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友達になってください④

 レネは安堵していた。ステラの言った通り、クラスのみんなが自分を受け入れてくれたことに感謝の気持ちさえ萌え出ていた。

(私考え過ぎてた。自分からみんなの所に飛び込んで行けば、みんな私のこと受け止めてくれるんだ。躊躇する必要はまったくないんだ)

 浮かれ過ぎてスキップでもしてしまいそうな感情を落ち着かせようと、エレベーターの中で深呼吸をした。

 チンという音を出して3階で止まり、ドアが開いた。

 廊下の壁が全面ガラス張りのため、校舎が遠くに見える。ぼんやりだが時計台がもうすぐ四時を指すのが肉眼でも認識できた。

(本当ホテルみたい)

 初めてこの寮を見た時の感想を改めて思い返した。

 地上11階建ての建物で3階より上の階は学業やクラブ活動を終えた生徒達が一日の疲れを癒す居住空間となっている。二人で一つの部屋が割り当てられておりその部屋の中にも各人の 個室が用意されている。寝室と学習室を兼ねている個室が約30㎡、リビング・ダイニングキッチン等の共同スペースが約40㎡、バスルームが約20㎡、レストルームが約10㎡の広さが設けられており、正直レネの自宅より広かった。

 個室には机、ベッド、クローゼット、本棚、インターネット回線などが完備されているし、キッチンには冷蔵庫、オーブンレンジ、IHヒーターなど自炊に必要な調理家電はすべて用意されているので、独り暮らしにかかる各家庭の初期投資はレポート作成に使う個人用のパソコンと入寮費1000ユーロくらいだった。教科書代と既成サイズの制服代は入学金に含まれているためさほど負担にはなっていなかった。

 朝と晩の食事は1階にある食堂で毎日用意されているし、自炊派の人のために2階にあるコンビニで食材を購入することもできる。

 リビングには4人がゆったり座れるソファー、その真向かいには大型テレビも置いてある。休日にちょっとしたパーティーも可能だ。

 豪華なのは女子寮や昼食を食べた食堂だけに限ったことではない。

 総敷地面積七百ヘクタールの校内には体育館、室内温水プール、馬術場、テニスコート、サッカーグラウンドなどのスポーツ施設や国民全てが利用できる約三千万冊の蔵書を誇る図書館、コンサートホール、礼拝堂などの文化施設も学校の設備として建てられている。

 その他に病院、植物園、牧牛舎、スーパーマーケット、特別支援学校など併設しておりそこで働く人たちの職員寮も完備されている。ここで長年働いている人ですらどのくらいの数の建物が建っているか実際よくわからないという。毎年新しい施設が校内のどこかに建てられて、常に学ぶ者働く者にとって最高の環境が創造されているためだ。

 この寮は校舎とは対照的に近代的な高層ホテルを模して最近建て直された。建設当時は贅沢すぎるのではという批判があったというが、近隣各国の学生達へのインパクトは絶大で、入学希望者が2割増しとなりその年は特に入学試験が過熱感を帯びていた。

 つい3日前までどこにでもある住宅地の中にある小さな家に住んでいたのに、想像をしていた以上に恵まれた場所に来てしまったという戸惑いをレネは持っていた。そのせいか、丈夫なコンクリートで出来た廊下なのに、浮島の上を歩いているようなおぼつかない居心地の無さを足の裏に感じていた。

(私こんなに恵まれていいのかな)

 自分は優秀ではない。

 姉のように勉強でも運動でも常に一番で光り輝いていた人間とは違う。一人では何も切り開けない。この場所を歩くために色々な人の力があった。勉強はそれなりにできたが、それ以上にこの学校に入りたいという思いを多くの人に実現させてもらったという事実に胸が詰まっていく。

 もっとたくさんの言葉や行動でみんなに自分の気持ちを表したいのに、何をどうしていいかわからなかった。

 自分の思いを誰かに知ってもらうためにどうしたらいいのだろう? 誰に対して何をしたらその人は笑顔になってくれるのだろうか? 他の人からいっぱい助けてもらいながら、自分はそれがよくわからない。

 ずっと先にある曲り角をぼんやり見ながら答えを探してみた。

(考えても答え出ない。お姉ちゃんに相談してみよう)

