No one is alone.
Twitterで140字SSとして連載していたものに、加筆しまとめたものです。
青年兵士と少女が手をつないで歩いている。
兵士は背中に銃を背負い、残り少ない食料を腰に下げている。少女は兵士のヘルメットをかぶり、空になってしまった水筒を肩からぶらさげている。二人は言葉を交わさない。お互いの言葉が異なっているために、言葉による会話が成り立たないからだ。二人は言葉だけでなく、肌や瞳の色も異なっていた。それでも二人は手をつないで歩き続けた。
日陰のない渇いた土の上を歩き続けていくと、いくつかの建物と瓦礫が見え、その間を縫うように流れてきた風が通っていった。かつて街だったと思われるそこは、砂埃と乾燥した空気で満たされているだけで、青い空がいっぱいに広がっているのにとても寂しい所だった。水を探して歩いていると疲れきった少女の手から力が抜けた。足取りが重くなった少女の目線に合わせるように兵士はしゃがみ、心配そうに少女の顔に付いた砂と汗を袖で拭き取ると、その小さな体を抱き上げた。脱水症状を起こしかけた少女の背を励ますように撫でてやり、その細い腕を自分の首に回すように兵士は導くと、再び歩きだした。
歩いても歩いても飲めるような水はどこにもなかった。抱きかかえられながらも心配そうに辺りをきょろきょろと見渡していた少女は、降ろしてと言うように兵士の肩を叩いた。兵士はそんな少女に笑いかけ、砂埃でごわついた少女の頭を撫でると、降ろすことなく、また歩き続けた。あては、もうない。それでも歩くしかないのだ。兵士は出来るだけ日陰を選び、街の外へ向かった。
二人は言葉が通じないけれど、ずっと手を繋いで歩いてきた。理由は覚えていない。特になかったような気もする。忘れてしまっただけかもしれない。今になってしまえば、もうそんなことは些細なことでしかない。何処かの戦場だった場所で出会ってから、二人は何かから逃れるように、廃ビルの中を、湿った地下を、風が強い丘を、歩き続けた。兵士の持つ銃はもう長い間使われる事がなく、錆び付いていた。兵士の着ている草臥れたその服装だけが、兵士が兵士であることを示している。その服を脱ぎ捨て、シャツでも着れば、彼はただの青年でしかない。そんな小さな違いが青年を兵士にしていた。もっとも、兵士と少女の二人にとっては銃も服装も、どうでもいい意識の外にあるものに過ぎない。
青空が広がっているだけで誰もいないと思っていた荒涼とした街に銃声と、その一瞬あとに何かの爆発音が響いた。兵士は慎重に辺りを見渡してから、一番近くの民家の中に抱き上げていた少女を隠すように降ろした。
人差し指を口元に当てて「静かに」と少女に伝える。
兵士が民家を出て周囲を見渡すと、そこは相変わらず何もなかったが再び遠くから銃声が聞こえた。距離はまだある。兵士は一度少女の元へ戻り、震えていたその体を抱きしめた。
「大丈夫だよ」
伝わらないけれども、唇をしっかり動かして少女に語りかける。兵士は少女の手をとって裏手の窓から外へ出た。
何かに追われているような焦燥感が二人を襲う。
まだ見ぬ相手は敵なのか味方なのかも分からない。もう、全てから逃げるように歩き続けてきた二人にとっては、お互い以外、全部敵なのかもしれない。つながれた二人の手の間に小さな世界がある。
街の外を目指している途中、突然近い場所から男の叫び声が聞こえた。兵士は走るのを止め、自分の体で少女を隠すように空き家の壁に身を寄せた。必死に命乞いをするその声は兵士の国の言葉だった。身を隠した家の陰から兵士は男の様子を探る。男は、銃を向けられていた。
兵士と同じ言葉を話す男に銃を向けているのは、浅黒い肌の屈強な軍人だった。男は叫ぶ。兵士のよく知る言葉で「やめてくれ!」と何度も叫んでいた。両手を上げて、腰を抜かし、顔面は蒼白している。武器は持っていないようだ。対峙する軍人は、泣いていた。兵士はその光景に一瞬、世界が遠くなっていく感覚を覚えた。何が現実か判然としない、不思議な感覚だった。
兵士が唾を飲み込んだその瞬間に、パンッという音が渇いた空気に響いた。兵士の背中で少女が体をびくつかせ、勢いよく息を吸い込むような声を漏らす。兵士は少女をかばうように、さらに身を寄せた。
「 」
少女は何かを言った。その時、少女の肩から下げられていた空の水筒が、空き家の壁にぶつかった。
ガンッともジンッともつかない空っぽの音が鳴った瞬間、兵士は少女を抱き上げて空家の奥に続く細道に向かって走り出した。勢いよく抱え込まれた少女は、振り下ろされないようにと兵士の肩にしがみつく。小さな手は震えていた。あの軍人がこちらに気付いたかは分からない。しかし、兵士の体は思考をする前に動き出していた。
「 !」
兵士の知らない言葉で軍人が何かを言った。兵士は走り続ける。細道の奥は瓦礫が散乱する広場だった。隅の方に置かれた風化した遊具が、広場がかつては子どもたちの遊び場だった事を伝えている。細道から街の外に抜けようとしたのだが、高いビルが崩壊したためにできたと思われる瓦礫群が道を閉ざしていた。兵士は瓦礫の上を進み、瓦礫と崩れた壁の間に身を潜めた。
