第1章
ライトノベルでは無いと思いますが、誰が読んでも面白い作品を目指して書きました。ある出版社の文学賞2次選考に残りましたが、最終には進めなかった作品です。もし誰かの暇つぶしになれば、とてもうれしいです。よろしくお願いします。
■第一章 二〇〇五年六月
自分はいつからこんな体たらくになってしまったのだろう。前田雄太はここ半年、ほぼ毎日そう思う。朝起きて、まず自分の情けなさを実感するのだ。ただ、世間から見れば、前田の社会的地位は悪くない。地方銀行で営業を担当する三十二歳。大学を卒業してから八年間、地元の中小企業や自営業者を相手にしてきた。仕事は要領よくこなしてきたつもりだ。不良債権や公的資金という名の税金注入など、最近は世間の足を引っ張る悪いイメージが先行するが、それでも給料の面でいえば人並み以上といえる。独身だけれども、今どき三十二歳で独身なのは珍しいことではない。二十代で結婚して三十代で離婚するくらいなら独りでいるほうがよっぽど気楽だと、前田は楽観的に考えている。
だけれど、半年ほど前から何かに追い立てられるように感じるのだ。理由はよく分からないのだが「このままでいいのだろうか」と思い始めたら、どうしようもなく不安になる。これまで銀行にいたのと同じ時間、このまま過ごせば八年足して四十歳、さらにもう八年足してもまだ四十八歳。あと八年足してようやく定年が見えてくる。五十六歳の自分は今よりどれほど成長しているのだろうか。いや、四十八歳ではどうか。何も変わっていない、むしろ後退しているようにさえ思う。漠然とだが、今より器量が小さくなっていそうな気がするのだ。
前田は銀行に就職するとき、その先のことなど何も考えていなかった。大学生のときの就職活動は嵐のようで、とにかく早く始めなければという気持ちだけが先行し、社会人になる準備など全くせずに走り出した。職種は問わず時間と体が許すかぎり、様々な職種を受けた。公務員、建設会社、証券、広告、保険、マスコミ、食品製造、商社・・・どこに入社するかは内定をもらってから悩めばいい。自分が何をしたいかなんて、まるで分からなかった。受ける会社がまずあって、会社案内に目を通して仕事の中身を把握する。そこから入社したい動機を考える。本来あるべき姿とは逆の順序だったが、そこを掘り下げて考える余裕はなかった。
ただ、中身が伴っていないため、面接では落とされることが続いた。そんななかで初めて、今いる銀行から内定をもらったのだ。どこが評価されたのかは分からないが、応募するたびに提出する膨大な書類作りから逃れたくて、前田は就職活動を終えた。そのときはそれでいいと思っていた。社会人として働き、給料がもらえる位置を確保した、それだけで十分じゃないか、と。
働き出してからは、予想できなかった独自の「常識」を目にし続けた。上司は絶対的存在で、行内にはどんな命令をされても表面上は異を唱えずに実行するイエスマンがほとんどだった。その外にも前田自身、営業先から「お宅の次長さんに五百万円貸したんだけれど、いくら言っても返ってこない」と漏らされたりなど、世間には言えない無様な例をあげればキリがない。
しかし、前田は多かれ少なかれサラリーマンというのはそういうものだと割り切っていた。上司のいない会社はない。どんな会社に勤めても、独自のルールはある。気にしたところで一体なんになるというのだ。
前田は布団から抜け出し、クリーニングされたスーツを着て、いつもどおり午前七時半に家を出た。駅までは徒歩五分。会社には遅くとも八時半には着く。駅に着くと、ホームの先頭に向かった。いつも先頭車両に乗るようにしているからだ。前田の乗る私鉄は一両目での携帯電話を使用禁止にしているため、その分、空いている。もし電話がかかってくればかけなおせばいい。六月。もうすぐ梅雨が始まろうとしているが、珍しく快晴だった。今日もいつもと変わらない一日が始まる。
◇
その電話がかかってきたのは、営業先の近くで昼飯を食べていたときだ。前田の所属する部署の課長、西川真一は、ずいぶん慌てていた。
「ま・・前田君、大変なことになった。すぐ社に戻ってくれ、塚本君が事故したらしい」
塚本信彦は職場で毎日、顔をあわせる前田の後輩だった。その塚本が事故だと?前田は思わず聞き返した。
「事故?交通事故ですか」
「ああ、なんでも車で民家に突っ込んだみたいなんだ。家にいた人も救急車で運ばれた。人身ということだけは間違いない」
「え・・じゃあ塚本もけがしているんですね」
「けっこう危ないみたいだ」
ここで西川は急に声を落として続けた。
「目撃者によると、ブレーキをかけた様子がないそうだ。原因はあれかもしれん。君も聞いてたろう」
前田は目の前が真っ暗になった。「危ない」ってどういうことだ。「原因はあれ」と言われると、たしかに思い当たることがあった。
「あぁ・・・」
言葉にならない音が歯の間から漏れた。のどのずっと下、胃の近くからこみあげてくる、遠慮がちな悲鳴のようだった。
「その点でも相談なんだ。とにかく戻ってきてくれ。そのあいだ、誰かから聞かれても、余計なことは決して話すなよ」
そういい残して西川は電話を切った。
食べかけの焼き魚定食を前にして、前田は周囲の音が聞こえなくなった。とても現実に起きたこととは思えない。塚本は先日、「二十九歳になってしまった」と嘆いていたから、前田より三歳年下になる。塚本のほうから気軽に話しかけてくることもあり、前田はかわいがっていた。いつも一生懸命なひょうきん者。失敗しても憎めない奴だった。今朝も出社してから、言葉を交わした。何を話しただろう。そうだ、「前田さん、ニンニク臭くないですか」と言われたのだ。ニンニクは確かに昨晩食べたが、十分すぎるほど歯を磨いた。それを一瞬で見破られた。正確には嗅ぎ破られた。「マジ?臭うか。参ったな」と戸惑う前田に塚本は笑って返した。「大丈夫っすよ。僕、顔が悪い分、鼻はいいんです。ほんのかすかに臭っただけだから、ほかの人にはまず分からないですよ」。それでも念のため、エチケットガムを買って、営業先に向かう車内でかんでいた。スーツの右ポケットを探ると、ガムは確かにそこにあった。
「塚本・・・頑張れよ」
前田はつぶやきながら、半分以上残った焼き魚定食には目もくれず、あわてて席を立った。
◇
課長の西川は典型的なサラリーマンだ。四十歳過ぎで、細身。髪の毛は前から禿げ上がり、頭のてっぺんに達している。言葉は丁寧だが、会社の犬という言葉がピッタリくるタイプで、上司の言うことならカラスでも白だと平気で言えるところがある。言葉が上滑りして心がこもっていないのも特徴で、西川が上司へ言う口癖「本当に素晴らしいですねぇ」はそのいい例だ。素晴らしいとは思っていないことが、なぜか痛いほど分かってしまう。それをよく表すエピソードがあった。
前田が同僚から集めた情報によると、先日、西川は営業部長・小野正憲のご夫人が趣味で描く油絵を見るため、市が主催した「市民の生きがい発表会」という展覧会に行ったそうだ。あいにく訪れた時は婦人も部長もおらず、西川がわざわざに休みをつぶしてつまらない催しに出向いたということは、受け付けの来場者名簿に自身が記した署名が証明するのみだった。焦っていたのだろう。後日、会社のエレベーターホールの前で小野を見つけた西川は、慌てて駆け寄り、背筋を伸ばしなおして声をかけた。前田は偶然、同じホールの椅子に腰掛け、会社の資料を読んでいたため、数メートル離れた場所で、二人の会話を聞くことが出来た。
「部長、おはようございます。先日、奥様の本当に素晴らしい絵画を見させていただきまして、感激いたしました。描かれた太陽の色がその、なんといいますか実に斬新で、まったく目を見はる思いでした」
意外だったのか、小太りで顔が日焼けで浅黒くギラついた小野はうれしそうな声を出した。
「ほう、そうかい。君、絵画に興味があるのかね。そいつぁ家内も喜ぶよ。太陽ということは『落日の海』って作品だな。ありゃ去年、北海道へ旅行に行ったとき、実際に浜辺で見た光景らしいぜ。でも家内にしちゃ、出品した三作のうち一番ダメだったみたいだ。あれはどうだったい?『木たちと少年』。森のなかで静かに自分を見つめる少年ってのがコンセプトみたいなんだがね」
「ははっ、あの作品もまた森の緑が実に斬新でして。本当に素晴らしく、まるでこう心を鷲づかみにされた思いがしました、まったく」
西川の節操ないお世辞ぶりに、前田は笑い出したくなるのを必死で抑えた。ふと、小野の表情が止まるのが、前田にも分かった。
「緑?緑は君、ほとんど使っちゃないよ。森をあえて水色と上から射すあたたかな日差しの黄色で表現したのがあの絵の特徴じゃないのかね。いやまぁこりゃ家内の受け売りなんだがね」
西川の表情も止まった。冷や汗をかいているような雰囲気が前田にまで伝わる。
「まぁいいや。また機会があったら見に行ってくれたまえ」
凍る西川を尻目に小野はそういい残して、エレベーターに乗り込んだ。
「ハハッ」
深々とおじきをする西川の後ろ姿を見ながら、前田は分析した。なるほど、答えは簡単だ。西川は展示された作品を一作と思い込み、「落日の海」という絵の下に夫人の名前を見つけただけで、帰ってしまったに違いない。だから森の絵はもちろん、別のもう一作も見ていなかったのだろう。前田の記憶によると、西川の趣味はたしか俳句だ。まったく、無理して興味のない絵画などを見に行くから失敗するのだ、と前田は哀れに思った。
前田は所属する営業四課へ行くとすぐ、塚本へ一部始終を報告してやった。
「ははっ、相変わらずですねぇ、西川さんも。余計なこと言わなけりゃいいのにねぇ」
塚本は笑いながらも的確な指摘をした。
「くくっ、全くその通りだな。素晴らしいですねぇ、ってバカの一つ覚えみたいに言ってりゃいいのに、森の緑が斬新で、とか調子にのるから墓穴を掘るんだよ」
「なになに、何やったの?」
噂話をかぎつけて二人の後輩、同じく営業四課の泉千夏が割って入ってきた。上司が絶対の硬直した職場だったが、塚本と千夏は前田に本音をぶつけてくれるありがたい存在だった。前田もこの二人とは不思議に波長があい、思っていることを素直に言えた。先輩後輩の間柄ながら、建て前のない会話をできる仲間はお互いに貴重だった。千夏は誰にでも笑顔で接して人の話もよく聞き、課内でも営業先でも人気の女性だ。千夏の笑顔や言葉の自然さは西川の対極にある、と前田はいつも思う。
