっくりと動かした。
触れた手から伝わる強ばり。
だがその後すぐに温かな温もりが互いの心を満たしていく。
「ミナ、少し下に降りよう」
「??」
そのまま下降したかと思うと、すぐに美奈は地面に下ろされた。
ようやく二人は互いの顔を見つめあう。
アルテの表情は美奈が思っていたどんな表情とも違っていて。自分からは気軽に話しかけられない。
「ミナ、僕には秘密があるんだ」
「ひみ……つ?」
思いもよらぬ秘密という言葉。
それに彼女の胸は波打ち、ドキドキした。
美奈はここからアルテについてとある秘密を聞く事になる。
美奈にとっては到底想像もし得ない事なのではあるが、そんな事は当然である。
このグラン・ダルシという世界は、美奈がある日突然呼び出された異世界であるのだから。