瓦礫とコンクリートの建物の隙間から小さな空が見えた。兵士は長い間使われることのなかった銃を持った。錆び付いたそれは兵士があちこちに触れるたびにガチンと派手な音を鳴らした。壁を背にした兵士の膝の間に収まるように、少女は身を縮めていた。
足音が聞こえた。壁からほんの少しだけ顔を覗かせた兵士の頬を銃弾がかすめ、赤い線が兵士の頬に刻まれる。
「 」
少女は兵士の膝にしがみついたまま何か話した。兵士は少女の口を左手で塞ぎ、その分からない言葉を遮り、人差し指を唇に当て「静かに」とサインを送った。迫り来る軍人の足音が止まった。
「 !」
軍人は同じような言葉を何度か話している。兵士にその意味は分からなかった。もう一発銃声が響く。背後の壁が少し、崩れた。兵士は少女の口から手を離し自分の銃を握り締めた。ガチャンと錆び付いた機械の音がする。
「 !」
兵士が体勢を整えようとした時、少女は叫び立ち上がった。
銃声が一発、肉を突き抜ける音と一緒に広場に響いた。少女を庇おうとした兵士の左肩から血が飛び、衝撃に一粒だけ涙がこぼれた。兵士は倒れこむように少女を抱きしめたまま、もう一度瓦礫に沈む。チッと太ももにもう一発の銃弾が掠った。
倒れた衝撃で兵士の口からうめき声がでた。同時に噛んでしまったらしい舌から出血し、唇のはしに血の付いた唾が滲む。
「 !」
少女は乾いた喉を引きつらせながら何かを叫んだ。瞳からは大粒の涙がぼろりぼろりと溢れて止まらない。兵士は少女がこんなにも激しく泣くところを初めて見た。抱きしめている体は熱でもあるかのように熱かった。
体温と涙と声が、生きていることを必死に証明しているようだ。兵士の銃は、もう手の届かない所にある。逃げることも隠れることも考える事を放棄して、兵士は少女を抱きしめたまま空をみた。しがみつく小さな手を握り返し、鉄臭い口の匂いに目眩がした。兵士の煤けた服が、濃い染みを広げていった。
肩と太腿からの出血のためか、意識の淵がぼんやりとしている。兵士は今も声を上げて泣いている少女を強く抱きしめて自分の胸に寄せた。少女の頭にかぶせていたヘルメットが邪魔に感じたが、それでも十分に、人の体温というものが激しい流動体のように伝わってきた。乾燥した空気のぬるい温度ではない。自分以外の生きた温度だった。
その、ふとした感想に、今まで忘れてしまっていた感情が爆発したのを兵士は感じた。形容の仕方が分からない。視界が水の膜で不鮮明になり、長い間使われていなかった頬の筋肉が引きつっている。嗚咽が勝手に出て止まらない。悲しいとか、愛しいとか、切ないとか、そう言ったありふれた言葉で今の自分の気持ちは表してはいけないように兵士は感じた。ずるり。少女の頭を抱きしめていた自分の腕の力が抜けていくのを、兵士は必死にこらえようとした。
この時代の多くの人々がそうであるように、兵士の人生のほとんどは戦争の中にあった。アイデンティティが構築され、個としての兵士の存在が出来上がってから、最も多くの時間を共有したのはこの少女だった。功績も名声もない兵士がただ生きていたという事を認識し、証明してくれるのは少女だけだ。その存在のあまりの大きさと儚さに、どうしようもないほどの感情が兵士の胸に押し寄せた。
「苦しいな」
ようやく出せた声は、あまりに情けなくて、からりとした青い空気に溶けてしまうようだった。
少女が死んでしまった時に、兵士は世界から消えてしまう。同じように、自分が死んだら少女も世界から消えるだろうか。そんなことを考えた。他人に伝えるには難しい、そんな曖昧な思考だ。
ザリザリと瓦礫を踏み越えた軍人が、兵士と少女が倒れている場所に歩み寄り影を作った。兵士より濃い色の肌と屈強な体躯が、兵士の頭にぴたりと銃口を向けたまま空を隠す。
「 」
問いかけるようなニュアンスで軍人は話しかけてくるが、兵士には全く意味は分からなかった。
何度も強い口調で軍人が兵士に話しかける。もう逃げることを諦めた兵士は、その言葉の意味を理解できないことが少し残念に思えた。分かり合えたのかもしれない。そんな甘く、呑気な考えが頭の隅をよぎった。軍人は何も答えない兵士の腕を、思い切り引き上げ無理やり目線を合わせた。肩に焼けるような痛みが走ったが、兵士は軍人から目をそらさないでいた。自分より黒目がちな、意志の強そうな瞳が、伝わらない言葉を無理やり伝えようと鋭さを向けてくる。軍人の唇を注視する。
「 」
やはり分からなかった。
きっとこの屈強な男と自分は、国や言葉だけでなく、文化も信仰も、それこそ世界の感じ方も違うのだろうと兵士は思考を巡らせた。そう思うと、兵士はこの自分に銃を向ける他者に対して、無性に何かを伝えたくなった。
「あんたと話せなくて残念だ。でも俺はこの世界がそんなに嫌いじゃない」
兵士が笑みを浮かべながら語りかけた瞬間、軍人の目が血走り、表情に憤怒がにじみ出た。兵士がそれを感じ取る前に、軍人は掴んでいた兵士の腕を離すと「 !」
侮蔑と憎しみの感情をあらわに叫び、ついに引き金を引いた。