塚本が前田の話をなぞって一部始終を説明し終えると、ひとしきり笑った千夏が言った。
「あぁーおかしい。でもさ、そりゃ誰が考えたって、森は緑よね。お―牧場―はっミッドッリってね、歌じゃないけどさ。水色だなんて変な森、想像できないわ」
「木たち、ってタイトルにもセンスの悪さを感じるよな。変だよ、木に『たち』をつけるなんてさ」
前田も部長夫人を小馬鹿にする波に乗じた。
「西川課長は見ていなかったんでしょう。その絵を。せっかく展覧会行ってポイント稼ごうとしたのに、マイナスになっちまいましたね」
笑いながら目を細める塚本に、千夏が口をとがらせた。
「ホンット最低だよね、ポイント稼ぐために奥さんの展覧会まで行かなきゃならないの?課長さんって。情けない。あ―やだやだ。あたしそんなことするくらいなら一生ヒラでいいわ。まだ見ぬ旦那さんにもそんな人になって欲しくないな」
旦那さん、と聞き塚本が一瞬緊張するのが、前田には分かった。塚本のみならず、千夏に彼氏がいるのかどうかは課内のちょっとした関心事だ。前田から見れば千夏はまだまだ幼いが、人気があるのは十分理解できる。千夏に興味のないおじさんだからと思いながら、前田は聞いてみた。
「おっとぉ、泉さんには旦那さん的存在がいるんですか」
「やだなぁ、そんなのいるわけないじゃないですか。いたらもう辞めてます、な―んてね、まだ入ったばっかりだから勿体ないかな」
今度は少しホッとする塚本の空気が伝わってきた。分かりやすい奴だ、と前田は思った。千夏の言葉がどこまで信頼できるかは別の話だが、塚本のためにも本当であってほしかった。
「あっと、もう出なくちゃ。じゃまたね」
軽く手を振って営業先へ向かう千夏の背を見送りながら、前田は塚本に言った。
「よかったな、彼氏いないみたいだぜ」
塚本は右手を大きく顔の前で振って否定した。
「やめてくださいよ。全っ然、なんとも思ってないですから、あんな子供」
「子供って、そんなに歳変わらないだろう。いくつだったっけ、彼女」
「二六です。入行二年目のひよっこで、僕より三つも年下なんですから。僕が中二のとき、泉さんは小五ですよ」
大したことないじゃないか、と思ったが前田は言うのをやめた。年齢を即答できるところや意味不明な弁解ぶりが、何よりの答だと感じた。
「それにしても」
声を落として塚本が続けた。
「いや話は全然変わるんですけど。毎度のことながら、西川さんのほめ言葉って笑っちゃいますよね。よくもまぁ、あんなに心のこもっていない絶賛ぶりができるもんだって」
前田はエレベーターホールの様子を思い浮かべて答えた。
「だけど部長、嬉しそうだったぜ。水色の失敗するまでは、だけど」
「それなんですよ。それもまた不思議なんですよ。だって、もし僕が部長で、そんな褒め方されたら途中で話を遮って『あ―いや君、はいはい分かった。分かったから早く職場へ行きたまえ』って言ってやりますよ。もういかにも『君のゴマすりにはウンザリだから』って感情を言葉の端々に出しながらね。西川さんの言葉を聞くと、何とか気に入られようという魂胆がみえみえで、逆に腹が立つと思うんですけどねぇ。気持ち悪い」
前田は塚本の指摘をよく理解できた。
「確かにそうだな。偉くなると自分を批判する声が聞こえなくなって、逆に下からの褒め言葉に囲まれていると、嘘くさくても分からなくなるのかもしれない。でも分からんぜ。ひょっとして西川の必死のゴマすりを聞く振りをして、部長席に座ってからチェックシートで減点しているかもよ」
「あっ、それで思い出した。聞いてくださいよ、年度末の勤務評定。僕、十点評価で四だったんですよ。おかしくないですか。成績だって悪くないし営業先からのクレームも少ないし、残業もしょっちゅうだってのに。だいたい西川さんに評価されるってのが気に食わないですよ。自分の尊敬できる人に悪い点をつけられるのならまだいいですけれど、西川さんに言われたくないです。あんな情けない奴に。やる気しぼむ一方」
「うん、まったく同感、その通り。ただ、それがサラリーマンの辛いところだよな。本当に。上司を社員による選挙で決めることができればいいんだけど、そういう訳にもいかないからな。まぁ、自分だけはあぁならないように気をつけようぜ」
まだ何か言いたそうな塚本を残して、前田はその場を後にした。
◇
窓越しの景色が流れては止まり、また流れたかと思うとすぐ止まった。信号を待つあいだ、前田は携帯電話をかけ午後の予定をキャンセルし続けた。三十分あれば会社に着く距離だが、こんなときに限って渋滞している。本当は病院に駆けつけて、塚本の手を握ってやりたかった。たしか付き合っている彼女はいなかったはずだ。千夏に握られたら、もっと元気になるだろう。
でも一方で、西川の話も気になる。少しでも情報が欲しくてラジオをつけていたが、発生からまだ時間がたっていないのだろうか、ニュースでは流れなかった。窓を開けると、遠くからヘリコプターの音が聞こえた。まさか塚本の事故を取材しているんじゃないだろうな。いや、そんな大きな事故なはずないか。雀の鳴き声もした。息が苦しくなってくる。対向車線は渋滞の前田の車列をあざ笑うかのように、空いている。
なぜあのとき、もっと強く言っておかなかったのか。さっきから点滅信号のように、同じ言葉が頭の奥で光る。「塚本の事故は、防げたんだ」という後悔が心のなかに渦巻いた。
◇
今年の春だから、二ヶ月前のことだ。平日の午後七時ごろ、前田はすでに仕事を終えたものの早く帰る理由がなく、インターネットを見るともなしにパソコンをいじっていた。そこへ後ろから西川が声をかけた。
「前田君、晩飯でも食いにいかんかね」
珍しいことだった。西川が部下を飲みに誘うことは滅多にない。だから前田は安心していた。というか油断をしていた。さりげなく周囲に目をやると、残っている連中は何も聞かなかったかのようにパソコンへ向かい、深刻な表情で画面に向き合っている。どうせメールやネットをしていて前田への誘いが耳に入ったため、急きょ画面を仕事用に変えたに違いない。だが、彼らの様子に比べると前田はいかにも無防備だった。背中を丸めて椅子に座り、机についた左腕でだらしなく顎を支える姿は、「何もすることがありません」という現状を全身で表現していた。
「あっ、ハイ、そうですねぇ」
適当に流そうとする前田に、西川は畳み込んできた。
「今日は家内が友達とコンサート見に行っちゃってねぇ。なんのコンサートだか知らんが、帰っても食べるものが何もないんだよ。君も仕事は終わったみたいだし。次はいつ誘えるかも分からない話だし」
誘い方に悲壮感が漂うためか、ますます断りにくくなった。西川にしても、ほかの課員がいる前でいかにも暇そうな前田から拒否されたらメンツがたたないだろう。西川の性格からして、今後の前田への対応にどんな弊害が出るかも予想がつかない。たかが一回の誘いで考えすぎだとは思うが、査定や人事に影響が出ることもあり得るのが、西川なのだ。
前田は仕方なく行く覚悟を決めたが、どうすればそのプラス効果を最大限にできるか考えた。サラリーマンのせこい「ポイント制」にいつの間にか前田もなじんでしまっていた。ちょうどそこへ出先から課に戻ってきた塚本の姿が前田の目に入った。前田は塚本を目で追いながら答えた。
「いいですよ。いやちょっと取引先からの電話を待ってたんですけれど、急ぎじゃないですから。塚本も誘いますか。あいつも仕事が終わったみたいだし」
塚本の仕事が終わったかどうかは知らないが、西川と二人で行くことだけは、なんとしても避けたかった。会話がもたず、空気が淀んでしまうことは容易に想像がつく。カウンターに座らされたりでもしたら、なおさらだ。お世辞なら言うし会話もあわせるが、それも話題があってのことだ。ビールが生ぬるい水のように感じられる食事は、なるべく避けたい。前田は西川の返事を待たずに席を立ち、塚本の席へ向かった。
塚本はかばんの中からパソコンを取り出し、自分の席のLANケーブルにつなげようとしていた。
「お疲れさん」
「あ、どうもお疲れさまです。いや疲れました、ホントに」
調子よくそう言って、塚本はチラリと西川の方へ目をやった。
「課長と秘密の相談ですか」
にやにや笑う塚本に、前田は声を低くして言った。
「いや・・・ナント飲みに誘われちまったんだ。俺が迂闊にも、すきのある態度を見せちまったばっかりにさ。まさか誘われるとは思ってなかったから参ったよ。でさ、お願いなんだけど二人じゃあまりにきついから付き合ってくれないかな。明日も朝から仕事だし一軒で終わるよ。また奢るからさ。晩飯。親孝行のつもりで、な」
「え―っ、ちょっとこれから調べようと思っていたことあるんですけどねぇ」
と言いつつも塚本は笑みを保って、付け足した。
「ウソウソ、付き合いますよ。ほかならぬ前田さんの頼みですもんね。確かに二人じゃきついし。何か笑える課長の裏話が聞けたらいいですねぇ」
それを千夏に話して喜んでもらうつもりだな、と前田は察した。どうせなら塚本と二人で高級クラブのホステス役に徹して西川に気持ちよくなってもらい、本音を話させるのも一興だ。
「センキュー。助かったよ。なんなら西川と終わったあと、飲みなおしでもしようぜ」
前田はホッとしながら塚本の前で拝むように両手をあわせると、さっきの場所で電信柱のように突っ立っている西川のところへ戻った。
会社から出ると春特有の新鮮な風が、心地よく全身を突き抜けた。新しい道へ進み「これから頑張ろう」という新入生や新入社員のエネルギ―をそのまま反映しているようなみずみずしい風だなぁ、と前田は感じた。
「寒いねぇ。四月なのにいつまでたっても」
西川は大げさに肩を震わせた。
「そうですねぇ」
前田は適当に相槌をうった。新鮮さを感じられないばかりかマイナスにとってしまったのは、実に西川らしいと前田は納得した。
「何か食べたいものあるかね」
西川は少し得意げに聞いてきた。前田の視線をチラリと受けた塚本が代わりに答えた。
「なんでもいいですよ」
「なんでもいいってのが塚本君、一番困るんだよねぇ。なんでもいいってのが」
