一三二年 十一月一日~ ①
・アリオス歴一三二年 一一月一日 大型巡洋船アクトウェイ
また、この黒い大地に立っている。少し感慨深く感じながら、リガルは暇つぶしに外殻を軽く蹴りつけ、その硬すぎる表面に思わず顔を顰めた。
一見して、宇宙の深遠とアクトウェイの外殻とを見分けるのは、満天の星空がすっぱりと途切れているかどうかで、足下には深淵とも思える黒い船体が遊弋している。これほど巨大な物体の表面に居ては、それを大地と勘違いするのも無理も無い事であるが、体の隅々まで染み渡っている無重力特有の体重が無い感覚と痛いほどの静寂が、彼のそういった認識を境界線から一光分当たりの位置に留まらせていた。
前回、ここにやってきた時は、旧アクトウェイがレイズ星間連合領宙で海賊船に叩きのめされ、この船がふらりと現れてからだった。あの商船を改造した小さな海賊船がアクトウェイへと乗り込んで破壊と略奪の限りを尽くそうとしていた時、この巨大な船が突如としてやって来て、彼らを木端微塵にしたのだ。その時の圧倒的な戦闘力を鮮やかに想起してみると、この得体の知れない船に愛着を持っているのはひとえにあの出来事があったからなのかもしれない。
人間、自分の命を助けられるという行為には特別な何かを感じ取る。相手が自分を助けたのだから、そこに敵意は無い筈だと無意識のうちに思考し、それを最大限利用して救助者である彼、或いは彼女とのつながりを持とうとする。一度助けてもらったのだから次も助けてもらえるだろう、という楽観的な方向へ思考が走るのだ。事実として、ドラマチックな救助劇の救助者と被救助者が連絡を取り合い、親密な仲になるのは古来から続く恋愛物語にありがちな展開であるし、最古のヒーロー物語などを顧みても、やはり助ける側は助けた側と何がしかの交流を持つパターンが少なくない。一定の時期を過ぎれば、そういった生物の生存本能的に必然的な反応を王道にすぎるとみなす風潮が強まり、時折、発掘された化石の様に埃をはたかれながら生き延びてきたこの現象の一端を「吊り橋効果」などと呼ぶ。
人のつながりというものは如何に希薄なものでも、消え去ることは無い。途切れると思われているものは、限りなく零に近いだけだ。そこから回復させることは当事者のどちらかが死亡でもしない限りいつでも可能であるが、この繋がりがひときわ太く、濃くなると、そこに板をかければ人が通れるくらいにはなるだろう。吊り橋効果とは要するに、互いに強い結びつきを必要とせざるを得ない状況に陥った男女が、互いの間に深く横たわる溝に繋がり、関係とも呼ばれる細いロープを渡して、それを無理矢理太くしていった結果ともいえるだろう。細いロープで渡された橋よりも、なるべく丈夫な橋を渡りたいのが人情だ。
そういう意味では、この黒い船ともそのような関係が成り立つのではないだろうか。
アクトウェイには命を助けられたことになる。リガルは感慨を込めて、磁力で外殻にくっついているブーツを頼りに身をかがめ、宇宙服の分厚いグローブ越しに撫でる。と、心なしか、微かに伝わってくるパワーコアの唸りが高くなった気がして、リガルは驚き、次いで微笑んだ。自分は丸腰のまま、あの白い男と相対しなければならないかと思っていたが、どうやらそれは見当違いだったらしい。いつも通りにやればいいのだ。クルーたちも息をつめてこちらを見てくれているし、どんな船よりも頼りになる、このアクトウェイもいる。アキも、どこかしらの船外カメラでこちらをモニターしているに違いない。
自分は、この宇宙で独りではない。その実感が無重力の足の裏に確かな足場を与え、彼はしっかりした仕草で、漆黒の大地に再び立ち上がった。
そろそろかと、宇宙服のヘッドアップディスプレイで時刻を確認した時、何がしかの直感が働いて、リガルは天頂をふり仰ぐ。
白い船。アクトウェイより少し大きな船体を持つが、恐らく同型艦と呼んで差支えないデザインをした戦艦。あの船首には、アクトウェイの物より幾割か強力な、凄まじい威力を誇るエネルギー兵器が装備されている。以前の戦闘では、バレンティアの戦艦に匹敵するほどの火力だった。まだ目にしてはいないが、どこかに眩暈がするほど大量のミサイルも積んであるに違いない。機動力は未知数で、これはリガルの勘だが、恐らくはアクトウェイと同等かそれ以上。フィリップはとんでもない機関出力を持っていると推察していた。それが正しいならば、力技でいくらでも応用が利くに違いない。大質量による運動量の違いこそあれど、速度や加速力は決して見劣りはしない筈だ。管制補正装置も大型で出力の大きい物を搭載していると考えられ、機動力、防御力、攻撃力と、非常に高いレベルでバランスの取れた船であることは、それらから容易に推察することが出来た。
