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漆黒の戦機  作者: 夏木裕佑
第四章「嵐を凌ぐには」
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一三二年 十二月二十三日~

・アリオス歴一三二年 一二月二三日 クリシザル バレンティア航宙軍第一機動艦隊


 強烈な時空振が虚空を揺さぶる。空間ごと揺るがされた各艦が予定の進路を外れ、陣形が大いに乱れた。地上では考えられない高速度で移動している宇宙船は、衝突警報を発して僅かに進路を逸れるだけでも凄まじい負荷と距離を移動することになる。

 第一機動艦隊は揺れた。各艦が元の位置に戻ろうともがくが、今まで自分がいた位置に僚艦が混ざり込んだり、唐突な姿勢制御で上下感覚を失ったクルーによる誤認が頻発する。乱れた陣形のまま敵艦隊の中央を突破したところで上方に避けていた敵部隊が基準面下方へ向けて下降を開始。後方から四〇〇隻の敵艦隊が襲い掛かる。

 ダニエル・アーサーは無能な指揮官ではない。故に、この状況がいかに打開困難なものであるかを瞬時に悟っていた。ここで足を止めてはなぶり殺しにされる。兵器の性能差以上に、現在の相対位置は分が悪すぎる。陣形が乱れ、後方から狙い撃たれるばかりでは、敗北は時間の問題だ。そして、このような状況へ一瞬にして引き込んだ敵の指揮官へ恐れを抱いた。バレンティア機動艦隊はこのまま負けてしまうのか?

 そうはなるまい。艦隊へ前進を命じながら、彼は部下が一糸乱れぬ動きで戦闘行動を継続しつつあるのを見つめながら、指揮卓の前に浮かぶ立体映像投影装置の映し出すホログラフを食い入るように見つめる。彼の仕事は艦隊の指揮だ。個艦対応は艦長の判断に任せればいい。その様に艦隊を育てて来た。

 肝を据えて、アーサーは姿勢を正す。大声で艦橋にいるクルーたちに指示を飛ばしている艦長の仕事ぶりに満足しながら、これからどうするべきかを考えた。

 そして、この状況下で何かできる事は無いかと解決策を模索しているのは、後方で戦いを見つめるジョン・テイラーにとっても同じことだった。

 選択肢はそれほど多くはない。これは好ましい状況ではないが判断をする時間は短くて済む。相対的に判断に用いる時間は少なくなるが、迅速な判断なら自信を持っている。老骨にもそれだけの能力は残っていよう。

 まず、この場から離脱しなければならない。敵艦隊は後方にいる。戦力差はたったの一〇〇隻、正面切っての砲撃戦でも、立ち回り次第でいくらでもカバーできる戦力差だ。さらにはこの戦いの主導権は今や帝国軍残党にあり、後方占位はその不利を決定的にしている。これを振り切って条件を五分五分に戻すには移動が不可欠だ。幸い、第一機動艦隊はバレンティア航宙軍の中でも特に練度が高い。戦闘力の序列が番号で現れるのは第一オリオン腕大戦からの慣わしだった。

 帝国艦隊がミサイルを発射する。第一機動艦隊のイージス艦が緊急データリンクを介して各艦の対空レールガンを掌握、最適効率を維持した猛烈な迎撃を開始する。空間を飛び交う実弾の雨は、弾体こそ極小だがその運動エネルギーは凄まじい。ミサイル程度の目標なら容易く破壊する。衝撃を受けて大破したミサイルは暴発した弾頭からプラズマを漏らし、宇宙空間をオーロラの様な輝きが満たす。真空中に放出されたプラズマが各艦のPSA装甲を静かに包み込んでいった。