西川はまるで準備していたように絡んできた。いつもこうなんだよな、と前田はウンザリした。同じ思いだろう塚本が、絡みつく言葉を断ち切るように言い放つ。
「それじゃあ魚が食べたいです」
「魚ねぇ。分かった。魚もあるから、その店なら、うん」
やはりそうだ。行く店を決めていながら、アリバイづくりのように形だけ部下の意向を聞いておくのが、西川の嫌な性格なのだ。なぜこんな中途半端なことをするのか、前田には理解できない。最後方を歩く塚本を振り返ると、肩をすくめ両手を広げながら、少し上へ上げてみせた。前田は相槌を打つように大きくうなずいてみせた。
西川が入った店は木造の民家を思わせるおでん屋だった。入るとカウンターがずらりと並び、中央に置かれた両手で一抱えもありそうな鍋には何種類ものおでんがグツグツ煮えている。平日のためかカウンターにはまだ空きがあった。
「いらっしゃいませ。お三人さん、カウンターと奥の座敷がありますが、どちらにしましょう?」
三十代半ばだろうか、威勢のいい男性店員が引き締まった笑顔で尋ねてきた。一瞬考える西川を尻目に前田が即答する。
「座敷にしましょう」
「分かりました、お座敷3名さま―」
男性の声が店内に響く。西川は意外と素直に奥へ進んだ。
席につき、生ビールで乾杯を済ますと西川はご機嫌に笑いながら、正面に座る塚本に言った。
「塚本君、ここはおでんが主なんだが魚もうまいんだ。刺身や焼き魚もあるから存分に食べてくれ」
「あっ、そうなんですか。ありがとうございます」
前田の推測では、元々塚本は魚が食べたかったわけではない。ただ、塚本の意向を聞いてくる時点で西川がすでに店を決めていることは過去の付き合いから分かっていたため、適当に言ったまでだろう。塚本の好物は魚ではなくお好み焼きなことくらい、前田でもよく知っている。
「課長はよく来るんですか、ここ」
メニューに目を落としたまま、塚本が聞いた。
「二回目かな。以前、小野部長に連れてこられて知ったんだ。この雰囲気が落ち着くんだよ」
確かに落ち着く店だと前田も感じた。畳に障子、掘りごたつと座布団。視界も全体的にこげ茶色に統一され、なんとなく安心する。前田が生まれ育った実家も、家族そろっての食事はテーブルではなく畳の掘りごたつだった。前田は機会があればまたこの店を利用したいと思ったが、小野や西川が利用しているということは鉢合わせになるかもしれない。そう考えると、残念ながら避けざるを得なかった。
「前田君はいつも飯はどうしているんだい?コンビニ弁当かね」
「いえ、自分でつくることが多いですね。近くに夜十二時まで開いているスーパーがあるので、帰りにそこで材料を買いまして」
「へ―。それは偉いなぁ。僕なんか全然料理をしてないから、もう卵を割るくらいしかできないんだよ」
「あー、それはちょっと困りますね」
笑いをこらえる塚本を横目で見ながら、前田は答えた。確かにそれでは一人で家へ帰るより、無理に部下を付き合わせてでも外で食べたほうがマシだといえる。
西川の話はその後、春の人事異動に対する不満、中間管理職がいかにストレスを使うか、そしてその苦労を課員が理解していないことへの嘆き、と続いた。
「君たちはいいよな、気楽なもんで」
わざとらしくため息をつく西川を見て、前田の気は滅入るばかりだった。いつものことながら、これだから部下に敬遠されるということが分からないのか、と前田は心中で毒づいた。会話の八割は西川の独演会で、二人にとっては西川の話こそストレスが溜まる主因だった。いい加減、腹が立った前田は、ついチクリとやり返した。
「でも人事に不満言い出したらきりがないですからねぇ。評価されていないとか、なんであんな奴が昇進するんだ、とかは誰にでもありますし。結局、判断する側の主観みたいなものが大きいんじゃないでしょうか。全てが思い通りにいくことなんてないですから」
少し黙ってほしかったのだが、西川は平然と答えた。
「立派なこと言うじゃないか、前田君。ふん、まぁそうさ、結局、上の主観で僕の人生は決まるんだよ。全くやりきれない」
それは俺のセリフだ、と前田は思わず言いそうになった。こういうときは、無理やり話題を変えるに限る。前田は全く別の話を持ち出した。
「ところで営業に使う会社のカローラなんですけど、1台ハンドルが異常に重いのがあるんですよ」
前田らが営業先に向かうときは、基本的に車を使う。電車を使うこともまれにあるが、駅から得意先までタクシーを使うと、結局高くついてしまう。自分の車は決まっておらず、その時に空いている車の鍵を借りる仕組みだった。
「なに、ハンドルが?」
「ええ、曲がるときや車線変更するとき、結構、腕に力がいるんですよ。」
前田は前の週に一回、この車にあたってしまい、運転しながら「必ず会社に帰って文句を言ってやろう」と思っていたのだが、いざ帰って車から降りた瞬間に、スッとその怒りがひいてしまった。のど元過ぎれば、というのだろうか。不便な車からの解放感が怒りに勝ったのだろう。それを急に思い出したのだ。
「そりゃまずいなぁ。総務課か・・・それとも営業サポート課か。言えば直してくれるだろう。言ってくれ」
西川に話したところで解決にならないのは分かっていたが、まったく頼りにならない男だ。「そりゃまずいなぁ」と言いつつも、相変わらず全く心がこもっていない。民間人より役人のほうがコイツにはお似合いだな、と前田は思った。前例踏襲、言われたことだけやってりゃいいんだ。すると黙って聞いていた塚本が、目をギュッとつむりながらビールをのどに流し込んでから言った。
「そんな車があるんですか、そりゃ疲れるなぁ。でも僕も最近、疲れているのか、運転していてたまにフッと気が遠くなることがあるんですよ。働きすぎかな」
前田が聞いた。
「気が遠くなる?危ないんじゃないか、それは。どういう風になるんだよ」
「いや、滅多にないっすよ滅多に。これまで一、二回ですよ。ほんの一瞬、コンマ何秒かの世界で、気がつくとちょっと景色が進んでいるんです。危なかったことはないんですけど。たぶん疲れからですよ」
西川がおでんのこんにゃくを蛇のようにゴクリと飲み込んで、口をとがらせた。
「疲れてるわけないだろう。みんな残業時間はそんなに変わらないし、僕はその点おおらかだからノルマや勤務時間にガタガタ言うタチじゃないし。会社終わってドコ遊び行ってんだ」
前田は無視して続けた。
「居眠りしているわけじゃないよな。お前、あれじゃないのか。ホラ、前に新幹線が線路上で止まったニュースあったろ。速度落とさなきゃならない地点にさしかかってたのにスピード出っぱなしだったから、安全装置で停止したっていう。あのときの運転士ってたしか・・・」
「大丈夫、大丈夫っすよ、前田さん。そんな大げさな。無呼吸なんとかってやつでしょ。あれこそ居眠りですよ―。何分か忘れましたけど、たしか止まってから誰かが運転席に確認しに行ったらまだ寝てたって。僕とは全然違うというか比較の対象になんないですよ。僕はしっかり休んで疲れをとったらすむ話なんですから」
塚本は「言わなきゃよかった」といわんばかりに、あわてて弁解した。前田はとりあえず黙った。納得はいかないが、とりあえず返す言葉がない。一瞬の静けさを西川が破る。
「それならそれで、しっかり疲れをとれよ。事故なんか起こされた日にゃ、たまったもんじゃないよ。結局ガヤガヤ言われるのは俺だからな」
塚本より自分の身を心配する西川に、前田は腹が立った。
「大丈夫です、絶対起こしませんから」
塚本は笑いながら、大きくうなずいてみせた。だが、前田はとても大丈夫だとは思えなかった。コンマ何秒とはいえ、その間に車は進むのだ。とっさにハンドルを切ることもできない。これを危険といわずなんというのか。
居酒屋を出ると、西川は塚本に念を押した。
「早く帰って寝ろよ。なんなら明日、病院に行ってもいいからな」
西川なりに頭にはひっかかっているらしい。そう言い残して「じゃ」と一人で駅に向かって歩き出した。だが、塚本はまるで他人事のように前田に聞いた。
「課長、いくら払ったんですか?」
代金は約一万円で、塚本から千円を回収した西川は「あとは前田君と払うから」とレジに向かったのだ。
「残りの額を支払うとき、西川君は前田君の倍、出しました。いくらでしょう」
「六千円プラス端数ですね。ま、そんなもんか」
「端数はオレ」
「どうも、ごちそうさまでした。でも、千円といわずもっととってもらっていいのに・・・。なんか子供扱いされた気分ですよ」
「というかさ、本当に大丈夫なのかよ。課長も気にしてるみたいだし。明日、病院に行けよ」
塚本は顔を曇らせた。
「そんなどっこも痛くもかゆくもないのに。無理ですよ、午前中、三つ約束入ってますもん。だいたい何科に行きゃいいってんですか」
前田も分からなかった。塚本が畳み掛ける。
「前田さんも課長の心配癖が移ってきたんじゃないですか。だいたい今日は僕、困ってる前田さんを助けてあげたんですからね。課長と二人ならキツかったでしょ。だから無礼講、無礼講」
そう言って笑う塚本を見ると、釈然としないしこりは残るものの、前田も少し強く言い過ぎたかなと思った。
「でもな、それじゃこれは約束してくれ。次、似たような症状を経験したらその日のうちに病院に行くこと。いいな」
「はい、分かりました」
「絶対だぞ」
「分かってますって」
そう言ってスタスタと先を歩く塚本の後ろ姿を、前田はただ不安げに眺めるしかなかった。
◇
あれから二ヶ月。動き出した車列のなかで、前田はあの居酒屋での会話を昨日のことのように思い出していた。最初の一週間ほどは前田も気になり「運転、大丈夫だろうな」と何度か念を押した。塚本は決まって笑顔で、人差し指と親指でマルをつくり「問題ないです」と答えていた。そんな普段と何ら変わりない塚本を見ているうちに、前田の問題意識はだんだん薄れてしまっていた。前田自身、仕事に追われる毎日だ。問題ないという塚本の首根っこをつかまえて病院に連れて行く余裕はなかった。でも、と前田は思う。連れて行くべきだった。間違いなくそれが正しい選択だ。
車列のスピードが元のペースに戻ってきた。渋滞はまもなく解消しそうだ。
