1.異世界転生
「起きなさい、ミカエル!」
「ひゃいっ!?」
その声で佐藤美香は飛び起きた。
目の前では見見知らぬ男が、自分に鋭い眼光を向けていた。ずいぶんと憤激のご様子である。
「はあ、やっと起きましたか。遅い、遅すぎます!君はあちらの世界でも寝起きが悪かったですが、こちらでも相変わらずですね!」
男は美香に向かって早口でまくしたてる。しかし当の美香はぽけーっとした顔で男を眺めていた。
「ミカエル、聞いているんですか!」
「……ここはどこですか?」
しばらくの放心状態から帰還した美香は、いまだ夢うつつなままなんとか状況把握に努めることにした。
目の前にはいきなり説教を始めた白衣の男。その背景には木々が生い茂っており、まさに森の最奥地といった風情だ。自分はそこに寝転がされており、背中には葉っぱがちくちくと刺さって痒痛い。
そして美香は一つの結論を得た。
……攫われた?
その発想に至って、がばっと身を起こした。何か違和感があるが、気にしているではない。逃げなくては。
しかし男の腰に添えられた鞘が目に入って、美香の動きはピタリと止まった。ナイフか……?
「ああ、大丈夫です、君に危害を加えるつもりはありません。ここはおそらくパンゲア大陸の東端の山森でしょう。予定では王宮内に転移するはずだったんですが……。まあ、それはいいです」
「ぱんげあたいりく?」
美香はナイフにビビりながら、引っかかった単語を復唱した。それはほとんど脊髄反射的にしたまでだった。
「ああ、そこから説明しないといけないんでしたね」
しかし男は一人納得して頷き、眼鏡をくいと上げて、得意顔でーー見方にもよれば下卑た笑みでーー言葉を続けた。
「ここは君が今まで生きてきた世界ではありません。君にとっては、俗な言い方をすれば異世界ーー魔術と武術の世界です」
かろうじて動きかけていた美香の思考は、その言葉でまたスリープモードに逆戻りした。
……なんだ、夢か。
そう判断した美香は突如余裕ができた。
夢なら何でもありだ。ナイフを添えてるのだって普通普通。魔術だろうが武術だろうか何でも来い。
最近見ていたアニメの影響かもしれない、こんなファンタジーな夢を見るなんて。でもどうせならこんな変な白衣眼鏡野郎じゃなくて美少女にお迎えいただきたかった。
なんて考えが出来るくらいには余裕が生まれていた。
「……もう少し驚くとかないのですか?あちらの世界ではそれこそ漫画やアニメの世界ですよ?」
「別に、なんとも」
所詮夢だし。覚めたらまた日常に戻るだけだ。
男は美香の思考回路が理解できず、おもしろくなかった。普通の男子高校生なら興奮して叫ぶなりするものじゃないのか。
そのため、少しだけ追い討ちをかけてみることにした。
「そうですか……では、君のその身体を見ても?」
「え?」
男が意味ありげな視線を送ってくるので、美香もつられて自分の身体に視線を向けた。
すると……。
「……はい?」
美香の視界には、見慣れたひょろひょろもやしのような胸板ではなく、豊満な二つの山が映っていた。シャツごしにも分かる立派なそれに触れてみると、それは確かな柔らかさと弾力感をもっていた。そして同時に自分が触られている感覚もある。
まさかと思い美香は太腿を閉じてみる。そして案の定アレの感触がないのを確認し、念のためそこに手を伸ばしてみたが、やはりアレはない。
「……女になってる?」
そう言われてみれば、声も変な感じだ。
確かに美香は昔から女のような名前で散々からかわれ、逞しさの欠片もないもやし野郎だったが、それでも確かに男だった。昨晩も自室でナニを済ませたのだから、間違いない。
……ほんと何でもありだな、夢。
そう思考を帰着させ男を仰ぎ見ると、男は満足そうに頷いた。
「驚いたでしょう?それがこの世界の力です」
興奮気味に語る男に、美香はあくまで冷ややかな視線を浴びせた。
なんだこの変態白衣。まさか自分が夢の中で女になるとは思わなかったが、たかが夢だろう。
悲しいかな童貞の妄想である。
「とにかく少し落ち着ける場所に移動しましょうか。ここでは話しづらいでしょうから」
美香は男を訝しがりつつ、だが従順についていきながら、自分の身体以外にも多少の違和感を抱いていた。
少しリアルすぎないか、と。
夢なんて普通は何も考えずに知らぬ間に、支離滅裂な出来事が起こるだけだ。そのはずなのに今は、この男の素性が分からないとは言え、言動全てが理路整然としている。森特有の木と土が混ざったような匂いも、大きな胸に肩が引っ張られるような感覚も、あまりにリアルすぎる。
万が一、もしーーと考えが至ったところで、言い知れない恐怖を感じて、美香は強引にその発想を引っぺがした。
……こんなの夢に決まってるじゃないか。
「適当に、その辺に座ってください」
男が足を止めたのはほんの少しだけ開けた場所だった。しかし当然椅子などあるはずもなく、美香と男は地面に腰を下ろす。
「ではこの世界について説明致します、ミカエルさん」
「……ミカエル?」
美香はその聞きなれない名前に顔をしかめた。そういえば、最初に起こされるときもそんな名前を呼んでいたような気もするが。
「君のこの世界での名前ですよ。王が与えてくださいました。美香だからミカエル、単純でしょう?」
センスなさすぎだろ、と思い微妙な表情になる。ていうかミカのままじゃだめだったのかよ。
「ああそうだ、申し遅れました。私の名前はエリック。あちらの世界では佐藤英里と名乗っていました」
「は?」
