23.失望と希望
ついに明日で試用期間が終わる。だからといって何かあるわけでもない。
美香は面倒になってベッドに後ろから倒れ込んだ。今日は空は曇っていて月明かりもほとんどない。
いつまでこんな生活を続ければいいんだろう?
アルヴィンには嫌がられて、ヤングにはなんか罵倒されるし、僕を拉致した張本人の王様も何もしてこない。マリーとアイリーンは優しくしてくれるけど、ずっと暇な僕と違って二人は忙しい。
はぁ……元の世界に戻りたい。
目を擦りながら電車に乗って、友だちと騒いで、授業は寝て、帰ってゲームしてネットしてアニメ観て。
確かに退屈だった。つまらなかった。
でもそれが最高の毎日だったんだって、今なら分かる。
異世界に転生してチートになってハーレム作ってなんてラノベに憧れたりもしたけど、あんなものはファンタジーだからこそおもしろいのだ。
ブルーな気分になると、いつもエリックに会いたくなる。
英里兄さんとは見た目は別人だけど、空気というか、雰囲気というかが恋しい。それに変わらないところもある。説明するときに眼鏡をいちいち上げる癖とか、本を読み出すと止まらないところとか。そんなしょうもないことが懐かしい。
トントン。
ドアがノックされた。
こんな時間になんて、珍しい。もしかしてーーと思いつつ美香はドアを開けた。
「はーい……って、エリック!」
「暇にしていましたか?」
「うっ、うん!入って入って!」
噂をすればなんとやら。
エリックは前回と同じように白衣のまま、ランタン片手に美香の部屋を訪れた。
「今日は少し話があって来たんです」
「はなし?」
エリックは美香の隣に腰を下ろしながら美香を覗き込むようにして話しかけた。
「ええ、大切な話です」
エリックが真面目な顔をするので、美香もつられてしゃんと背を伸ばす。側に置かれたランタンがぼうっと二人を照らした。
「……っと、その前にひとつ確認しておきたいことがあります」
「なに?」
肩透かしを食らったようで気が抜ける。だがエリックの表情は固いままで、気楽にもなれない。
「ミカエルはクラスメイトの名前は覚えてますか?」
「クラスメイト?学校の?」
「はい。高校のです」
「えっと……小林、加藤、尾崎、金子、とか?」
エリックの確認の意図が分からず戸惑いながらも、友人たちの名前を思い出していく。連想ゲーム式にぽんぽんと名前が出てきたが、エリックの表情は変わらない。
「では、左の席は誰でしたか?」
「……下西」
思い出すのにずいぶんと時間がかかって、ようやく捻り出した感じだった。頭が痛くなってくる。思い出そうとすればするほど、耳鳴りが酷くなる。
「では、右の席は?」
「……分からない」
頭痛が最高潮に達し、もう耐えられなくなって僕はギブアップした。教室の様子を思い浮かべても曖昧で、二学期の間ずっと隣の席だった奴の名前も思い出せない。
「やはりそうですか。……一応聞いておきますが、長期休暇を挟んでも隣の生徒が誰だったか忘れるなんてことは今までありませんでしたよね?」
美香はこくんと頷く。おかしい、おかしい。まだこっちの世界に来てから、せいぜい十日しか経ってない。二週間前には、そいつとも毎日顔を合わせていたはずなのに。前の席は?後ろは?担任は?塾の奴は?近所の人は?
ーーわからない。わからない。
「ミカエルもそうなら、私の思い違いではないようですね。どうやら私たちにはかなりの記憶制限がかけられているようなのです。日に日に元の世界の記憶が薄れ、思い出そうとすれば苦痛になるはずです」
美香はハッとした。なら今は思い出せるクラスメイトも、家族の記憶さえもいつかは薄れてなくなってしまうのか?