そういえば居酒屋での出来事から一ヶ月ほどたった夕方、西川に聞かれたことがある。「塚本君のことだけどな、ほら運転中に、ってやつ。本人に聞いても大丈夫です、の一点張りなんだが、本当に大丈夫なのか」。三人で居酒屋に行って以来、西川とその件について話したことがなかった前田は唐突さに少し驚いたが、ありのままを答えた。大丈夫かどうかは分からないが本人がそう言い張る以上、尊重するしかないのではないか。ただ、できることなら病院に行ったほうがいいと思うし、場合によっては車に乗らなくてすむ職場に異動させることも選択肢の一つではないか、と。
ただ、営業の仕事にそれなりのやりがいを感じている塚本に、本人のなかばウッカリした居酒屋での「失言」を根拠とした異動を言い渡すのは相当無理がある、と前田は思った。何より塚本の気持ちを考えると、そんなかわいそうなことはしたくない。
西川は「そうか、そうだよな」と西川の前で少し考え込み、「分かった、ありがとう」と自分の席へ戻ろうとした。「あっ、でも本人が大丈夫というんなら大丈夫なんじゃないですかね。元々、最初も本人の申告だったわけですから」。本当に異動させてしまうような気が頭をよぎり、前田は思わず西川の背中に声をかけた。「うん、そりゃ分かってるよ」。疲れきった感じで頭をボリボリかいていた西川は、あのとき何を考えていたのだろうか。思えば自分の対応も中途半端だった、と前田はまた悔いた。危険の芽を摘むには、車に乗らせないことが一番なのだ。「今週中に病院に行け。じゃないと異動対象になるぞ」くらいに脅すべきだった。湧き出る泉のように後悔が止まらない。
会社に着き、駐車場に前から勢いよく突っ込んで車を止めた前田は走って課へ向かった。一階の玄関・受付の雰囲気は普段と変わりなかった。エレベーターもいつも通り空いている。課のある五階の廊下も、特に気づくことはない。なんだ、全然騒ぎになっていないじゃないか、大したことないな。頭をかすめるそんな思いとともに前田は廊下に並ぶ自販機、冷水機、トイレをビュンビュン通り越して課のドアを開けた。
一瞬にして空気が暗転した。最初に目に入ったのは、机に突っ付し肩を震わせて泣いている千夏だった。いつも何か食べている巨漢の村井がパイプ椅子に座って手を前で組みうなだれている、プラモデルが趣味の武田は涙と鼻水で顔じゅうがベトベトだ。千夏と仲良しの女性社員・長井は座ったまま前方の壁を見つめて微動だにしない。「嘘だろ・・・」声にならない音が前田の喉からもれた。入り口で凍りつく前田に向かって、西川が部屋の奥から小走りで駆けてきた。無言で課のドアを指差しながら前田の肩を抱き、廊下に連れ出した。
西川は前田をしたがえて、廊下をエレベーターとは逆方向にズンズン歩いた。同じ廊下なのに、さっきとは打って変わって空気が重い。頭や肩にズシリと負荷がかかり、前田の目にはいつの間にか涙があふれていた。西川は廊下の一番端でやっと止まり、うつむきながら押しつぶすように言った。
「塚本君は病院に運ばれたが、死亡が確認されたと、ほんの少し前に連絡が入った」
前田は何を考えていいのか分からなかった。とにかく実感がない。昨日まで元気だった塚本がこの世にいないということを、どうとらえたらいいのか、とても自分一人の手に負えない気がした。頭で受け止められる容量をはるかに超えていて、どういうことなのか理解できない。
「塚本君は道路左側の民家に突っ込んだらしい。さらに悪いことに、その家に住む主婦が庭に出ていたため、塚本君の車にはねられた。彼女も病院に運ばれているけれど、重傷らしい。とにかくとんでもない大事故になってしまったんだ。あってはならないことが起きてしまった」
西川は自分に言い聞かすように吐き出し、目の焦点がうつろな前田をそのままに、一気に続けた。
「前田君、落ち着いて聞くんだ。事故の形態からみて、塚本君はブレーキをかけずに車道をそれて、そのまま民家に突っ込んでいる。主婦をはねて、さらに家の壁に激突してやっと止まったんだ。医者からきいたところによると、こういうケースでまず考えられるのは睡眠時無呼吸症候群という症状らしい。睡眠時といいながら、寝ているときにだけ起こるものじゃない。起きているときも、意識が一時的になくなるんだ」
西川は一息ついて、ゴクリとつばを飲み込んだ。異常に汗をかき、顔もワイシャツもベットリ濡れていた。
「君は・・・」
西川はまた言葉を切った。息苦しそうに、話すテンポを落とし、一言一言噛み締めるように続けた。
「塚本君の症状を、これまで誰かに話したか」
静けさが二人の動きを固め、時間が止まった気がした。前田はゆっくり首を横に振った。そうするのが精一杯だった。これといった理由はないが、話した記憶はない。塚本や西川との会話を外の社員に聞かれていた可能性はあるが、そこまでは頭がまわらなかった。空気がゆるみ時間はまた流れ出した。西川の話すスピードがまた上がる。
「そうか、言ってないんだな。分かった。今は説明する時間がないが、今後も誰にも言ったらダメだ。絶対に。いいか、これは部長命令だ。近いうちに小野部長から説明がある。もうすぐ警察の聴取も始まる。私は『そんな症状を持っていたとは知らなかった』という立場で臨む。前田君にまで聴取があるかどうかは分からないが、警察を抜きにしても、今言ったことは変わらない。よろしく頼む。分かったな」
西川は必死だったが、前田はなぜ塚本がこんなことになってしまった直後につまらない口止めを強要されるのか、訳が分からなかった。塚本が亡くなっただけでも頭が混乱しているのに、なぜさらに理解に苦しむ事柄を押し込んでくるのか。
「すまんが僕は色々対応があるから課に帰る。今日はもう仕事はいい。こんなことになってしまって、それどころじゃないだろう。じゃあ、くれぐれもよろしく」
西川はそう言い残すと、廊下を早歩きで帰っていった。
西川の姿が見えなくなってから、前田は泣いた。泣いて泣いて、ハンカチがビショビショになってもまだ涙が出た。塚本、まだ二十九歳なのに。これからだった、もう一生、塚本に会えないのか。「ウゥゥ・・・」無意識のうちに嗚咽していた。無呼吸症候群だと?俺の言ったとおりじゃないか。なぜ病院に・・・病院に行かせてやらなかったのか。悔いても塚本が戻ってくるわけではない。だけれど悔いた。どれだけ悔いても悔いたりない。もっと強く言って病院に行かせるべきだった。くだらない甘さが塚本を死へ追いやってしまった。塚本だけではなく、ただ庭に出ていただけの主婦さえも、追いやろうとしている。こんなことになるなんて思わなかったんだ。だけれど、冷静に考えれば十分予想のついたことだと思う。ただ立ち止まって、じっくり考えなかっただけのことだ。日々の仕事に追われている振りをして、真剣に向き合ってこなかった自分の責任だ。毎日の仕事より、人の命のほうがよっぽど大切だというのに。
どれくらい廊下の端でうずくまっていいただろう。ふいに後ろから声をかけられた。
「前田さん」
消え入るような声に振り向くと、千夏だった。まだ目を真っ赤にして、右手にハンカチを握りしめている。
「なんだか課にいられなくて。前田さん、なかなか帰ってこないから、どうしたのかなと思って」
泣きはらしたあとの、かすれた声だった。
「あぁ、すまない」
前田は自分の声がまるで他人のように、別の方角から聞こえてくるような気がした。一呼吸してから続けた。
「会社に帰るまで、重体だと思っていたんだ。だから、まさか・・・」
その先を言えなかった。まさか死んでしまったなんて、思いたくもなかった。今にも廊下の向こう側から「あれっ、何やってるんですか、そんなところで二人して。怪しいっすねぇ」と笑いながら塚本が現れそうな気がする。そうしたら飛びついて抱きしめてやって、そのまま一歩も離れずに病院に連れて行ってやるのに。ほんの数時間前、いや今朝まではそれができたんだ、と思うと前田は狂いそうだった。
「あの、病院に行きませんか、市立東病院なんですって。課長には何も言ってないんですけど。なんか言ったら止められそうな気がして。だけど塚本さんがこんなことになってしまったなんて、信じられないし。どうしたらいいのか分からないんですけど、少しでもそばに居てあげたらと思って」
気丈でいようと言い聞かすような千夏の言葉に、前田もその通りだと思った。俺も塚本のそばに居てやりたい。
「うん、行こう。今日の仕事はもういいって課長も言ってたし」
前田は病院へ行くという基本的なことに気づかせてくれた千夏に感謝した。
「塚本さん、先輩として前田さんのことが一番好きだったから。いつも話してたんですよ、塚本さん、前田さんのこと」
そういうと千夏はまた目に涙を潤ませた。
会社から東病院へは車で二十分ほどの距離だが、前田は電車で行くことにした。今はとても安全に運転できそうにない。事故を起こす直前の塚本と自分を重ね合わせてしまって、かえって危険な気がした。千夏も同じ気持ちなのだろう。二人で何も言わず、駅へ向かって歩き出す。千夏がポツリとつぶやいた。
「塚本さん、無呼吸なんとかっていう病気だったんですって」
「あぁ」
「私、全然気づかなかった。先週も二人で昼ご飯、食べたのに」
「仕方ないよ、症状が出るのはたまになんだから、一緒にいても気づかないさ。でも、普通に生活していても急に意識がなくなるんだってな。さっき、課長から聞いたよ」
前田は、自分が以前から知っていたことを千夏に言えなかった。「絶対、誰にも言うな。部長命令だ」。西川の言葉が頭によみがえり、気分が悪かった。言えなかったのはそのせいではない、と無理やり自分に言い聞かせた。
「症状の自覚あったのかな、塚本さん。それなら私に言ってくれてもよかったのに」
「あぁ・・・そうだな」
やはりいくら自分に言い聞かせても、無理だった。本当のことを言えないのは西川の言葉にしばられているからだと、前田は認めざるを得なかった。
「私、今日の午前中は珍しく課にいたんですよ。だから、事故の一報が入ってからの課長の電話、ほとんど知ってるんです、聞き耳たててたから。でも課長ったらなんか変ですよ、部屋から出たり入ったりして。急に声を落として話したりするし。普通なら自分から率先して、みんなで病院に行ってやれ、とか言うのが筋なんじゃないですか。だって、仕事中の事故なんだから」
「そのとおりだね」