 機動艦隊の要、イージス艦へと敵の砲火が肉薄する。アーサーはこれあると予期し待機させていた手持ちの戦艦隊をイージス艦の防衛に振り分けた。

 帝国軍艦は、古い。百年前に設計された船の各所は、もちろんかなりのアップグレードを施されてはいるものの、最新鋭艦を揃えているバレンティア航宙軍艦艇には戦闘力において遠く及ばない。特に、機関出力が威力に直結すると言ってもいい主砲は、前時代的な高出力荷電粒子砲塔で、現代艦艇で主流となっているエネルギービームに比べれば見劣りするものだ。だから、帝国軍が自信を持つほどの兵器を所有しているのなら、それは比較的改良の用意なミサイル系に限定される。これは弾頭、もしくは発射機とプログラムさえ対応させれば、多くの場合、どんなミサイルでも搭載する事が可能だからだ。

 つまり、敵軍が決定的な一撃を放つにはミサイルしかない。それを命中させるためには、バレンティア機動艦隊のイージス艦が極めて厄介な存在になる。艦首部分に主砲ではなく大型の超光速レーダーを搭載したこの艦種は、建造費だけでなく維持費も高額なためにバレンティア以外での運用は難しい。バレンティアではない国は恐れるに足らないともいえるが、バレンティアさえ崩せばあとはどうとでもなるとも取れる。

 イージス艦のシルエットを、戦艦、重巡洋艦を主体とした臨時編成部隊が取り囲んだ。強固な装甲が威力の小さい荷電粒子の槍を弾き返し、その数割増しされた威力を持つ青白いエネルギービームを吐き出す。翻って敵艦隊内部ではいくつも爆発光が咲き乱れ、戦艦隊が軸を作りだすとその周囲に展開していた戦隊が混乱を収拾する隙が生まれた。


「栄えある第一機動艦隊の全艦へ」ダニエル・アーサーの真っ直ぐな声が虚空を駆け抜ける。「右旋回を開始。敵艦隊の後背に食らいつけ」


 第一機動艦隊が猛烈な勢いで旋回を始める。数隻のイージス艦は戦艦隊に守られながら陣形の中程まで移動し、同時に、五〇〇隻の大艦隊が少し乱れた紡錘陣形の頭を右に振る。帝国艦隊はこの動きに追随する姿勢を見せたが、このまま戦闘を展開しては泥沼化は避けられないと判断したのか、少し直進した後で上方左旋回、両艦隊は仕切り直しとばかりに互いに九〇度の交錯する軌道を描く。

 どうするべきか。アーサーはしばしの間考え、テイラーが助言しようと口を開きかけたその瞬間に指示を出した。

 第一機動艦隊はさらに加速し、軌道をやや右にずらす。バラスタスの規格外めいた出力を誇る慣性補正装置が唸りをあげた。僅かに殺しきれない慣性がクルーたちの体にかかる。だがそのわずかな時間の急旋回で軌道はさらに交錯し、直角を示していた二つの軌道はほぼ正対して状態で交錯する。正面切ってぶつかるつもりだ。しかしテイラーは冷静にその意図を組んで頷いている。

 アーサーは、この大艦隊をして機動主体の通過射撃を試みるつもりだ。敵の数と性能を鑑みれば、一瞬の間だけ砲火を交える通過射撃戦法は特に艦船の性能差が影響しやすいものであるし、特に数においても利点を保持するバレンティア機動艦隊にはうってつけの戦い方といえるだろう。これは敵も予想していると懸念して然るべき戦術だが、今回の場合、敵の動向からどの様な対抗手段に打って出るかは想定しやすい。さらには有効であるが故に、現段階での有利は第一機動艦隊にあって揺るがない。適切な状況判断と命令が、敵から予想外の攻撃を受けた動揺を完全に打消し、第一機動艦隊は元の整然とした箱型隊形に移行、帝国軍艦隊へ向けて猛進していく。

 再接敵は五分後。テイラーは無意識の内に肘掛を強く握りしめていた事に気づき、意識して手を離した。その間に、再びのアーサーの指示によって第一機動艦隊は上下へと薄い箱型隊形ふたつに別れた。バラスタスは上方集団に組み込まれている。敵艦隊は向かって左方向へと緩やかに旋回し、上下斜め方向より攻撃を受け、飛び去っていく。