 入寮後毎日姉にメールか電話でその日起きたことを伝えることが二人の約束事となっていた。入寮初日は電話で話をしたが、この二日はメールでのやり取りしていた。リコは毎日電話の方が良い、レネの声を聞けないのは寂しいとグズっていたが、仕事が忙しそうな姿が目に浮かんでくるので、余程なことのない限りはメールでやり取りすることにしていた。

(今日は電話しよう。ステラちゃんに会えたこともお話したいし。すっごく喜びそう)

 姉の喜ぶ声を想像しながら、寮の廊下の角を小さな歩幅で曲がると自分の部屋が一番奥に見えた。

「えっ!?」

 レネは声を上げ思わず立ち止まった。

 遠くに自分の背丈を超える大小様々な段ボールが隣の部屋の入り口をも占拠していた。入学式に出かける時は転んでも手が届かないくらい広い道だったが、今は見る影もなく雑多に縮小している。自分の部屋の荷物だということはすぐに気づいた。

 見るからにバランスの悪い積まれ方をしていて近づいただけで崩れてしまいそうだ。何の考えもなしに下から積んでいったことが容易に想像できる。

 レネは不思議なものを見る表情をして首を傾げた。

(何か忘れ物して、お姉ちゃん送ってきたのかな?)

 自宅の部屋にあったものをあれこれ思い返してみたが、段ボール箱何十個になるほどなかったと思う。いくら自分思いの姉とはいえ、使い慣れた自宅の勉強机なんかを箱詰め送るとも……、やるならば寮の机と家の机をすでに入れ替えているであろう。

(引っ越し屋さんが来ているかもしれない。聞いてみよう)

 倒壊しないか少し不安を感じながらレネは部屋に近づいていった。箱の山が大きく感じるにつれて床がギシギシ音をたてていそうな錯覚に陥って、緊張感から胸がドキドキしてくる。

 鞄を持っていない左手を胸に当てて落ち着かせようと一度大きく息を吸い込んだ。

 大きな惨事が起こらないようにゆっくりと歩き、ようやくドアの真正面まで来ることができた。

 レネは安堵感を口から吐き出した。

 ドアノブを回そうと鞄を左手に持ち替えた瞬間、突然空間を押し出す風がレネを押し倒さんばかりの力強さで両脇を駆け抜け、ツインテールを強引に引っ張り上げた。

(ふぇっ!?)

 さっきまであったドアノブの位置に赤くて丸いサワサワが浮いている。真ん中から2本触覚が飛び出して、前に在る者の正体を探っているようにせわしなく動いていた。

 レネはそれが人の頭だと気づくのにちょっと時間がかかった。

 触覚の動きが止まると頭が上がり血色の消えかかった疲労感の漂う女の子の表情が露わになった。

 今度はおでこの生え際からさらに1本勢いよく飛び出した髪の毛がレネの目の前に上下に揺れていて、レネは無意識にそれを目で追っていた。

「ひょっとしてルームメイト? かぁー、ツイてるじゃん、私。これで片付け終わる。やっぱ神様いるんだ。私の日頃の行いの良さかな」

 左右に青いラインの入った黒のジャージを着た赤茶色の髪の毛の女の子は両手を握りしめ全身で喜びを噛み締めて、一通りの感情を表現した後、何の疑問もない視線でレネを見つめ直した。