千夏の勝気な性格を心強く感じながら、前田はうなずいた。筋の通った千夏に比べて、たった一つの真実すら言えない自分は対照的すぎる。それにしても、西川は不審な行動を繰り返していたのか。思えば自分への対応も千夏にとっては変なのではないか。塚本の件を知らせるのに、なぜ外へ、しかも廊下の一番端まで連れて行く必要があったのか。千夏にとっては不思議に違いない。
「塚本さんのご両親って市内に住んでいるんですよね」
話の流れが少し変わり、前田は幾分ホッとした。これなら知っている限りのことを答えられる。
「うん。会社まで通える距離だから同居してもいいって両親には言われたみたいだけど、自由がきかなくなるのは嫌だって独り暮らしをしていたな」
「ほかに兄弟っていたのかしら。妹さんがいるように聞いたことがあるけど」
「妹と弟がいるはずだよ。塚本のヤツ、ああ見えてお兄ちゃんなんだよな」
千夏はまた地面に目を落として、黙ってしまった。前田にも千夏の気持ちが分かった。優しくて楽しい兄をこんな形で失って、どんなに辛いだろう。妹と弟の気持ちを思うといたたまれなかった。
「その二人はご両親と暮らしてるんですか」
千夏はうつむいたまま聞いた。
「たぶん妹さんのほうは一緒だと思う。まだ大学生なんだ。今年、就職活動だって塚本が言ってた。弟さんは実家に住んでいないと思う」
病院へ着いた前田と千夏は、受付の女性に塚本の名前を告げた。
「救急治療室です」
そう答えた女性は慣れた手つきで、前田らの前に置かれた院内の地図を指しながら、場所を説明した。
「廊下にも数ヶ所、これと同様の地図がありますので、ご覧になってください。もし迷われたら遠慮なく近くの職員に聞いてください」
女性の表情は引き締まり、言葉には一言の無駄もなかった。その丁寧さが、かえって事の深刻さを反映しているようで、前田は胸が痛んだ。二人は礼を言って救急治療室へ向かった。
視線の先に治療室が見えてくると、廊下に関係者らしき団体の集まる姿が見えた。そのうちの一人、小太りのスーツ姿が前田らを見つけると、ゆっくり近づいてきた。部長の小野だった。
「前田君、来たのか。ちょっといいか」
小野は不安げな目を向ける千夏から前田を引き離し、十メートルほど歩いて立ち止まった。
「今、ご遺族が中に入っておられる。お母さんと妹さんだ。親父さんと弟さんは今、こちらに向かっておられる。もうそろそろ着く時分だ」
「はい」
小野は表情を変えず、声を低くした。
「それでな、私もついさっき課長から聞いたんだが、君、知ってたんか。塚本君の症状のこと」
塚本が亡くなったことには一切ふれず、小野は切り出した。
「はい。塚本から聞いて、知ってました」
前田は緊張して、自然に言葉が事務的になった。
「そうか。で、塚本君にはなんて言ったんだ」
「病院に行くよう言いました。ですが、そんなに強くではなく軽い口調で、回数も聞いた当日と、会社で一、二回くらいです」
「うん、そもそも塚本からはいつ聞いたんだ」
「二ヶ月くらい前です」
「二ヶ月か。二ヶ月で忠告が数回」
そう言うと小野は少し考え込んだ。前田は涙一つみせずに淡々と経緯を聞きだす小野に腹が立ってきた。いつ聞いて何回話したか、今、それがそんなに大切なことなのか。塚本のそばにいてやり、とはいうものの亡くなってしまったのなら、せめて家族の悲しみを最大限軽くするのが同じ社に勤める者の責任ではないのか。小野は何か別の基準にしたがって物を考え、動いているようだった。やがて戦車の銃口がギギッと照準をあわすように小野はゆっくりと視線を動かし、前田の目を真っ直ぐ見た。
「単刀直入に言う。課長から聞いたと思うが、事前に塚本君の症状を知っていたことは誰にも言ったらイカン。何も知らなかったということで外の者とも話の調子をあわすようにしてくれ」
丁寧ながら小野の口調には有無を言わさない迫力があった。だが、前田には答えようがなかった。理由がよく分からないし、あまりに一方的だ。ただ、亡くなったばかりの塚本がまだ横になる救急治療室を前に、話すことじゃないのは確かだった。小野はそんな前田の思いに気づかないのか、ゆっくりと、子供に言い聞かすように言った。
「君の対応はまったく問題なかった。パーフェクトに近い。だけど責任というのは色んな角度から生じてくるものなんだ。新幹線の緊急停止があったことから、睡眠時無呼吸症候群の恐ろしさというのは今や世間の常識だ。我々、管理職としては、そんな症状を持つ人間に業務で車を運転させるというのは、絶対させてはならんことなんだ。これは分かるだろう」
前田は話の流れが見えてきて、かすかにうなずいた。
「だけど知らなかったら、運転させないという処置もとりようがない。本来は課長が止めるべきだったし、君も先輩なんだから運転させない義務があったといえなくもない。今、こんな話をするのは不適切だが、事前に把握していたのかいなかったのかというのは、今後の処理や補償交渉にも大きな影響があるんだ。金額なんかより、むしろウチのこれまで築きあげたブランドにだ」
そういうことか、と前田は心でため息をついた。会社のブランドなんかどうでもよかった。小野は一方的に続けた。
「こんなこと言っても仕方ないが、やはり自覚があったなら塚本が自分から病院に行くべきだったと、私は思う。しかも君や課長が忠告しているんだからな。だけど、そういう論理が通じない世界があるということを、よく理解しておいてくれ。君は悪くない。ベストを尽くした。だけれどこういう結果になってしまったということから逆算すると、結果論だが、不備があったと考える世界もある」
まわりくどい言い方だ。そんなに色々な「世界」ごとに、常識や善悪がころころと変わるのだろうか。
「幸いというと語弊があるが、このことを知っているのは君と課長と、そしてきょう課長からそれを知らされた私だけだ。おそらくだが。会社や警察も君のレベルから色々聴取するということはないだろうから、負担は少ないだろう。罪悪感を持っちゃいかんよ。繰り返し言うが、君の対応に問題はなかったし、会社での仕事も非常に評価されている。時間がたてば、この話題は自然に減ってくる。最初の一週間ほどは頭の隅に置いておいてほしいが、それだけだから。よろしく頼む」
そう言って小野はもう一度、前田の目をじっと見た。前田は面倒くさくなって思わずため息まじりに漏らした。
「はぁ」
「じゃ、頼んだぞ」
小野は説き伏せた手ごたえを感じたのだろうか、うなずきながら元居た場所に帰っていった。
小野と前田が話している間、千夏は廊下の長いすに座っていた。小野はその千夏の前を素通りし、一緒にいた男性二人のところへ戻った。前田の記憶によると、二人のうち一人は副頭取、もう一人も部長クラスの上役だ。三人を遠くに見ながら前田は重い足取りで、千夏の横へドスンと腰掛けた。千夏はイラつくように言った。
「なんかコソコソと変ですよ、課長じゃあるまいし。それになんで私は除け者なんですか。同じ課で働く同僚なのに。今も部長、私の前通ったのにまるで無視」
前田は隣に座る千夏に右手を小さくあげ、うなずきながら「分かっている」と合図した。
「何、話してたんですか」
千夏の疑問はもっともだった。前田はつぶやいた。
「ちょっと移動しようか」
小野が視野に入る場所で、話したくなかった。千夏の声は気がたっているからか、冷たい病院の廊下でよく通る。万が一にも小野に聞かれたら厄介だと思った。しかしもう少し場所や状況を考えろよと、前田は心中で小野に毒づいた。千夏に不審がるなという方が無理だった。
二人で長い廊下を数分歩き、耳鼻科の前の椅子に座った。午後の診察の開始を待つ親子連れやサラリーマンら数人が同じくらいの距離をあけて座り、くつろいでいる。
どれくらいだろうか、二人はしばらく黙っていた。どう切り出せばいいのか、前田は悩んだ。前かがみになって床を見つめる。先に口を開いたのは千夏だった。
「いいですよ、無理しなくて。すいません、なんか私、なんでも思ったこと言っちゃうタチだから」
「あぁっ、いや、そんな当然だよ。聞きたくなるのは」
千夏は首を横に振りながら言った。
「いえ、いいんです。気になっても聞かない配慮をしなくちゃいけないことってあります。私も大人だし。ただ、なんか前田さんだと聞きやすいんですよね、だから調子にのっちゃって」
「いいんだよ、それで。変な気使われないほうがありがたいんだ。よそよそしくなるの、嫌だし」
そしてまた、二人は黙った。ほどなくして静けさを破ったのは、今度は前田だった。
「もうちょっと待ってほしいんだ。泉さんには必ず話すよ。話さなくちゃいけないと思う。でもこう、なんとういうのか実に胸くそ悪い中身で、自分のなかでどう整理をつければいいのか、突然すぎてというのもあって、まだ分からないんだ。本当に会社組織っていうヤツはいやらしいよ。一人の人間であることを許さないんだからね」
「塚本さんのことですよね」
「うん」
二人の斜め前の椅子で若い母親と幼稚園の制服を着た男の子が、診察を待っていた。男の子は靴を脱いで椅子の上に仰向けになり、母親のひざに頭を乗せて甘えている。千夏は目を細めながらその母子を見ていた。
「なんとなく分かる気がします、話の中身。会社って、なにそれ?って論理で動くことありますもん。最初は変だと思うんだけど、だんだん慣れちゃうんですよね、人間って。私だって去年四月に入ってからはもう驚愕の連続。だけど同じことでも、なんか一年たったらあんまり驚かなくなっちゃうんですよね。そんなもんでしょ、みたいな。だけどそんなものの代わりに、なにか大切なものをものすごいスピードで失っていってるのかもしれませんね」
自分はまだ大切なものを持っているだろうか、と前田は自問自答せざるを得なかった。もしも失ってしまったとしたなら、今から取り戻せるものなのだろうか。
男の子は幼稚園の黄色いかばんから紙切れを取り出して、母親に読み上げている。自分で書いた今日の日記のようにみえた。
「うん、だけど、そんな空気に慣れちゃいけないよ、絶対。泉さんなら大丈夫」
「前田さんも大丈夫ですよ。普通の人なら私に、なんでもないの一言で済ませてるんじゃないかなぁ。そこらへんが、塚本さんも前田さんを慕っていた理由だと思います。なんかだいって私たち三人、仲良かったですもんね。塚本さんも前田さんも先輩だから、なんかこんな風に感じられる自分がちょっと不思議なんですけど、なんでも言えたし、敬語も全然意識しないで話してるし。この銀行にいてそんなことできるなんて、塚本さんと前田さんに対して以外、考えられないですよ」