その名前を聞いて美香は目を見張った。その名前は聞き覚えのあり、しかもおそらく最も近しい人のものだったからだ。
しかし今、目の前にいる男とは似ても似つかない。
「……英里兄さん?」
「そうです。君の兄ということになっていました」
「本当に?」
「ええ、本当です。いやーー」
そこで男は一旦口を閉じ、何かを切り替えるように目を閉じた。そしてパッと目を開いて、朗らかに笑った。
「ああ、本当だよ。一昨日数学の宿題教えてやったのも、昨日ハンバーグを作ってやったのも俺だっただろ?」
「ーー!」
美香は悪寒がした。
その仕草、喋り方、雰囲気、全てが美香の知る英里兄さんと全く同じだったから。直感的にエリックが英里兄さんと同一人物なのだと理解すると同時に、見た目は一切変わらないにも関わらず気配が一瞬で変貌したことに、底知れぬ恐れを抱いた。
「信じていただけましたか?」
美香はハッとする。瞬時にエリックはエリックに戻っていた。
「私はもともとパンゲアの人間でした。しかしある日、私は王に君の監視をするように仰せつかりました。それから私は君のいた世界に転移し、佐藤美香の兄、佐藤英里として君を監視していたのです。ところが一ヶ月ほど前、王の命令で急遽パンゲアに帰ってくることになり、今日それが施行されたということです」
エリックはまるで小さな子どもに絵本を読み聞かせるように、つらつらと語った。美香はそれを黙って聞いていた。しかし内容の半分も理解することはできなかった。
ただはっきりと、本能的に理解してしまったことがあった。
この身体の全神経が、五感全てが美香に訴えかけてくる。
これは、夢などではない。
現実なのだ、と。
「……なんで僕なんだ?」
「それは私にも伝えられていないので、分かりません」
「っ!」
美香は思わず殴りかかった。
いや、殴りかかろうとした。
実際には、その気配を察知したエリックは美香の右手を瞬時に掴み、右方へ投げ飛ばしたのだ。美香は何の抵抗もできずに宙を舞い、鈍い音を立てて地面に激突した。
「あまり女性に手荒な真似はしたくないのですが」
エリックは顔色ひとつ変えず、美香に近づいていく。美香はその姿に再び恐怖を覚え、腰に添えられているナイフの柄を握るを見てさっと頭が冷めた。
やっと状況を飲み込めたのかと、震えながらも大人しくなった美香を見て、エリックはほくそ笑んだ。
「……なんで女になってるんだ?」
「私にも分かりません」
その答えは美香の予想の範囲であったため、再び頭に血がのぼることはなかった。
冷静になって考えてみれば、エリックはこの状況で唯一の頼みなのだ。こちらが抵抗しなければ危害は加えられなかったし、話も通じる。情報もくれる。エリックの素性は分からないが、英里兄さんでもあるのだから、赤の他人というわけでもない。
何よりーー話を聞く限りエリックは何もしていない。エリックに飛び掛かっても意味はない。
そう無理矢理自分を落ち着かせ、再び腰を落ち着けた。
「なんにせよ、転移、性転換という魔力と私という人件費がかかっているのですから、あなたが王、ひいては白の国の重要な存在であることは確かでしょう」
「白の国?」
「ああ、それもお話ししないといけませんね」
エリックは手身近な枝を手に取り、地面に平べったい"く"のようなかたちをした図を描いた。
「これがパンゲアの地図です。北の方に青の国、西の方に赤の国、南の方に緑の国があります」
そう言いながらその図に境界線を引いていく。大陸が四分割され、残る一つを指し示した。
「そして東にあるのが、我らが白の国です」
まるでゲームの世界だな、と他人事のように感心する。陣取りでも始まりそうだ。
ついでエリックは"く"の右上のあたりを丸で囲った。
「我々がいるのはおそらくこの辺りでしょう。青の国の領土か白の国の領土かは分かりませんが、すぐに見つけて救助が来るでしょう」
救助が来る、の聞いて美香はひとまずほっとした。が、すぐに不安も覚えた。
「その救助は信頼できるの?」
自分を無理矢理この世界に連れてきた奴らである。粗悪に扱われても何ら不思議ではない。エリックもナイフを常備していることからも、きっと日本のように平和ではないのだろう。
それに、今はこんな女の身体だ。
そういうことをされる可能性も……と考えるとぞっとする。
それを白の国の従者であるエリックに聞いて信憑性があるのかどうかは微妙であるが、英里兄さんに聞いていると思えば少しは信用できた。
「信頼できる……かと問われれば、信頼はできません」
「……そう」
「しかしおそらく手荒には扱われないでしょう。先程も言った通り、君が重要人物であることは確実です。まずは手篭めにするところから始めるはずです。きっと表面上の待遇だけは良いと思っていいでしょう、が……」
エリックはそこで一旦言葉を区切った。
美香も唾をごくりと飲み込む。
「忘れないでください。白の国は君をいわば拉致し、利用しようとしているだけなのだと。上っ面だけの振る舞いに、決して騙されないでください」
「……エリックはなんでそんなこと教えてくれるの?」
「私はあくまで白の臣下です。ですが……この世界を何も知らない君がーー美香が、心配なんだよ」
一瞬だけ淡く微笑んだエリックは、心配性な英里兄さんそのものだった。それだけで、美香はエリックの言葉を信用する気になれた。
「……ありがとう」
美香は少し照れて俯いた。
しかしそのせいで。
エリックがニヤリと笑うことに、気づくことはできなかった。