「手伝って」

 彼女はレネの右腕を瞬きする間もなく左手で掴んだ。

 同時に山のように積まれた段ボールがぶぅわっと埃を舞い上げて崩壊していた。

「……あっ」

 レネは後ろの惨状を恐る恐る見ようとしたが、掴まれた腕が部屋の方へ引き込まれていく。

「とりあえずそっちは気にしなくてもいいや。壊れて困るものはもう無かったはずだし」

 部屋の廊下をグングン突き進みながらレネの部屋の入り口にたどり着いた。

「それよりそのままじゃ手伝えないから、汚れていい服に着替えてきて」

 少女は振り返るや否や、腰に手を当て自信満々に胸を張って言い放った。

「あの……私」

「どうしたの? 君がそのままでいいならそれでいいけど……。ただ、制服汚れるよ」

「えっ、そんな……。汚れるのは、イヤ……」

「じゃあ、着替えてきて」

 頭の中の色々な場所が荒らされて整理つかないまま、レネは黙って首肯した。

「……着替えてくる」

「早くね。着替えたら、そのまま私の部屋に来て」

「……う、うん」

 ドアノブに手をかけてながらレネは赤い髪の少女に気づかれないように一瞥した。

 彼女は本当に心の底から嬉しいのだろう。満面の笑顔を見せてレネを見送っていた。

 どういう訳かひどく後ろ髪を引かれる思いを感じながら、彼女の眩しい表情はドアの向こうへ右側から消えていった。

 ドアの締まる音を遠くの聞きながら、この一二分で起きていることをどう解釈し、どう結論を持っていけばよいか立ち尽くして考え込んだ。

(あの人は誰? 名前は? 聞かなかったのは、失礼だよね。……でも、あの瞬間(とき)、どこで聞けばよかったのだろう? これから自己紹介しに戻った方がいいのかな?)

 考えがまとまらないまま、無意識の内にブレザーのボタンを外す仕種をとっていた。ボタンが指先に収まらず、慈悲のない抵抗を繰り返していた。

(あれ、何で?)

 何度か穴に通そうと試みたが、ボタンが指先から逃げていく。金色の丸い塊が半径3cmの中で不格好なダンスを踊っていた。

 隣の部屋からドスドスと荷物を置く音が静かに響いてくる。その音が必要以上にレネの焦燥を掻き立ててきた。

「……ヤダ。早く着替えなきゃ」

 レネは下を向いてボタンの位置を確認した。首だけ下げただけだったので胸の向こうにある目標は暗い影に沈んではっきりわからない。さらに上体を折り曲げて覗き込んだ。


 ガン!


 レネは頭を抱えてその場から五歩後ずさり膝を崩してしりもちをついた。

「……痛い」

 ドアにぶつけた前頭部がジンジン疼く。

 涙で霞んで目の前が揺らいでいた。部屋も暗かった。

 いや、暗かったのはこの部屋に入った時からだ。今頃になって電気もつけずに入り口から動いていないことにレネは気がついた。

 後ろにある窓は黄色いカーテンで外光を閉ざされていた。その隙間から一筋の光がレネの立っている足元まで届いていて薄い影を浮かび上がらせていた。

(スイッチはどこだっけ? カーテン開けた方が早いかな? でも着替えたらすぐ部屋出ちゃうから、このまま着替えた方が早いかな。……でも、暗くてボタンがどこにあるかわからないから頭をぶつけた訳だし……)

 痛くない頭の反対側で不意にさっきの女の子の別れ際の笑顔が浮かんでくる。

(あの子、笑顔だった。何でだろう? こんな私でも期待されているのかな。服着替えるだけでもこんなにグズグズになっちゃうのに。……私のこと全然知らないからだね。私のこと知っている人はこんなこと頼まないもん。役に立たないから)

 目元に溢れていた涙が頬を伝って流れ落ちた。自分の不甲斐なさに胸が痛んでくる。

「違うよ、私悲しくない。悲しくないから、泣いちゃダメだよ……」

 両手で力一杯目をこすりながら涙を拭った。まだ涙が止まらない。

「私が来なかったら、あの子は一人で全部片付けるつもりだったのかな。あんなたくさんの荷物、私なら片付けるのに一週間はかかっちゃうよ。……お手伝いしてあげたいのに、肝心な時に手を差し伸べることに躊躇しちゃう」

 涙を流す理由はすぐに気づいても、気落ちしている自分の心を奮い立たせる材料は見つけられない。受け入れられなかったり、邪魔だって言われたりした時のことを考えると今でも怖くてしょうがない。

 だからと言って、ここで泣いても何も変わらない。何の進展もない。そんなことは小さな身体にイヤになるくらい染み付いている。

 辛くても前を向いてちょっとでも先に進もうとすれば、全然知らない場所でも同じ目線になって声をかけくれる人、手を繋いで一緒に歩んでくれる人が出てくる。そんな人達と手を繋いで毎日色んなことを感じながら自分はここまでたどり着いた。

 今は悲しくて座り込んでしまっているけど、泣くだけ泣いたら涙も枯れて出なくなる。そうしたらまた立ち上がればいいんだ。歩いていく理由は途中で見つかる。

(いや、理由ならもうある)