玄関方面から若いスーツ姿の男性が猛烈なスピードで走ってきた。男性は前田と千夏の前を駆け抜けて、救急治療室のある方へ向かう。今にも泣き出しそうな悲しげな表情だった。男の子が驚いて飛び起き、男性の後ろ姿を見つめている。
「弟さんでしょうね」
千夏がつぶやいた。前田は迷わずにうなずいた。間違いなかった。ほんの一瞬だったが、塚本の面影が顔のつくりに見て取れた。
「まず部長が対応するんだろうな」
前田はポツリと言った。
◇
翌日から通夜や葬式が追い立てるように行われた。まるで塚本の死が予定されていたかのように滞りなく流れるように済まされ、あっという間に一週間が過ぎた。前田たちの課は塚本を完全に失ってしまったことについて、まだ現実のこととして受け入れられなかったものの、少しずつ以前の日常を取り戻していった。
塚本の机は中の物を家族が大切に持ち帰ったため空になってしまったが、これまでと同じ場所に置かれていた。上には千夏が新しいデジタルカメラを買ったときに撮った写真が飾られている。一ヶ月ほど前、営業から帰って机に座った塚本を、千夏が「ものを撮るより人を撮るほうが全然楽しいんですよねぇ。はい笑った笑った」と騒ぎながら撮った一枚だ。ネクタイを締めなおしポーズを決めながらも、表情は気を許せる相手が撮ったのだろうと推測できる、少し照れくさそうな笑顔だった。
葬式の翌日、西川は課員を前に、塚本の机を取り除いて室内のレイアウトを変更する考えを示したが、その場にいた皆が静まり返ってしまったため、すぐに撤回した。直後に千夏は前田に、やるせない憤りを吐き出した。「信じられない感覚ですよ、まだ一週間もたっていないのに。誰が動くもんですか、そんなレイアウト変更に。課長はなかったことにしたいんですよ。都合の悪いことは無かったことに。許せない。なんの解決にもならないじゃないですか」。
前田も塚本の机はそのままにしておいて欲しかった。だけれど、西川が自ら撤回せず、強行に推し進めたら何か言えただろうか、と自問した。西川に批判的なその場の空気に乗っかり「言えた」と思いたいが、ひょっとしたらそれでも言えないかもしれない。でも塚本の写真を見ながら考えなおした。いや絶対言ってみせる、言えないと自分が自分で無くなってしまう気がした。
事故から一週間が過ぎた日、前田は仕事を終えて午後九時ごろに会社から帰宅の途についた。事故があって以来、塚本の取引先に連絡して経緯を説明したり葬式に出席したりと慌ただしい日々が続き、疲れきっていた。だが、家で寝ようとすると眠れない。おかげで睡眠時間は大幅に減っていた。
「今日は眠れるといいけどな」
前田は独り言を言いながら駅へ向かった。そう言いながらもグ―グ―熟睡してしまったら塚本に申し訳ない気がする。
駅に着くと、前田は売店で夕刊を買った。一面にはどこかの市長が賄賂をもらって逮捕された、と大きく載っていた。同じような事件が、日本中でこれでもかと繰り返されている。時間通りにホームへ滑り込んできた電車はラッシュ時より空いていたが、座れるほどではなかった。扉にもたれかかりながら、前田は新聞をめくった。
その広告は芸能ページの左隅、「今月の舞台情報」のすぐ下にキャッシュカードほどの面積で載っていた。前田は思わず目を留めた。「組織が人を変えるメカニズム、ついに解析」と、大きく書かれている。ページ全体はモノクロだが、その広告だけは鮮やかな緑だった。そして赤字でこう書かれていた。「とりかえしのつかない失敗を繰り返さないため、あなたに必要なことを伝えます。自分を失わないために大切なことを、先人から学びましょう。是非、当方の講演会にお越しください。無料」。続けて場所と最寄り駅、日時が加えられている。
前田は目を疑った。最寄り駅はこの電車が次に止まる駅だった。しかも日時は今日の午後十時から十一時、とある。こんなことがあるのだろうか。偶然にしては出来すぎだ。だが、何度見直しても、講演会は今日の午後十時からと書かれていた。今から三十分後だ。次の駅へはあと一分もかからずに着くだろう。組織が人を変えるメカニズム、だと?そんなものがあるのなら、是非教えてもらいたいものだ。一方で、こんな夜遅くから始まる講演会があるのだろうか、という不審感もぬぐえかった。明日も朝から予定が詰まっている。
電車は次の駅に止まるためスピードを落とした。だが、と前田は考え直す。このまま家に帰ってしまってはなんだか後悔しそうな気がする。どうせ眠れないのだ。十一時に終わるのなら、まだ電車に乗って帰宅できる。窓の外の景色が夜の街から駅のホームへと変わった。電車はゆっくりと停止し、ドアがガタンッと音をたてて開く。心を決めた。前田は広告が上に見えるよう新聞を畳みなおし、ホームへ足を踏み出した。
前田にとっては初めて降りる駅だった。改札口を出ると本屋や花屋があったが、すでにシャッターが下りていた。ざっと見渡したところ、開いている店はコンビニエンスストアが1店だけだ。周囲は住宅街がほとんどの小さな駅らしい。新聞の広告には簡単な地図が書かれ、矢印が差された場所に「明日香ビル・6F」と書かれていた。地図によると駅を真っ直ぐ南へ、二つ目の信号を左へ、するとほどなくして右側にあるらしい。通りには裕福そうな一軒家が並んでいた。車道は片側二車線で広いが、車は滅多に通らない。午前三時かと思うほど静かだった。
初めての場所にも関わらず、前田は明日香ビルを簡単に見つけることができた。広い通りから一つ路地へ入ったところにあり、コンクリートをむき出しにしたようなネズミ色の建物だった。デザインから見て、最近建てられたものと予想される。両隣にはいずれも庭のある立派な邸宅が夜の闇にどっしり沈んでいた。年収二千万円はないと住めないだろう、と前田は思った。
手前の邸宅で、唯一明かりがともる二階のガラス窓に、大きなぬいぐるみが三体、こちらを向いて置かれているのが見えた。猫かウサギか、それともミッキーマウスか。暗くて判別できないが、外を向いているとなると、部屋の住人はぬいぐるみの背中しか見えないことになる。真ん中のぬいぐるみは服を着て、片手に何か光るものを持っていた。前田は目を凝らした。ランプだ。古い西洋のガス燈みたいな、重々しい感じのするランプが、点いているかいないか分からないほどの微かな光を発している。前田はなんともいえない違和感を感じた。風が少し強くなった気がした。
ビルの玄関の自動ドアはよく磨かれ、その前には膝の高さほどあるツルツル光った横長の石が置かれている。金の文字で「明日香ビル」と書かれていた。ガラスの向こうに見える一階ホールは照明が落とされて薄暗かったが、奥にあるエレベーター乗り場とそこへ行き着くまでの間の二ヵ所、計三ヵ所に天井から暖色系の淡いライトが照らされていた。人通りは全くなく、相変わらず静かだった。
雰囲気から察すると、すでに所定の時間を過ぎたため鍵がかけられているのではないかと思った。ただ、それ以前に、とてもこれから講演会が開かれるような感じではなかった。講演を告知する看板もないし第一、人がいない。
だが、前田が半信半疑で近づくと、自動ドアは待ってましたと言わんばかりにスッと両側へ開いた。前田は吸い込まれるようにドアをくぐり、エレベーターへ向けて歩いた。引き返すことも頭をよぎったが、体は迷わず前進を続けた。組織が人を変えるメカニズム、その言葉が予想以上に頭にひっかかっていた。
エレベーターの前に来て、前田は一瞬、戸惑った。表示は地下一階から六階まであるのだが、そのどれにもランプがついていない。節電機能なのだろうか、と思いながら上方向の矢印を押すと、五秒ほどたってランプが三階の表示に点灯した。故障ではないようだ。ゆっくりと一階まで降りてきたかと思うと、エレベータはそのまま地下一階へ降りていった。
「誰か乗ってくるのかな」
前田は少し不安になり、わざと声に出して言った。ビルの外に人気は全くなかったのだが、乗ってくるのは講演会の客なのだろうか。ならば前田がボタンを押すと同時に、地下の誰かもエレベーターを呼んだということになる。心臓の鼓動が早まる。地下からゆっくり上がってきた箱は、今度は要求どおり一階に停止した。ドアが開いた。中には誰もいなかった。隠れる場所はない。一目瞭然だ。誰もいない。前田は少しホッとしながら乗り込み、行き先階数を押そうとして、ビクッと手を止めた。すでに「六」のボタンにランプが点いていた。
誰かが地下にエレベーターを呼んで、前田のためにわざわざ「六」のボタンを押してくれたのだとしたら、そんな意味の分からない気の使い方はやめてもらいたいものだ。前田は感情を怒りの方向へ持っていくことで、不安を打ち消そうと試みた。
外から数えたらビルは五階建てだったが、内部で六階建ての構造になっているらしい。ドアが開くと目の前に案内用紙が張ってあった。「組織に殺されないために 講演会会場」と書かれ、左へと矢印が向けられている。表現が過激になっているな、と前田は感じた。本来の趣旨がこのトーンで、新聞広告では少し穏やかな風に装ったのだろうか。前田は体育会系のノリや普段から大声を出す人が苦手なので少し行く気が失せたが、ここまで来て帰るのは気が引けた。
左を見ると手前から三つ目の部屋の前だけ、表札の上あたりに防犯灯のようなポーチライトが灯っていた。腕時計は午後九時五十分を差している。ちょうどいい時間だ。小さな会議室のような場所で行われるのだろうか、と前田は思った。講演会といっても規模はピンからキリまでだ。一般的には体育館のような広い場所で行われるものを想像しがちだが、数としては小学校の教室のようなスペースで開かれることのほうがはるかに多いだろう。
「でも、なんか変だな」
前田はつぶやいた。目に入る風景がどこか変だ。見慣れていないものがある。
「あっ」
前田は理由が分かり、声をあげた。廊下がなだらかな上り坂になっているのだ。建ってまもないと思われる近代的なビルの廊下が、坂道なんてことがあるのだろうか。でも確かに上り坂だった。車椅子だとさぞ苦労するに違いない。窓からは月の光が差し込み、廊下に前田の影ができた。前田はなんとなく周囲を警戒しつつ「会場」までたどり着くと、扉にはまた張り紙があった。「組織とあなた 講演会会場」とある。前田は気にせずに扉を開けた。
