When I fall in love
その日の夕方、待ち合わせ場所にやってきた美穂は、小花柄の淡いベージュのワンピースに、ショート丈のデニムジャケットという春らしい装いだった。
タイムワーナーセンターにある『Landmarc』で、ワインとアラカルトの夕食をとったあと、ジョセフは美穂をエンパイアステートビルに連れて行った。
摩天楼の代名詞ともいえるエンパイアステートビルは、建設からすでに八十年余りが過ぎているというのに、いまでもその高さは世界でトップを争う。一万軒あまりのテナントが入居し二万五千人が働く商業ビルであるとともに、一億人以上が訪れた世界一有名な展望台を持つ観光スポットでもある。
重厚なアールデコ様式のロビーからエレベーターで、八十六階にある展望台に昇る。千フィートの高さにあるオープンな展望台からは、マンハッタンに立つ摩天楼のほとんどを見下ろすことができる。フェンスに囲まれたプロムナードを一周すれば、ダウンタウン、ハドソンリバー、ミッドタウンそしてイーストリバーを見渡す、三百六十度のパノラマが楽しめる。
展望台は混んでいたが、ちょうど二人分のスペースがあったので、ジョセフは美穂をフェンス際に誘った。無数の星を撒き散らしたようなフィフスアベニューの彼方に、ダウンタウンの高層ビルの群れが光の柱を黄昏の空に突き立てていた。
美穂は思いつめたような表情で、街並みを見下ろした。ビルの明かりを映すダークブラウンの瞳が、うるんでいるように見える。
吹き渡る風が冷たかった。
ジョセフはスーツの上着を脱ぐと、そっと美穂の肩に着せ掛けた。美穂は驚いたように振り向き、しかしジョセフと目が合うと戸惑ったように顔を伏せた。
「ありがとう……」
ささやくような声でそう告げると、美穂は上着の前を合わせた。
「なにを見ていたんだい、ミホ」
ジョセフが尋ねると、美穂の顔に悲しみを堪えたような微笑みが浮かんだ。
「なにかが違って見えるかと思ったけど……ここはやっぱり、ただの都会でしかなかったのね。こんなに色彩と光があふれているのに、まるで白黒写真を見ているみたい」
「この街は、退屈かい?」
美穂は、ゆっくりとかぶりを振った。
「じゃあ、この街が好きじゃないのかい?」
「日本からこの街に来て、いろんなことがあって。好きだったときもあったけど、今はもう、わからなくなっちゃった……」
人はみな、なにかを抱えて生きているものだ。彼女もまた、そんな人間の一人なのだろう。だが……。
「だれにだって、好きな場所はあるものだ。それが自分の暮らしているところじゃないというのは、悲しいことだね」
そう言いながら、ジョセフは少年時代のことを思い出していた。
もう二十数年前になる。ジョセフは、戦争難民としてユーゴスラヴィアからアメリカに渡ってきた孤児だった。
アメリカに行けば、平和と自由と未来がある。ジョセフは、そう信じていた。そして初めて目にしたニューヨークは、思ったとおりにまばゆい場所だった。立ち並ぶ摩天楼、軒を並べる高級店や劇場、息苦しくさえ感じるほどの人々の熱気があふれる、二十四時間眠ることを知らない街。長い内乱で疲弊しきった祖国とは、あまりにも違う世界だった。こんなところで暮らせるのか、と心が弾んだ。
しかし難民保護団体の紹介で得られた仕事は、ダウンタウンでのごみ掃除だった。祖国を失った孤児に、仕事を選ぶ自由などなかったのだ。そこにあったのは、輝くような未来ではなく、煌く摩天楼を見上げながら地べたを這いずり回るような、くすんだ日々だった。
「……でも、僕はラッキーだった。そうやってこの街の底辺をさ迷いながらも、少しずつ自分の居心地のいい場所を見つけられたからね。もっとそういう場所を増やしたくて、前だけを見て、上だけを向いて、無我夢中で頑張ってきた。気がついたら、ニューヨークに好きな場所がたくさんできていたんだ」
いつの間にか、ジョセフはそんなことを美穂に語っていた。今まで、誰にも話したことはなかった。ましてや、今日出会ったばかりの女性に話すようなことではなかった。我に返ったジョセフは、頭を掻いた。
「すまない。つまらない話を聞かせてしまったね。どうもこの夜景で、感傷的な気分になってしまったようだ。さっきの話は忘れてくれ。今日は、最高に素敵な一日だったよ。君に出会えてよかった。ありがとう、ミホ」
美穂が、穏やかな笑顔でゆっくりとうなずいた。
展望台に据えられたBOSEのスピーカーから、セリーヌ・ディオンの『When I fall in love』が流れ出した。ロマンティックなイントロに続いて、甘くてセクシーな声が恋の永遠を願う詞を歌い上げる。
――And the moment I can feel that you feel that way too.Is when I fall in love with you.
うっとりとした美穂の瞳に映るニューヨークの夜景が、まるで宝石箱に並んだ色とりどりの宝石のように輝いていた。