 私あの子のこと知らない。名前さえも聞けなかった。出会いは突然すぎて、お互い自己紹介をしながらお茶を飲むみたいな体裁のとれたシチュエーションにはかけ離れているけど、お陰で相手が見ず知らずの自分を必要としていることがすぐ知ることができた。

(私、あの子の役に立ちたい。今できる精一杯のことをしてあげて、あの子の笑顔に応えてあげたい。……それから名前も教えてもらいたいな。これから三年間一緒に同じ部屋で生活していくから、何て呼んだらいいかわからないのは困るよ)

 涙を拭いて意識的に笑顔を作った。

「初めて会う人には笑顔で挨拶すること。お姉ちゃん言ってたっけ」

 レネは膝に力を込めてゆっくりと立ち上がった。おぼつかない足取りで薄暗い部屋の中に差し込む光の方向へ足を踏み出した。

 さっきまで泣いていたせいもあって部屋の四方が黒くぼやけて見える。足先に神経を集中させ躓かないように足の置き場を探してたどたどと歩き続けた。

 暗い場所をこれだけの長さ歩いた経験はまったく思い当たらない。毎日陽が暮れる前に下校していたから、誰もいない家の中でもすぐに電気をつける必要のなかった。

 レネは今までとは違う暮らしが始まることに心が涵養されていくのを感じていた。今まで体験したことのない生活が、自分にどんな成長を与えてくれるのだろうか。目の前にいる隣人に手を差し出すことでそれが始まっていく。

 トクトクと胸の鼓動が高まっていく。

 カーテンの端を掴み今までにない勢いで音を鳴らせて勢いよく開けた。

 部屋の明度が強くなる。

 床に自分の影が濃厚に浮かび上がっていた。部屋の入り口近くまで影が伸びていた。

「ここのお部屋やっぱり広いな」

 レネは言葉にしづらい戸惑いを覚えながら、さっきまでいたドアの辺りを見つめて部屋の広さを認識し直した。



  ◇      ◇



「準備できた? 気にせず入ってきていいよ」

 隣人の部屋のドアをノックした直後、期待のこもった明るい声が遮断物もお構いなしに飛び超えてきた。

「お邪魔します」

 レネは恐縮してドアを開けた。

 20cm程開けると、目の前に開梱されていない段ボールが彼女の身長と同じくらいの高さに積み上げられて置かれていて、そのままでは部屋の様子はまったくわからなかった。

 さっきみたいに崩れてこないか心配しながら、もう一段ドアを開けて部屋に入った。

「ごめんなさい、遅くなりました」

 ドアを締めた後、レネは深々と頭を下げた。

「いいよ、気にしてないから。手伝ってくれるだけでも、感謝しなくっちゃ……あっ!?」

 机の下に潜り込んで銀色の大きなパソコンの配線と格闘していた少女がレネに振り返ると、それまでの無邪気な表情が一変し、目を丸くしながら言葉を詰まらせた。

 レネは袖がたわんでいるが胸元が不自然に膨らんでいる白いタートルネックのセーター、制服のスカートとデザインと色の似た煉瓦色のギャザースカート、一目見ただけでは制服時と色に違いがわからない暗色のニーソックスを履いていた。

 これからリビングでリラックスするには問題ないが、荷物を片付ける手伝いをするにはあまりにも不適当すぎる格好だった。

「……」

 少女は沈黙してしまった。

 レネは彼女の呆気に取られた表情が理解できず、不思議そうな顔をして首を傾けた。

 少女は一度つばを飲み込んだ後、

「ええっと、……何を言ったらいいのかな。肉体労働をするには向いてない格好だと思われ……」

 少し遠い目でレネを見つめて意見とも感想とも定義できないような微妙な言葉使いをして戸惑いを表した。

「……私、変かな?」

 レネは自分の服装を足先から胸元までおかしなところがないか確認してみたが理由が思い当たらない。普段着ではいけなかったのだろうかと眉をひそめた。

「汚れると面倒臭いとか、動き難くないかとか、……そういうこと気にしないんだったらいいけど」 

「……エプロン着けた方が良かったかな。全然思い付かなかった。確か持っていたはずだから、取ってくるね」

「ああ、もういいよ。私のジャージ貸すから」

 自分の部屋に戻ろうとするレネを少女は制した。

「えっ、でも……」

「そんなことしてたら時間無くなっちゃうよ。私は一秒でも早く部屋に荷物入れたいんだ」

 自分のジャージの上着を脱いでクルクルと丸めた後、下手投げでレネに放り投げてきた。黒い塊は天井スレスレの高さまで舞い上がり、意志を持ったようにレネに向かってまっすぐ飛んできた。落下物の軌道を目で追っていたレネは時間がとてもゆっくり進んでいくの感じていた。一歩も動かずに差し出した自分の腕の中に別物の時空軸のジャージがやさしく収まっていった。(スゴイ……) 