まず目に飛び込んできたのは予想を裏切り、普通の玄関だった。会議室というよりマンションの住宅だ。三LDKほどで若い家族が暮らすような、そこが新聞広告にある「講演会会場」であるということを考慮しなければ、何の変哲もないファミリーの住まいの玄関だった。加えて「会場」に入ってまで誰も居ないということが変だった。家族が留守の自宅へ帰ってきた気分だ。部屋を間違ったかもしれないと思ったとき、奥のリビング方面からドスンと足音が聞こえた。
ドスンドスン、重量感のある大きな音が徐々に近づいてくる。太った人なのだろうか。足音と同時にピタッピタッと、風呂場でタイルを叩くような音もした。
音の主がノソッと姿を現したとき、前田は思わずのけぞって、一瞬で喉がカラカラになった。冗談のような光景が広がっている。現れたのは身長が前田と同じくらいあるペンギンだった。
◇
動物園や水族館で見るペンギンが前田の目の前にいた。しかしこんなに巨大なペンギンは見たことがにない。顔は黒く、とがった長いクチバシが前へ突き出ていた。黒い毛の中に、さらに真っ黒いカラスのような目が光る。首から足元まではフサフサの白い毛に覆われ、それだけで身長のざっと九割ほどを占めていた。首の下だけわずかに黄色い。黒い足はスキューバダイビングの足ヒレを分厚くしたようで、前田よりはるかに大きく恐竜のようだった。爪まで真っ黒でギラついている。動物園で見るイメージとはかけ離れていた。まるで可愛くない。獣のようだ。
「いやぁようこそ、前田さん。お待ちしていました。どうぞ中へ」
真っ黒な目をまばたきさせながら、ペンギンは当たり前のように話した。等身大の着ぐるみだと思いたかったが、上下に少しずつ動く首の様子だけを見ても生きた動物そのものだった。前田の真っ白になった頭はようやく「混乱」という二文字と共に回転し始めた。なぜこのペンギンはこんなに大きいのか、なぜビルの一室に放し飼いにされているのか、なぜ前田の名前を知っているのか、そして何よりもまず、なぜ話すのか。ペンギンは確かに話した。しかもその言葉遣いは丁寧だった。
「驚かれるのも無理ないと思いますが、とって食べたりしないのでご安心ください。どうぞ、奥のリビングの方が広いので」
そう言ってペンギンは薄っぺらい板のような腕で奥を指したかと思うと、ドスンドスンと前田に背を向けて、元来た方向へ戻っていった。体が右へ左へと揺れるたび、背中の下におまけのように付いている小さな尻尾がフローリングの床に触れたり離れたりした。
前田は右手で左手の甲をつねってみた。痛い。もっとも実際、夢の中でそれが夢かどうか体をつねって確かめたことはなかったから、こんなありふれた行動をとっている時点で、現実に違いないと思った。でも念のためもう一度、つねった。やはり痛かった。
手を後ろにまわしてノブに触れると、スッと下に動いた。逃げようと、いや帰ろうとしたら帰れる。ペンギンは突き当たりを右に曲がって、姿が見えなくなろうとしていた。帰るなら今しかない。だが、前田はノブから手を放した。このままでは分からないことが多すぎる。それに何より、このまま進むべきだという直感があった。根拠はないが、前田はこの直感に従うことにした。
靴を脱ごうと思ったが、玄関のくせに一足の靴も見えなかった。ペンギンの通った廊下には、うっすらと水滴も付いている。前田は土足で上がることにした。それにしてもペンギンめ、とって食べたりしないからだと?俺は魚か。前田は苦笑いした。
ペンギンの後を追って、突き当たりを右へ曲がるとすぐに扉があった。木の枠にすりガラスが埋められ、キッチンに通じるものと予想された。しかし、巨大なペンギンが出てきたくらいだから、何が登場するか分からない。ためらうといつまでたっても開けられそうになかったので、前田は廊下を歩いてきた勢いを保ったままノブに触れると一気にまわした。
中は予想どおりキッチンだった。左手にリビングがあり、昭和を思わせる丸いこげ茶色のちゃぶ台が一つ、無造作に置かれていた。上にはストローのささったオレンジジュースのグラスが三つ載っている。ペンギンはちゃぶ台の右側に立ち、前田を見ると左腕を少し上げて合図をした。首より上へは上がらないみたいだ。
奥にはスーツ姿の男性がうつむいて座っていた。手前に座布団が置かれ、ペンギンが腕でどうぞどうぞという風に指し示した。ここが前田の座る場所らしい。進もうとすると男性が顔をあげて、涙が出るのをこらえながら一生懸命に笑って声をかけてきた。
「前田さん、前田さん」
こらえきれないように泣き出した男性は、塚本だった。
「つ、つ、塚本?」
信じられないことの連続に、前田はまた体が凍った。塚本は死んでいなかったのか、それとも幽霊なのか。でも、目の前で涙を流し鼻水をたらす男は、間違いなく塚本だった。右手から落ちたビジネス鞄が床にドカッと落ちる音がした。
「塚本、塚本か」
次の瞬間、前田は夢中で駆け寄った。事故を起こす朝、前田に「ニンニク臭くないですか」と教えてくれたときと同じスーツだった。
「なんだよ、お前、死んでなかったのかよぉ」
そうとしか考えられず、前田は塚本を抱きしめた。温かかった。幸せだった。「驚かせやがってぇ」と言おうとしたが、言葉にならなかった。
「残念ながら、塚本君は亡くなっていますよ」
ペンギンの言葉が銃弾のように前田の頭を貫いた。また頭が混乱し始める。
「へ・・」
前田は塚本から手を離し、ペンギンを見返した。耳に聞こえた自分の声が間抜けだった。塚本は、まだヒックヒックと肩を震わせて泣いていた。どこから見ても塚本だった。前田は塚本の手を握り締めた。柔らかかった。
「この部屋では塚本君は生前のままですが、それはこの部屋の中だけです。また、この部屋に入れるのは後にも先にも前田さんだけです。前田さんは今、相当、実に相当まれな経験をしているということを、理解しておいてください」
ペンギンは細長いクチバシをカチカチ鳴らしながら、押し付けがましく説明した。ようやく泣きやもうとしている塚本が、途切れ途切れに付け加えた。
「僕にもよく分からないんですよ。なんだか、気が付いたら、こんな所に」
ペンギンは立ったまま腕をバタバタさせていた。腰が無いからちゃぶ台に座れないのだろうが、下から見上げる前田としては高層マンションのような圧迫感だった。ペンギンは首を下げて前田のほうを向き、クチバシを開いた。海水の臭いがした。
「あまりにも突然亡くなってしまうと、当たり前ですけれど悔いが残ります。もっとおいしいもの食べたかった、もっと恋愛したかった、とかいう一般的な欲望よりむしろ最後の別れを誰にも伝えられなかった、っていうね。たとえ人を殺した人間でも明日死ぬとなったら、誰かに何かを伝えたい気持ちになるもんです。あまりに突然の死で、何が最も悲惨かといえばやっぱりそこでしょうね」
ペンギンはそこまで言うとヨチヨチと二歩ほどバックし、首をググッと下げて器用にオレンジジュースを飲んだ。前田はじっと次の言葉を待った。
「そこで、志半ばにして理不尽な死に追いやられた人のなかからほんの少しの人だけが、生前の姿で最後のお別れができるという現象があるんです。ただ確率としては十年に一回、あるかないかほどなので、塚本君は相当運がいいです。人間、死んでからも運に左右されるんですから、本当に大変ですなぁ」
そう言ってペンギンはまた腕をバタバタと動かした。癖らしい。前田は気になって仕方のない疑問をぶつけてみた。
「あなたは一体、なんなんですか」
「私?私のことなんかどうでもいいですよ。気づいたらこういう役回りになっていたっていうだけです。あなただって気づいたら人間に、日本人に生まれていたんでしょう。それと同じことですよ」
「気づいたらペンギンに?」
「そういうこともありますよ」
ペンギンの表情は分からなかったが、ちょっとふてくされたようだった。前田は構わず質問を続けた。
「塚本とはいつまで一緒に居られるんですか」
「そんなに長くはないと思いますよ。私が決められるわけではないので、正確に何分っていうところまでは分かりませんけど」
ペンギンがそこまで言うと、塚本が割り込んできた。
「前田さん、本当にすいません。前田さんの言うとおり病院に行ってりゃよかったんです。全ては僕の責任なんで、絶対気にしないでください。前田さんのことだから、気にかけてるだろうって思って。課長と三人で飲んだときに思わず言ってしまったのは、事故を防ぐチャンスだったんですよね、なのに僕、あのときは余計なこと言っちゃったとか思って。本当に大馬鹿です」
前田は、正座して頭を下げる塚本の上体を両手で押し戻した。
「謝るなって、頼むから、な。そんなこと言うなって。だって俺は先輩なんだから、年の功ってのがあるだろう。無理やりにでも病院に行かすべきだったんだよ」
塚本は首を大きく左右に振った。
「違います。僕が勝手に無視して運転し続けたんですから」
そこまで言って塚本はハッと息を飲み、一瞬の間をあけ、慌てて続けた。
「そ、そうだ。けが人はいなかったんですか。僕、会社に帰ろうとして片側一車線の道を走ってて、急に意識が遠のいたんです。やばっと思ってブレーキを踏もうとしたんですけど、間に合わなくて視界が暗くなっていって・・。あとは耳にとてつもない衝撃音が残っているだけなんです」
前田は少しためらったが、ありのままを言うことにした。
「民家に突っ込んだんだよ。その民家の主婦がちょうど庭に出て洗濯物を干していて、巻き込まれた。だけど亡くなってはないから大丈夫だ。数ヶ所骨折したりして重傷みたいだけど、意識もあって快方に向かっているそうだ」
「そうですか。良かった、というか悪かったですよね、大怪我されたのなら。でも最悪の事態は免れたわけだ」
そうして二人は、ほぼ一緒にため息をついた。お前は死んでしまったんだから最悪の事態だろうが、と前田は思ったが口には出せなかった。ペンギンはじっとしていると落ち着かないんだろうか、両腕を大きく広げて深呼吸をするような仕草をみせる。塚本は相変わらず申し訳なさそうだった。