 目まぐるしい戦闘状況の趨勢は、今や第一機動艦隊へと傾きつつあった。この通過射撃で敵陣形の外縁部にあった数十隻が損傷を受け、五隻の駆逐艦が爆発し、三隻の軽巡洋艦も大破。他多くの船が、未確認ながら被害を被っている。それでも一糸乱れずに旋回運動に入り、ワープポイントへ向けて加速し始める所を見るとよく訓練されたクルーたちによって運営されている様だ。

 手強い相手だった。既に自分達が追いつける以上の速度で戦場を離脱し始めている敵艦隊のアイコンを見つめながら、テイラーは気づかれぬ様に静かな溜息を吐いた。

 老骨に戦いは辛い。




「どうやら勝利ばかりに酔ってはいられないようですな」


 翌日、機動艦隊首脳部の会議に顔を出したテイラーと司令官であるダニエル・アーサーへ向け、参謀長の男が言った。その声色には多分に疲労の色が滲み出ており、先の戦闘から休息も無しに情報収集を行ってきたことがうかがえる。


「ヴィンセント中将からの連絡によりますと、第四機動艦隊は三隊に別れてクリシザル領宙を警戒していた所、突如としてそのうち一隊を襲う敵艦隊が襲来、戦闘の末に撃退したが被害は無視出来ぬものである、との事です」


 各自から低い唸り声が聞こえる。会議室の卓上に置かれたマグカップに注がれた多種多様の茶の液面が揺れたかと思えるほどだ。彼らの雪辱を代弁するがごとく、ダニエル・アーサーが毅然とした態度で口を開いた。


「戦略的観点から考えて、我々が追いつめた敵艦隊は陽動部隊であったと考えるのが妥当だ。最初に二〇〇隻、増援で二〇〇隻。さらには第四機動艦隊の分艦隊襲撃に二〇〇隻。いずれも帝国軍のものと思われる旧式艦船だ。ここで行われたあの戦闘も、四〇〇隻という敵の総数も、我が第一機動艦隊を相手取って”敗北しない事を優先した戦い”を進めるためであったのなら、納得がいく」


 陽動作戦において、重視するべき点はふたつ。ひとつは、言うまでもなく敵に陽動である事を悟られぬ事。もうひとつは、陽動を担った部隊が負けない事だ。陽動を行うには必ず敵を相手取る兵力が必要となる。これは必ずしも敵兵力を上回る必要は無いものの、敵に「勝てる」と思い込ませつつ、他の事を考えさせなくするほど余裕をなくす程度には対抗可能な数を用意する必要性が生ずる。今回の場合、旧帝国軍はこの陽動作戦を見事なまでに遂行して見せた訳だ。さらには、各機動艦隊を真っ向から相手取る事はせず、地道な破壊活動の末に第四機動艦隊と第一機動艦隊の兵力分散を誘い、さらには第四機動艦隊の兵力をさらに分割させるという戦略思想は恐ろしいまでの洗練さと共に実行されている。

 敵軍への賞賛の念は誰しもが――予想外ではあったが――抱いてはいた。古き良き軍を目の当たりにした、とでもいえば聞こえは良いだろうか。だが、第一艦隊の面々が衝撃を受けていたのは、千隻の威容を誇るバレンティア機動艦隊の連合艦隊を、たった六〇〇隻、しかも一世紀前の艦船を用いて翻弄せしめた、敵指揮官の戦略的素養である。

 それは、一世紀前に自分らバレンティアと研鑽を競った、猛者達の誇る戦闘技能を確かに受け継いでいる証ではないか。その懸念は伝染病の如く首脳部に蔓延し、テイラーでさえ顔を顰めずにはいられないほどの圧力を伴って会議室に充満している。あの味方の損害に気を向ける様子もなく、健気なまでに戦闘を続行し、最後まで陽動の目的のために戦った帝国艦隊のクルーたちが裏付けているとみていい。

