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「他者」について


元AKBの須藤某という人が、ヤフー・ニュースで哲学の対談しているのを読んだ。少しでも真面目に哲学を学んだ人からしたら、馬鹿馬鹿しい話にしか見えなかったであろう。


僕の好きな文化人類学者エドマンド・リーチは、何故、自分達・近代人とはまるで違う民族を研究するのかについて、「彼らが他者だから」と明快に答えていた。僕はこの答えに感銘を受けた。


現代人的感覚からすれば、「〇〇民族を研究する事は我々にとって利益となるから」と言いたいであろう。また、リーチの答えも「他者から学ぶ事に意味がある」とか「他者を理解する事が我々の為になる」とか言い換えたいところだろう。しかし、リーチは単に「他者だから」としか言わなかったはずである。答えはそれで終わりであろう。(僕は答えがそこで終わるという事に感銘を受けた)


須藤某に話を戻すと、哲学が好きだというのも、現代人感覚で、過去の哲学をいい加減に見ているだけだと思う。いい加減に見ている、というのは学術的にキチンと見ていないという意味ではない。そういう意味では、僕もキチンと見ていない。


須藤某がニーチェの話をしていたから、ニーチェの話をするが、ニーチェが覆そうとしていたのは、西欧の知の基盤であって、キリスト教的なものに対するアンチテーゼの部分が大きい。ニーチェという人は、長らくわかりにくいタイプの人だと感じていたが、それはニーチェが、反西欧でありながらも、「反」という形で西欧的な人だったからだと思う。日本人である僕らにはわかりにくい部分があると思われる。


それはいいとしても、どっちにしろ、ニーチェの生の肯定というような事は、その背景も含めて、ニーチェ自身の宿命も絡んだ面倒な問題であると思う。その言葉を現代人である我々が我々流に解釈し、ニーチェを、自分達の安楽な生活肯定者と解するのは、あまりにもいい加減な見方であると思う。リーチの言葉を使えば、そういう見方はニーチェを「他者」ではなく「同一者」として見る試みだろう。ニーチェであろうとゲーテであろうとブッダであろうとなんであろうと、彼らみんなが我々の生活の応援者であれば、面倒な事を考えなくて済むし、気が楽だ。「ニーチェもこう言っている」というわけだ。そこには他者はいない。現代人的感覚で染め上げられた、平凡な「ニーチェさん」しかいない。


角田光代が「源氏物語」を読んで、自分の彼氏の話どうのこうのを比喩として持ち出し、「これって現代的ですよね」なんていうのも、「源氏物語」を現代人感覚で読んで、「同一者」として読む読み方であると思う。こういう読み方が人気があるのは、リーチのように考える人は少数派だからだ。人は「他者」よりも「同一者」を好む。


色々なものが同一者に溶けてきている、と感じる。我々は差異をなくして、自分達が気に入らないもの、つまらないと感じたものは排除している。市場原理と大衆性、権力と金といったものが一つに溶け合ってきている。それが巨大な力として君臨していて、とにかく多くの人々にアピールするものだけが意味のあるものという風になっている。


それは同一者の世界であり、同一者に合流する限りで様々なものに多少の光が当たる。この同一者の巨大な力は明白で、須藤某が言及した「から」、ニーチェにも多少の価値がある、と本気で言う人もいるかもしれない。


この世界では他者を絶えず、自分達の観念に合流させ、そこで安堵するという構造になっている。これを成り立たせているのは権威であるし、制度であるし、我々のランキングだとかポイントだとか、「いいね!」ボタンだとかだ。「いいね!」ボタンにはその反対の「くだらねえ」ボタンはない。しかし、「いいね!」がより押される方に、人は、水が下流に流れるように流れていく。そこでは、善意に満ちた無意識的な排除の構造があり、僕もその破片の一つだ。


こうして同一者の大きな観念のプールが出来上がり、これは絶えず、表面的に沸き立っているが、根底的な構造は変えない。このプールの一滴として「哲学」も計測される。


その流れに須藤某もいて、AKBもあるだろうし、ニーチェ本人が知ったら切れたと思うが、ニーチェという人間もその流れの中においてのみ我々に知覚されるものとなる。だから、ああした対談ですら、「意味のあるもの」という事になるだろう。


さて、ここまで書いておきながら、僕は「他者」の方が面白いと思う。また同時に面倒なものであると思う。それは険しい山を登るようなもので、座して安楽を貪るたぐいの楽しさではない。


ゲーテはよりはっきりと、「同時代の同じ職業の人間から学ぶ事などない」と言っていた。これも、「他者から学べ」という言葉の変形だろう。では、何故、「他者」の方が「同一者」よりも良いのか。


それは、その方がより遠くまで旅ができるからなのだと思う。「他者」と「我々」との間に差異があり、我々はその差異を通行できる。古代ギリシャ人が唯一知らなかったのは、自分達が古代ギリシャ人だったという事だ、という冗談があるらしいが、古代ギリシャを知る事ができるのは、その中にいる人間ではなくその外にいる人間である。差異に耐え、それを身に引き受ける事が成長を呼ぶ。


全てが同一者に溶け、何もかもがフレンドリーに、肩を並べた場所にあるのが望まれる世界にあっても「他者」は重要であると考える。それはその方がより遠くに行けるからであって、それ以上の事は言いようがない。「より遠くに行ける事に何の意味があるのか? それは何の利益になるのか?」と人が問うのであれば、僕は黙って首を振る。鳥が空を飛んで、遥かに世界を眺める事に意味があるのか?と問う事に、果たして意味はあるのか。


鳥は飛ぶ。旅人は歩く。ただそれだけである。世界は人々の多数決で決定されるのではない。だが、そんな世界も旅人は、物珍しい国でも見るように、ただ眺めるだろう。眺めて、次の国へ行くであろう。


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― 新着の感想 ―
[一言] 鳥が飛ぶことに意味はあるのか。 意味が無いとしても、飛びたいから飛ぶだけだし、行きたい所に行くだけ。そういう風にできている。 一見群れに見えるが、たぶん、力尽きた「仲間」がいても、どうす…
2018/12/25 08:46 退会済み
管理
[一言] 「自分哲学」を、やれば良いだけのような気がします。 何処かの誰かが思いついている事であろうと、自らの感覚と思考を持って納得しているか、解を持っているか、言葉を持っているかという事でしょうし。…
[良い点] 他者という言葉について僕の知らなかったこと、考えられなかったことを知る機会、考える機会になりました。 [一言] 考えたことです。 湖のそばに住んでいる人と海に住んでいる人がいたとして、 湖…
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