「会社はドタバタだったでしょうね、僕のせいで」
「ドタバタというかなんだか、訳の分からないことになってるよ」
前田は、事故後の西川や小野の対応を説明した。聞き終えると塚本は不思議そうな表情で頭をボリボリかいた。
「隠す必要ないのに、悪いのは僕なんですから。だけど、補償交渉とか会社のブランドとかいう話になると、また別の論理になってしまうんですかね」
「あぁ、全くおかしな話だよ」
そう言って前田はオレンジジュースを飲んだ。冷たくておいしかった。ストローでジュースを飲むなんて、とても久しぶりだ。
二人の会話が一段落したのをみはからって、ペンギンが再びクチバシを開いた。
「そこですよ。まさにそこ。話の途中で申し訳ないんですが、やっと本題に入ってきましたね。ちょっと前田さんにお聞きしますが、そもそもあなたはなんでここまで来たんでしたっけ?」
「なんでって・・・」
驚きの連続で吹き飛んでしまった記憶を頭の中でゆっくりと再生した。
「そうだ、新聞広告を見たからですよ」
前田は広告を見たのがはるか遠い昔の出来事のように感じた。ペンギンは何度もうなずいた。
「そう、その広告にはなんて書いてありました?」
「なにって、組織が人を変えるメカニズムが解析できた、みたいなことが書いてました」
「あなたはそれを見て、こんな遅い時間に、わざわざ初めての駅で降りた。ということはよっぽど今の会社組織に不満を持ってらっしゃるということですね」
前田は少し考えた。
「確かに不満は持っています。前から」
「不満だけ?」
「だけ、と言われると。どうかな。まぁ、会社に対しては不満と、あと自分に対しては、このままでいいのかという焦りを感じますけど」
ペンギンはそれを聞くとペタペタとリビングの中を歩き出した。真犯人を推理する探偵のようだ。
「前田さん、組織は人を変えると思いますか」
「思います」
前田は自分でも驚くほど即答できた。なぜだろう。ひょっとして、最近の自分がまさに変えられつつあるということを、無意識のうちに自覚していたからかもしれない。ペンギンは用意していたように言った。
「でも、組織って人間の集合体じゃないですか。ということは結局、人間が変えるんじゃないですか?」
「うーん、合っているような気もするし、そうじゃない気もします」
「あなたが変えたい人間っています?今の組織の中で」
前田の頭に、一人の男の顔が浮かんだ。
「いるとすれば、課長かな」
「はいはい、西川課長のことですね」
ペンギンは何でも知っているようだ。塚本は前田と目が合うと「そうだそうだ」というように大きくうなずいた。ペンギンは相変わらずリビングを行ったり来たりしながら、挑発するようにまた聞いた。
「西川課長のどんなところを変えたいですか」
こういう質問になら、前田はいくらでも答えられる。いつも感じている不満を披露すればいいだけのことだ。
「とにかく上ばかり見ているところかな。課長は上に言われると思考停止になって従うんですよ。自分の考えがまるでない。それに人を評価するとき、完全な減点方式だから腹が立つ。評価ってのは加点主義であるべきだと僕は思うんです。始めはみんな持ち点ゼロで、そこから何をしていくかで点数アップされていくべきでしょう。だけど課長の場合、全く逆で、始めに全員五十点持っているわけです。何もせずに前例踏襲を繰り返せばその点数を維持できる。今あるものを守ればいい、はみ出さないようすればいい、というスタンスなんです。超保守的とも言えるんじゃないかな。そういうところを変えたいですねぇ」
そう、上司への不満を挙げたらいつだってキリがないのだ。だけど最近はその不満が不満でおさまらず、不安につながっている気がする。歳を重ねてきたせいなのかもしれないが、これまでに無かったことなので、例えば全員スーツでいる部屋に自分だけTシャツでいるような居心地の悪さを感じているのだ。
塚本が前田の西川批判に同調した。
「そうそう。だけど最初から与えられているのは五十点だけなんで、どんなに頑張ってもそれ以上の点はとれないってわけなんです。西川はけちをつけて点を減らすだけ。部下が全員五十点以下なら、ついでに自分も安心できるって訳なんだ。本当に器の小さい男ですよ、まったく」
前田は段々、塚本が死んでいるということを忘れ始めていた。気の合う後輩と会って話せるということは、なんて楽しいことなんだろう。でも相手が生きているうちは、その貴重さに気づかないんだ。気づいても実感を伴ってとらえることができない。だから、病院に行くよう促そうと思っても「明日もあるし」などと先送りになってしまう。そんなことはもう二度と繰り返したくない。明日があるかどうかなんて、誰にも分からないのだ。
「うん、塚本の言うとおり。課長はまったく小さい。そして、そんな小さな男が上にいる一番の悪影響ってのは、組織から活力が奪われることです。新しいものは絶対に生まれない。上司ってのは部下を信用して任せて『自由にやってこい、責任は俺がとってやる』ぐらいな態度で送り出さないと」
前田は西川への不満を一通りまくし立てると、少し胸がスッとした。ペンギンは威勢のいい西川論を聞き終えると、ペタペタとリビングを歩いていた向きを前田のほうに変えて、ズンズン近づいて来た。真っ黒な足元は、いつまでもうっすら濡れている。前田の目と鼻の先まで来るとブルルッと頭を左右に振った。水から上がったときのような仕草だ。
「言いますねぇ、前田さん。まるで課長より偉い人のようだ。ご立派ご立派。でもねぇ、自分が逆の立場なら、果たしてそんなに格好良くできますかね」
西川への不満をこれだけ展開した以上、いくら相手がペンギンとはいえ「できません」とは言えない。
「格好良くというか、普通でしょう」
「うん、普通だとしてもですよ。普通のことが前田さん、あなたならできますかね」
ペンギンの表情はよく分からないが、口調から察するとニヤニヤしていることがうかがえた。前田は挑発されているようで少し頭にきたが、なるべく冷静を装った。
「そりゃできますよ。それくらい。やる気がある優秀な人材をどんどん引き上げる、上司に言われても思考停止にならずに考えるってことでしょ。当たり前じゃないですか、そんなこと」
「じゃあやって来てください。今から。考えるだけじゃダメですよ、行動を伴わないと誰も気づかないですから」
「はぁ、今から・・・?」
頭が白い煙のように疑問符で占められるのはこの夜、何回目のことだろう。前田は驚くことに段々慣れてきた自分に気づいた。分からなければ聞けばいいのだ。
「やるって何をです?」
今夜は塚本に会えただけで十分だった。ベラベラ話す巨大なペンギンに好き放題言われ、一週間前に亡くなった後輩と再会し、このうえ一体何をやらされるというのか。ペンギンはまた腕を大きく広げて、数回ばたつかせた。突然やられたので前田は思わずのけぞった。白い羽が何枚か、ひらひらと宙を舞っている。
「いや失礼、定期的に体の色んなところを動かさないと落ち着かないんです。ペンギンの習性なもんで、いやひょっとしたら私の性格かもしれない」
前田は黙って、できる限り冷たい視線をペンギンに送った。
「おっと、何をやるかって話ですよね。まぁそんなに怖い顔をしなさんな。あなたは今日、組織が人間を変えるメカニズムを学びにここへ来た。その手法が実は講演会ではなくて、実地研修だったってことです。具体的に言うとあなたが西川課長を変えられるか、実際に二十年間という時をさかのぼって実行してきて下さいってことです」
前田は確認するように、口に出してみた。
「二十年間、さかのぼる?」
映画やテレビでよくあるタイムスリップというやつか。いや参った。とてもにわかには信じられない。
だが、考えれば考えるほど、信じるべき事柄のような気がする。すでにペンギンと塚本という非常識なファンタジーが目の前で展開されているのだから、ここは真剣に受け止めるべきだろう。郷に入れば郷に従えという言葉を使うのが適切かどうかは分からないが、この空間を最も把握しているのがペンギンだということだけは確実だ。そのペンギンが補足した。
「二十年前というのは西川課長が入行し一年ほど経った時期です。あなたが乗り移るのは西川課長の上司で井村英彦という男です。最初はちょっと体がなじまないかもしれませんが、すぐ慣れます。期間は一週間です」
「乗り移る?」
タイムスリップだけでなく、他人に乗り移るという現象も体験するのか。実体のない悪霊か、俺は。もう好きにしてくれ、と前田はやけっぱちな気分になった。拒否する気力も湧かない。一方、井村という名前についてはどこかで聞いたことのある気がしたが、すぐには思い出せなかった。ペンギンの口調が早くなる。
「あっ、時間が無くなってきました、前田さん。心の準備をしてください。今からとても大切なことを言います。あなたが井村として行動したこと、言ったことは全て現実に反映されます。前田さんが映画館で二回見たバック・トゥ・ザ・フューチャーでは、未来が変わるから過去の人に会ったらいけないというルールがありましたね。ですが、今回の前田さんは別です。前田さんは井村として動くので、井村の行動は当然のことながら色々な人に影響を与えます。それは別に井村が特別に影響力のある人物だからというわけではなく、人はみんなたとえ少しずつでも互いに影響しあって生きている、という意味においてです。だから今現在も場合によっちゃ変わります。小さくも、ひょっとしたら大きくも」
前田は急に眠くなってきた。最近、忙しい日々が続いていたからだろうか。しかしなぜペンギンは俺がバック・トゥ・ザ・フューチャーを映画館で二回続けて見たことを知っているんだろう。今のように完全入れ替え制じゃなかったからなぁ。あのときは尻がずいぶん痛くなったもんだ。視界が段々暗くなる。塚本の症状も、こんな感じだったのだろうか。
「前田さん、現実だということを絶対に忘れないでください。前田さん次第なんですよ。一週間ですからね」
ペンギンは怒鳴っているようだが、どんどん耳から遠く小さくなっていった。
「しまったなぁ、予想以上に早いやコリャ。なんせ後にも先にもコレッきりだからなぁ、時間移動までする人は。感覚つかみ損ねちまった」
ペンギンのぼやきを最後に聞きながら、前田の意識は完全に無くなった。