 勝てるのだろうか。この鉛めいた重苦しさを持つ空気の根本にはその疑問がある。

 バレンティアは第一次オリオン腕大戦以来、言うまでもなくオリオン椀に分布する人類社会の頂点に立つ存在であり、軍事的、経済的な実力は計り知れない名声と共に謳われていた。バレンティアの意思は銀河連合の意思を示し、超大国であるかの国の暴走を抑えるべく、他の中小国はいざというときのための安全装置としての役割を担ってきた。

 そのバレンティアが、負ける。仮にも高圧的なバレンティアの主導的立場を守って来たのは「いざというときには彼らが助けてくれる」という、その下に降る各国の損得勘定があったからに他ならない。この第二次オリオン腕大戦は、そのバレンティアの地位を失墜させるための戦いであると言っても過言ではなかった。銀河帝国残党の狙いは、疑うまでもなく百年前の雪辱を晴らすためであろうし、最たる敵はバレンティア航宙軍機動艦隊。その三つが造反さるという事実は今までにない使命感を各司令官に掻き立てていたが、その背後に迫るリスクを自覚しない訳にはいかない。

 テイラーは、この時になって初めて、機動艦隊司令長官である自分の席に降りかかる責任の重さを痛感していた。ここ、クリシザルでの戦いで帝国軍残党に苦戦を強いられるとあらば、辛うじて保たれているバレンティアの発言力は劇的に低下するだろう。結果として、連携を取れなくなる銀河連合は敗北に直面する。

 何としても、その事態は避けねばならない。なぜか。それは、今の市民の生活と権利を守るには、どれだけ嫌われていてもバレンティアにしかできない事だからだ。


「アーサー中将、儂からひとつ、提案があるのじゃが」


 厳かに手を上げて見せるテイラーへと、会議室の誰もが視線を投げた。沈黙を破った老人の嗄れ声に驚きながらも、アーサーは、どうぞと礼儀正しく彼の意見を催促する。


「敵の狙いを見極める必要があるじゃろう。帝国軍残党はバレンティア機動艦隊を倒したいのかどうか、ということじゃ」


「それは、どういう意味でしょうか。間違いなく、敵の目的はそうであると考えますが」


 怪訝そうに問い返しつつも、アーサーはこの質問の意図を正確に理解しているであろうことを、テイラーはその細まった視線から察したが、敢えて触れる事は無く、口元の無精髭をさすった。


「今回は陽動作戦を仕掛けて来た。第一機動艦隊も、一時は危うくなったほど、敵が見事な腕前を持っている事は否定できまい? 目的を見失わずに、深追いを避けて戦いの目的そのものの達成を図る。軍人として理想的な姿勢と言うべきだ。勿論、儂の知る限りバレンティア軍は誰しもがそうであるが」


「認めたくはありませんが、敵の指揮官とクルーがよく訓練されていることは否定いたしません。ですがこちらには優れた武器、兵器がありますし、首脳部だけでも敵に見劣りする事は万に一つも無いでしょう」


「儂が考えておるのはだな、アーサー提督。ここ、クリシザル領宙での騒ぎも陽動に過ぎんのではないか、という事だ」参謀たちのどよめきも構わず、テイラーは話し続けた。「皆、知っての通り、ロリアでも武装蜂起は発生しておる。かの国は百年前、銀河帝国の中枢を担った地域で、これを押さえる事は銀河帝国残党にとって大きな意味を持つじゃろう」


 しばしの間隙を縫って、アーサーが力強く頷いた。


「我々機動艦隊をここに留めておくつもり、という事ですな。第一機動艦隊と第四機動艦隊、序列からしても実力のあるこの二つの艦隊を、出来る限り自分たちの目的地から遠ざけておきたがっておる。成程、理に適っている。となれば、敵の意表を突くには、こちらがこの戦場を離れればいいのでしょうか」