 初めて目にした出来事にレネは周りの状況を忘れるくらい感動していた。

「それじゃ、早く着替えて」

「えっ、うん」

 変に自失していたレネは彼女の言葉に慌てて我を取り戻した。あたふたしながらセーターを脱ごうと片手にジャージを持ったまま襟元を天井に向かって勢い良く引っぱり上げた。裾が身体の半分まで来たところでツインテールの結び目に引っ掛かり、顔全体に白い壁が覆いかぶさってきた。

「?」

 何度も服を引っ張り上げてセーターを脱ごうとしたが、それ以上動いてくれない。持っている手の位置を変えてみたり、力加減に変化をつけたりしてみたが効果は全くなかった。

(どうしよう、脱げないよう)

 焦らないように深呼吸をしたが、目の前の白い壁が口を塞いできて、ますます息苦しくなってくる。

 酸欠で意識が朦朧としてきて、いったい何をすれば上手く行くのかわからなくなってきた。

 突然、セーターがすごい力で空へ引っ張られた。途中、胸の出っ張りに袖口が擦れ上がり、経験したことのない刺激が体中を駆け巡った。

「ひゃわ」

 レネは突然の感じた気持ち良さに甲高い奇声を上げていた。

 飛んでいったセーターに腕を持っていかれバンザイした状態で顔を上げると、少女が呆れた表情を浮かべてレネの前に立っていた。

「何やってんの? セーター脱ぐくらいで」

「えっ、あ、あの……」

 約10cmの身長差が大きく膨らんだ威圧感をレネに与えていた。

「とにかく早く着替えて」

 少女は語気を荒げてレネにすばやい行動を促した。

「……うん」

「私、自分の作業に戻るから」

 少女はレネに背中を向けた。パソコンに向かいながら一度こちらを見返した。目線が足の先から頭の先まで何かを調べるように動いているのがレネにもわかる。

 変にジロジロ見られていた理由が気になっていたが、レネは気持ちを切り替えて優先して手をつけなければいけないことを思い出した。

 腕に残っていたセーターを脱いで、床に落としてしまった少女のジャージを入れ替えるように拾って袖を通した。

 ジャージのファスナーが途中上手く締まらないところがあったが、二度三度チャレンジして大きな山を何とか乗り越えて首まで到達した。

 ジャージ着た後、少し休みを挟んだレネは続けて自分の白いセーター着ようと拾い上げて袖を通した。

「いやいやいやいや……、その上にセーターは着ないでしょ!」

 再度パソコンの設定をしていた少女はその場で間髪入れずツッコんできた。

「?」

 レネは突然声が飛んできたことに驚いて、きょとんとした表情で彼女を見つめた。

「私の言動理解できません、てな顔されても……。そもそも、その上に着たらますます動き難いでしょ」

「……でも、それじゃお洋服汚れちゃうよ。人から借りたものは壊したり汚したりしちゃいけないから大切に扱いなさいってお姉ちゃんが言ってたし……」

 レネは相手の発言に戸惑いを隠せなかった。

「汚しても構わないから貸してるんだけど……。ていうか、壊すこと前提?」

 本気でどうしたらよいかわからず困っている顔をするレネを見て、半ば諦めの表情を見せて少女は溜息をついた。レネの性格をどことなく理解したのだろう。

「ジャージなんて何枚も持っているから、仮に破れたりしても怒ったりしないから」

「えっ? でも……」

「汚れたら、洗って返してもらえばそれでいいから」

「……うん」

 まだ何かしら引っ掛かるものを隠せないままレネは返事をした。

「とりあえず、外にある荷物早く運んで」

 自分の作業に戻った少女は電源のついたパソコン画面から目をそらすことなく言葉を発した。

「あの……」

「まだ何かあるの?」

 少女は振り返りながら少し苛立った口調でレネを睨んだ。

「ジャージ、ありがとう」

 レネは周りの空気が華咲くような笑顔を浮かべて頭を下げた。そのまま何事もなかったように部屋を出ていった。

「……何、今の?」

 少女は胸に手をあて誰もいなくなった部屋の入り口を見つめていた。



  ◇      ◇



(印象よくないのかな、私)

