表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

Cherry & Cherry

 マウンテンバイクがフィフスアベニューに出ると、目の前には桜の季節を迎えようとしているセントラルパークが、広大な緑の広がりを見せていた。一か月ぶりに帰ってきたニューヨークは、もう早春と言っていい季節を迎えていた。

 メトロポリタン美術館の白亜のエンタシス列柱を斜め前に見るビルの一階に、目指すダイナー『Cherry & Cherry』がある。この店の経営者とは古くからの知り合いなので、ジョセフは月に数回はここで朝食をとることにしていた。

 通勤用のマウンテンバイクを店の前に停め、ドアを押して店に入る。派手なフューシャピンクのインテリアは相変わらずだが、今までは感じなかったふわりとした居心地のいい雰囲気が付け加わっていた。そして、ブラウン・ポテトの香ばしい匂いが、鼻孔をとおして空き腹をくすぐった。

 キッチンスタッフが変わったのか。これまでは、料理に関しては褒められたものではなかったが、期待がもてるかもしれない。

 窓際の席に座ると、ほどなく「グッモーニン」という軽やかな女性の声がした。いつもの癖で「ハイ、キャシー」と返しそうになったジョセフは、相手の声が馴染みのホールスタッフと違うことに気づいた。

 声のほうを見ると、長い黒髪を首の後ろでひとつに束ねた東洋系の女性が立っていた。品のいい薄化粧を施した顔が、柔らかな微笑みを浮かべている。清潔なエプロンの胸には、「MIHO」と書かれたネームプレートがあった。

「MIHO……ミホ?」

「はい。BeautyとEarで、美穂です」

「綺麗な名前だね。日本人かい?」

「ええ、そうですけど」

 美穂が怪訝そうな眼差しを向けてきた。ジョセフは頭を掻く。

「ああ失礼。僕はジョセフ・クロンカイトだ。知り合いに、日本人の女の子がいるものでね。ところで、キャシーはどうしたんだい」

 このダイナーの古参スタッフの名前を出すと、美穂の表情が緩んだ。

「彼女、怪我しちゃって。リハビリで、今日も病院なんです」

「そうか、それは大変だな。じゃあ、ミホ、モーニングセットを頼むよ。コーヒーにはソイミルクをたっぷり入れてくれ。それと、ブラウン・ポテトを多めにしてくれないか」

 美穂はどうやら、ひとりで店をまわしているようだった。ジョセフのオーダーをとると、となりの席で待っていた客に手早く配膳し、レジに並んだ客の会計をすませる。ハムスターのようにくるくると動いているのに、その動作には無駄がなく正確だった。

 ジョセフの席にも、ほどなくモーニングセットが運ばれてきた。ブラウン・ポテトは見るからに美味しそうで、口に運ぶと予想通り絶妙な味付けがなされていた。この味なら、これからこの店に来るのが楽しみになるだろう。

 食事を終えたジョセフはレストルームに入って、磨きあげられた鏡で身だしなみをチェックする。このあとすぐに番組の収録があるのだ。短めの金髪はきちんと撫でつけられているし、スリーピース・スーツのVゾーンを彩るペイズリー柄のネクタイも曲がっていない。トレードマークの縁なしメガネを、左手の中指の先で正しい位置に持ち上げて、準備は完了だ。

 忙しそうに働いている美穂に会計を頼み、代金とともにすこし多めのチップを渡す。

「シェフに伝えておいてくれ。今日のブラウン・ポテトは絶品だったよ」

 あ、という声とともに、美穂の顔に恥ずかしそうな笑みが広がる。

「あれ、私が作ったんです」

 ジョセフは、心の底から驚いた。ホールスタッフだろうと思っていたのに、調理もやっていたのか。それにしても、やはり日本人の味覚は侮れないようだ。あの子が作ってくるものも、素人とは思えないほどに美味しいからな。

 ジョセフは、チップを上積みする。

「じゃあ、これからも君が作ってくれ。そしたら、もっと寄せてもらうよ」

 サンキューと答えた美穂の笑顔に見送られて、ジョセフはいい気分で店を出た。スラックスのポケットにすこし違和感があったが、頭はすでに今日扱うニュースに占領されていた。


 ジョセフが財布をなくしたことに気づいたのは、ニュースショーの収録が終わったあとだった。

 また、やってしまったな。どこでなくしたのだろう。朝食をとったダイナーではちゃんと支払いをしたから、そのあと自転車で走っているうちに落としたのかもしれない。いずれにしても、クレジットカード会社に連絡して、利用停止の手続きをしないといけないな。

 そう思いながら、支局のあるタイムワーナーセンターを出ると、コロンブスサークルを行き交う人々の中に、見覚えのある女性の後ろ姿があった。ひとつ括りにした黒髪が、艶やかに陽光を反射している。魅力的といっていい立ち姿だが、どうしたことかあの店のエプロンをかけたままだった。彼女は支局のスタッフに囲まれて、カメラとマイクを向けられている。ここの名物になっている突撃インタビュー"man on the street"の連中に捕まったらしい。

「ミホ、どうしたんだい」

 ジョセフが呼びかけると、ダークブラウンの瞳をこちらに向けた美穂が、安心したように笑顔を浮かべた。


「そうか、ありがとう。迷惑をかけたね」

 事情を聞けば、美穂は店の前に落ちていたジョセフの財布を拾ったので、わざわざここまで届けに来たのだという。店の常連客から、財布の持ち主はタイムワーナーセンターにあるCNNに勤めていると教えてもらったらしい。そういえば、日本では財布を拾ったら警察に届けるのが常識だと、あの子も言っていた。日本人の真面目さに、ジョセフはあらためて感心する。

「お礼をさせてくれ」

 そう言ってチップを渡そうとしたジョセフに、美穂は笑ってかぶりを振った。

「お店の常連さんから、そんなの受け取れないわ。私は、あたりまえのことをしただけだから」

「そういうわけには、いかないよ。そうだね……今日の夜、店が終わってからでいい、すこし時間をとれるかな」

「ほんとに、いいですから」

 そういって固辞する美穂に、ジョセフは携帯電話の番号を書いたメモを押し付けた。

「かならず連絡をくれ。待っているから」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