「フム、それを決めるのは儂ではないよ。だが、こちらにとってもそれは大きな賭けである事を承知しておかねばならん」


 テイラーは近寄って来た従卒の姿を認めて話しを終えた。幕僚たちは盛んな議論に身を投じていき、アーサーを中心として今後の方針が急速に建てられていく。これ以上、顔に泥を塗られてなるものかと誰もが必死だ。その火種を投げ込んだのは間違いなく、ジョン・テイラーという老人。まだまだ敵わないな、と苦笑いを浮かべるダニエル・アーサーに気付くことなく、テイラーは従卒の言葉に耳を澄まし、頷き返す。

 ここに来て、軍本部から正式に招集される。今後の戦闘について、また、現在進行している戦闘について、まず間違いなく呼び出しがかかると踏んでいたテイラーだったが、予想外に長く待たされた。時間を持て余して出撃してしまったわい、と大きな笑みを浮かべながら、席を立って自室へと向かう。彼の背中を敬礼が見送った。



・アリオス歴一三二年 一二月二四日 大型巡洋船アクトウェイ


 盛大に装飾の施された食堂。据え置かれた樅ノ木と鈴、七色に煌めくLED灯の数々。テーブルの上には豪勢にケーキが三つ置かれ、それぞれショート、ショコラ、チーズとなっている。ローストチキンもいくつか並び、笑い声を嬌声が天井に響く。

 クリスマス・イヴは、この時代になっても続く人類の習慣だ。旧地球の歴史は既に考古学の領域に入り、出来事を知っている人間は少ないものの、こうした世界的な風習などは根強く残り、その由来も伝えられている。アキの保存する記憶領域内の情報にも、イエス・キリストの誕生を祝うものであるという簡単な項目ではあるが、存在していた。そして、多くの人々にとって、この一日は大切な相手と過ごす夜であることも理解していた。

 そういう訳で、柄にも無く赤と白色をした三角帽を被り、白い付け髭を携えてシャンパンをラッパ飲みしようとしているリガルへ向けて彼女は歩き出した訳だが、背中から肩を組まれ、両脇に現れた二人の闖入者へと不躾な視線を投げる。


「セシル、ジュリー、私は少し用事が――」


「まあまあ、いいじゃないの。少しお姉さんたちと遊んでちょうだい」


 すっかり出来上がった様子のセシルが赤くなった顔で言う。ブロンドはめちゃくちゃに乱れ、目はアルコールで潤んでいる。酒臭い息が顔にかかるのを堪え、アキは困ったように立ち止まった。反対側からはジュリーの賢しい視線が注がれる。


「あれぇ、アキ。あんた、リガルんとこに行こうとしてたわけ?」


「そうです。ですからお相手は後でしますので、離してもらえませんか」


「でもさ、ホラ」空いた右手に持っているシャンパンの瓶の口を振って、ジュリーはリガルを示す。「あいつは今、バカやってる最中さ。気にせずに女の団欒と洒落込もうじゃないか」


「ジュリー、呑みすぎです。セシルも、いつも以上にしつこさを感じます」


「いいじゃない、みんな気になってんの。ジュリーとフィリップはいい感じだけど――」


「ぶっとばすよ、セシル」


「――あなたとリガルは、なんというか、清潔すぎるのよね。そこらへん、女なら気にはなるでしょう?」


 アキははたと困り果ててしまった。助けを求めて、ブラウンの瞳で青年を見やるが、彼はイーライとフィリップに羽交い絞めにされて何やら詰問されている。サンタ帽をかぶってはしゃいでいた余韻はどこにもなく、ただ傍らでエプロンを身に着けたキャロッサがどう止めに入ろうかと迷っていた。