 レネはこれからルームメイトになる女の子の困惑した表情を思い出して不安にかられていた。

 電気のついていない玄関前の廊下を小股で歩きながら、

(自己紹介出来なかった)

 場の勢いに流されてしまって大事なことができなかった自分を悔やんでいた。

 自分の名前を教えるどころか相手の名前を聞くことすらできなかった。どんな相手かもわからず、自分の仕事を手伝ってもらうことは心配ではないか。戻って自分の名前だけでも教えた方がよいのではないか。でも、それでは急いで荷物を部屋に入れたいという彼女の思いに反するのではないか。そんなことをしたら彼女はますます不信感を持ってしまうのではないか。

 ネガティブなことで頭の中をグルグル回しながら入り口のドアを開け、レネは再び大量の荷物と対峙した。

 床に崩れ落ちた箱が埃を被ってあちこちに散逸していたが、それでもなお一番上の段ボールは天井近くまで積み上げられていた。

(ここまで積み上げることのできる人は身長が2mくらいあってすごく力持ちの人なのかな。……おっきいのっていいなあ)

 レネは自分の小ささや無力さを痛感して少し落ち込んでしまった。

 彼女は重いもの運んだりするのは得意でない。力もないし、背も低いから高いところにあるものは届かない。運動は……毎日少しでも長い距離歩くように心掛けている。階段を三階まで上がるだけでもちょっと息切れしたりする女の子だ。

(私こんなだけど、あの子の役に立ちたいんだ)

 荷物片付けたら、改めて自己紹介をしよう。自分のお願いを聞いてもらうのはそれからでも全然遅くはないと思った。

(今五時くらいだっけ)

 腕時計は片付け作業を手伝うため外してきた。部屋に戻ったのが四時過ぎだったから、着替えてその後色々あったからそれくらいたっただろうか。

(六時半くらいには終わらせたいな)

 レネは一つの決心をして、大きく深呼吸をした。どこから手をつければいいのだろうとか中に壊れやすいものとか入っていたらどうしようとか不安はすべて打ち消せた訳ではないが、一つずつでも部屋の中に片付けることが、今の自分に課せられた使命だと思っていた。

 とりあえず目の前にある60c㎥の箱を挟むように手にしてみた。1cmくらい上げただけでズシリと重さが伝わってくる。このまま持っていたら下に落としそうになるので、箱の奥に指を潜らせて下から支えるように持ち上げようと試みた。

(あれ?)

 上手く指が箱の下に入ってくれない。何度も身体を箱に押し付けて指を回そうとするが、ギリギリの所で思ったところに届かない。

 レネは箱から手を離した。大きさを少し離れたところから確認した後、隣の床ある小さめの箱をしゃがんで手に取った。重さはさっきよりは幾分か軽く何より一番先まで指が届いた。