「……早く元の世界に戻らなきゃ」
そうじゃないと、僕が僕でなくなってしまう。そんな気さえした。
「本題に入りましょう。今の話とも少し関連があるのですが」
美香は今の絶望感を引きずったままエリックの方を向く。
「異世界に、帰れるかもしれません」
「え……え!?」
耳を疑った。自然と前のめりになってエリックに詰め寄る。一筋の希望が指したような気分になった。
「静かにしてください。興奮するのも分かりますが、誰かに気取られては困ります」
「あっ、うん、そうだよね。それでどういうことなの?」
美香は声を出来るだけ抑えながら、期待と不安を抱いて問いただした。帰れるかもしれないという期待と、不意の幸運による不安。あるいは危険信号。でもそんな不安はすぐに高揚感で消し飛んでしまっていた。
「実は異世界のことを研究している知り合いがいまして、何か帰れる方法がないか探ってもらっていたんですが、今日彼から返事が返ってきたんです」
美香は夢中でこくこくと頷く。
「どうやら王がこじ開けた魔門がまだ微かに残っているらしく、その歪みを利用すればまだ戻ることが可能だそうです」
「じゃ、じゃあそこに行けばーー」
「落ち着いてください、まだ条件があります。彼の魔術が必要ですから、まず彼と会わなければいけません。もうひとつ、この世界のものを体内に残さないでおいてください。服は構いませんが、食事はとらないでください」
「今からで大丈夫?」
「ええ、十時間程度空ければ問題ありません。念のため睡眠も取らない方がいいかもしれません。彼が言うには、魔門が残っているのは明後日の宵までだそうです。それまでに決断をしてください」
「うん、わかった」
美香に迷いはなかった。
マリーやアイリーンと会えなくなるのは悲しいが、それ以上にアルヴィンと離れられ、なにより家族と再会出来るのだから、躊躇う理由などなかった。
明日マリーとアイリーンにだけ告げて、魔門が閉じる前に早く彼の元に向かおう。
「これが彼の家への地図です。彼には私の名前を言えば通してもらえる手筈になっていますから、後は彼の指示に従ってください」
「その、やっぱり……」
「何か質問ですか?」
先ほどまでの興奮した様子は息を潜め、美香は寂しそうに俯き、言葉を詰まらせた。
「エリックは来ないの……?」
「残念ながら、一人を転移させるのが精一杯らしいです。元々私はこちらの人間ですしね」
「そ、そうだよね……ごめん」
パンゲアで過ごした十日間ずっと支えてくれたエリックは、美香の中で家族以上に大きな存在になっていた。エリックがいたから今も自棄を起こさずにいられる。
そのエリックと離れ離れになるのは不安で心細くて、そして寂しかった。
「そんな顔をするなよ、美香」
エリックがーーいや、英里兄さんがぽんぽんと僕の頭を撫でた。僕が落ち込んでいるときにいつも慰めてくれた兄さんの手だった。
不意に涙が溢れてくる。
「ほら、泣くなって。母さんにも父さんにも、咲にも会えるんだから、俺のことなんて気にすんな」
「うっ、ううっ……でもっ……!」
兄さんは僕の頬に伝った涙をそっと拭って、満面の笑みを見せてくれた。
「みんなによろしくな。美香も元気でな」
「うん、うん……!」
兄さんはそう言って立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。
僕はその背中を見て、また泣き出してしまった。そして同時に決意した。絶対に帰って皆と会おう、と。
*
真っ暗な研究室で、男が一人、ぽつぽつと独り言を漏らしていた。部屋の他には誰にもいない。しかしその独り言は明確な話し相手を捉えているようにも聞こえる。
「リカード、調子はどうですか」
男がそう言うと、男の脳内に、自分以外の男の声が響いた。少し高めの、まだ幼さの残ったメゾソプラノ。
『順調です、エリック様』
「よろしい。明日の朝から例の計画が始まります。厳重、警戒しておいてください」
『了解致しました』
「では、頼みました」
『はい』
「美香……君ももうすぐ私の物です……クフフッ」
男は不気味な笑みを浮かべながら、研究室を後にした。