 リガルとの関係。そう問われれば彼女は困ってしまう。

 恐らくはリガルとて同じことであろうが、生体端末と人間の恋愛事情など経験した者は皆無であろうし、よく言われる「プログラムとの恋愛」という意味ではない。確かに、自分の中にある多くの構成要素を操作できる事は、アキは否定しない。しかし人間と同じで、自分ではどうにもできない部分を抱えてもいる。戸惑いは数多くあるが、しかし不思議なほどの確信を抱いたまま、アキは遠くでクリスマスの余興に飲まれつつある青年を愛しているのだった。

 それを愛情と呼ぶほど、彼女はまだ感情に慣れてはいない。この身体を手に入れるまでは恐らく手に入れることの無かった生理作用。人間特有の、他社とのつながりを深める極めて抽象的な概念。それが具象的な精密機械の身に宿るとは、偶然と呼ぶにしても末恐ろしいものがある。

 アキは長い間、人と接してきた。しかしその歴史の中に、女性に肩を組まれて連れていかれるという出来事は含まれてはいない。

 結局、テーブルのひとつへ連れていかれてしまった。半ば強引に椅子へ座らされ、アクトウェイが第一艦隊と軌道を違えることの無いように操作を続けながら、セシルが目の前のグラスにシャンパンをなみなみと注いでいくのを、何か悪魔の儀式でも目撃している様な形相でアキは見つめていた。


「で。どこまでいったのよ。手はつないだのかしら?」


「セシル、アンタそこから聞くのかい。こういうのはキスからだよ、どうなんだいアキ」


「ちょっと、今、私が聞いてるじゃない」


 女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだが、この場合は自分がいなくても姦しさにはいささかの衰えも出ないのではないかと、頭の隅でちらりと思った。


「リガルとは、特に何もありません」


「え、でも、手はつないだでしょう?」


 驚くセシルへ向け、アキは首を振った。試しにグラスに口を付けてみる。苦い。


「いえ。そうしたスキンシップはしていません。先手を打っておきますと、特に膝を交えて話すということもありませんよ」


「嘘でしょ。堅物とは思ってたけど、そこまでなんて。女ってものを何だと思ってんのかしら」


 その堅物に大きく依存している人工知能を前にしているのだから、少しは何かに包んで物を言えないだろうかという期待は、どうやら今の彼女については無意味である様だ。

 もう待ってられないとばかりにジュリーが身を乗り出した。


「アキ、それでいいのかい? 満足かい?」


「何を以て満足しているのか、という議論から始めるのが妥当でしょうね」


「生体端末か。アキ、前から思ってたけれど、アンタみたいな生体端末なんて他にいやしないよ」


「まあ、他の個体と何かが違うのは、認めます」


「なら話は早い。自分が人工知能だとは思わない事だね」


「何故ですか」


「アンタが、自分が人工知能であるという理由で、リガルの好意を無碍にするのは許せないからさ」


「………」


 何も言い返せなくなってしまい、アキは黙り込む。そんな彼女を愛おしいと思うリガルという男の心境が、ジュリーには少し理解できた。

 彼女は素直すぎるのだ。裏が無い。今、表に表わしている感情が彼女の感じる全てで、良くも悪くも他人を嫌う事がない。敵意はあっても、その人間の本質を憎む事が無いのだ。

 何故か。まだ憎しみというものを知らないから。自分の中に会得されていない何か、未知のものとしか彼女は憎しみを感じていない。

 なら、仮に彼女が憎しみを覚えた時、どんな事が起こるのか。

 ジュリーは背筋を走る悪寒を、必死に無視しようとした。グラスを握る手が、一瞬だけ震える。

 アキは、この船をくまなく把握している。今も隣でセシル・アカーディアに絡まれているこの純朴な女性が、憎しみに駆られて我を忘れた時。この船はいったい、どんな行動に出るのか。どれだけの被害が出るのか。クルーである自分達の安否は? 外に浮かぶ兄の乗るコンプレクターは敵となるか?

 恐らく、事態を防げるのならばリガルだけだろう。いや、もしかしたら、彼に不幸が訪れた時こそ、彼女が憎しみを覚えるその時なのかもしれない。

 愛憎は表裏一体なのだ。

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