「これならだいじょうぶ」

 レネは開けっ放しのドアを通って少女の部屋に戻った。

 壁に荷物を押し当て下に落とさないようにし、ドアをノックして中に入った。

「荷物ここに置くね」

 部屋の入り口付近に荷物を置こうとすると、

「ちょっと待って。ここには置かないで。ここに置かれてもすぐには片付けられないから」

 何時の間に設置していたのだろう、私物として持ってきた大型テレビの前でチャンネル設定をしている少女が振り返りもせず声を飛ばしてきた。

「えっ? ……でもどこ置けばいいの?」

「そうだな……。とりあえず、リビングに置いといて」

 ここでも少女は振り返らない。

 テレビ画面にはチャンネルスキャン中の文字が離れた場所にいるレネにもはっきりと読める。

「リビング……」

 その言葉を聞いてレネはその場に立ち尽くした。

 人のいる気配がしばらく消えなかったのに気づいた少女は振り向いた。

「どうしたの?」

「リビングはみんなで使う所だから、自分のことで使うのはよくないよ……」

 レネは下向き加減で困惑した表情を浮かべ、少女を真剣な眼差しで見つめていた。

「えっ!? それは正論だけど……。そもそもみんなって私達二人しかいないじゃない」

 少女は怪訝な表情になり、反論しようと口を尖らせた。

 だが、次の瞬間再び胸がドキリと鳴りだして有無を言わせず吐き出そうとした言葉が喉元で押し返された。

「うぐ!? 何、また胸が……。さっきから私おかしい。どうしちゃったの?」

 少女は何かに動揺しているようだったが、レネはそれには気づかなかった。ただその前の眉を潜めた表情から怒らせてしまったと勘違いをして、

「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。……そうだよね、ずっと置いておく訳ないもんね。私変なこと言っちゃった。あなたの言う通り、荷物はリビングに持って行きます」

 再度ごめんなさいという言葉を言って頭を下げ、レネは部屋を出て行った。

(変なこと言って、怒こらせちゃった)

 居心地が悪くなって部屋を飛び出した格好になってしまい、レネは後悔していた。戻って謝った方がよいのかと考えたが、何度もごめんなさいと言って出て行ったのに、出て行ったことを謝るために戻ってごめんなさいと言うことが彼女に理解してもらえるのか、その行為がまた彼女を怒らせるのではないかと心によぎり、普段より数段早歩きになっていた。

 荷物をお腹の近くに抱きかかえ、カーテンの閉まった薄暗いリビングの端まで一心不乱に歩いた。

 一番奥に置いてある部屋に備え付けの大型テレビの前に立ち止まると、電気の消えている漆黒の画面にレネの姿が映っていた。

 彼女は肩を動かしハアハアと息を乱していた。

 ぼんやりと浮かび上がる自分の表情から、いくつかの心情を表す言葉がいやおうなく頭の中に浮かんできた。


 不安

 不穏

 不幸

 非情

 非道

 非礼

 無力

 無惨

 無知


「イヤ……」

 レネは自分の姿を直視出来なかった。膝を折り曲げて持っていた荷物を床に置いた。しばらくしゃがんでいたいくらい身体に疲労感を覚えたが、じっとしていることの方が心苦しくなりそうだったため、次の荷物を取りにその場を逃げるように立ち去った。

 今の自分に荷物を片付ける作業があることをありがたく思った。

 誰にでもできる作業だ。一心不乱にできて、やっている間に時間が過ぎてくれる。

 外の荷物をすべて片付けることで彼女は喜んでくれるだろう。今一つ噛み合っていない関係も良好になるかもしれない。

 そうすれば彼女に自己紹介をすることができる。


『私の名前はレネ・バードランドです。これから三年間よろしくお願いします。まずはお友達になってください』


 その言葉を心に思い描いた時、レネは食堂でステラと交わした約束を思い出していた。


      ※


『私は今日ルームメイトとお友達になるから、三人で夕食を食べよう』


 私の約束を聞いて、ステラちゃんは少し顔を赤くしてなぜか私から目を逸らしていた。

『いいよ、そんなの。……友達なんて無理に作らなくてもいい。今まで通り、私はレネと一緒にいたい。私はずっとレネだけでいいんだ』

(どうしてステラちゃんはあんなことを言ったのだろう)

『お友達はいっぱいいた方がいいんだよ。私の目標は100人。ステラちゃんも100人作ろうよ。そうしたら、私とステラちゃんはもうお友達だから、合わせて200人のお友達がいることになっちゃうね。初めに、私はルームメイトとお友達になるから、楽しみに待っててね』


      ※


 レネが食堂の入り口前で振り返った時、テーブルの前にいたステラは珍しくスネたような顔をしてずっとうつむいていた。

 どうしてなのか気にはなっていたが、約束通りルームメイトを連れて行けば、きっといつもみたいに優しい笑顔で喜んでくれると信じていた。

 だから、私は彼女もステラちゃんも笑顔になってくれるようにがんばらないといけないとレネは決心した。

 そんなレネの前に再び段ボールの山が大きな存在感を誇示して襲いかかろうとしていた。

 レネは両足を踏ん張りその山を力の入った目で見上げていた。


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