今、その船の外殻に、かろうじて見とめられる程度の大きさのハッチが開く。針の穴のようなエアロックから純白の宇宙服を着こんだ人影がひょっこりと出てくると、ハッチを閉め、大胆にもそのまま跳躍した。リガルは驚きと共にその様子を見つめる。惑星重力の影響を受けるこの衛星軌道上で万が一にも漂流することになれば、救助隊の到着を待たずして大気圏に突入してしまう。細胞の一辺すら残すことなく消滅してしまうだろう。正に自殺行為。そんなことをしでかす人間が宇宙にいるとは、彼には到底信じられなかった。
いや、と彼は首を振る。
もしかしてあの男は人間ではないのではないか。リガルはあり得ない感想を飲み込む。人間であるなら、あれほど無謀な事はできよう筈もない。
その時、白い宇宙服が、黒い宇宙服の僅か五メートルほどの距離にふわりと舞い降りる。着地の反動で体が浮き上がる前にブーツの磁力吸着機能をオンにし、アクトウェイの外壁に綺麗に張り付いた。だが反動だけはあまり打ち消せなかったらしく、しばらく無重力特有の体がぽんぽんと跳ねる様な動作を繰り返した後、男は滑らかな足取りでリガルの元までやってきた。
「なんてこったい」思わず独りごちた自分の声がヘルメットの中に微かに響き、リガルは顔を顰めた。
リガルもそうだが、アクトウェイの船外カメラで成り行きを見守っているクルーたちの目には、まったく同じ背丈の男が二人並んでいるように見えた。宇宙服のデザインは色さえ違えどほぼ同一で、背丈も一ミリの誤差も無いように同じに見える。反射材で中が見えないヘルメットバイザーの奥にある顔を覗き込んでみても、もちろん顔をうかがい知ることはできないのだが、それでも同じような顔をしている事だけは容易に想像がつくし、何より立ち居振る舞いが吐き気がするほど同調されていて、正に鏡の自分を見ているような感覚に、リガルは不快感を覚えずにはいられない。。
白と黒。
男と男。
放浪者と破壊者。
彼らはどちらともなくヘルメットに据え付けられている無線通信機能のチャンネルを合わせ、白い方が溜息交じりに残念そうな声を出した。
「スモークをオフにしてくれないか。顔が見えないと、何に話しているのか分からなくってね。無人工作機械でもないんだ、互いに目を見て、対等に話そうじゃないか」
男が言う。リガルは宇宙服の中で肩を竦めて見せた。こういったジェスチャーは宇宙の果てに行っても滅びることは無い。特に、こうして表情をうかがい知ることのできない宇宙に生きる人間にとっては、ジェスチャーはまさに手話そのものだ。意思疎通の手段としては最古のものに違いないが、どんな技術革新が待ち受けていても廃れる事はないだろう。
「顔が火傷をしてしまうよ。直射光は命に関わるし、このままでも話はできる。そんなことも知らないのか?」
「知っている」男の声は、面白がっているのか苛立っているのかわからないほど、微かに震えていた。「なに、私の船が傘になるから大丈夫だ。ここからではわからないだろうが、あの船は今もアクトウェイの外殻上、この地点を影にするように細かな軌道修正を行っている。確認してみたまえ」
「嘘はついていません」
一方通行の通信で、アキが伝える。それを不審がるリガルではなかったが、ここでクルーたちと通信がつながっている素振りは見せたくなかったから、嵩張る宇宙服のポーチから携帯端末を取り出そうと手を動かしたのだが、それを嘲笑するかのように男の声が遮った。
「なんなら、私の方からオフにしようか」
言うや否や、頭上――無重力なので判断しにくいが、少なくとも直上にいる――を完璧にアクトウェイと機動を同調させている白い船が、慎重に姿勢制御スラスターを吹かすのが見えた。途端に眩しいほどの太陽光が遮られ、アクトウェイの外壁と宇宙の区別がつかなくなり、お互いの姿も見えなくなった。が、宇宙服にはこうした状況を考えてヘルメットの中の顔をライトアップする機能がついている。男はスモークをオフにすると、青白い光に浮かび上がったその顔を見せた。異様に白い肌が青白い照明に照らされ、死人の様に見える。まるで生きている死体だ。自分自身の、歩く死体。想像するだけでぞっとしない男の相貌に、リガルは軽い悪寒を覚えた。
「ほら、君もオフにしたまえよ。私だけがこうしているのは不公平じゃないか。アクトウェイが”軽い眩暈”でも起こしたら、それで私はお陀仏になってしまう。この密閉された宇宙服の中で、顔の皮膚がケロイドになる臭いは嗅ぎたくないのでね。賢明な君にはおわかりのことと思うが」
「――わかったよ。俺もオフにすればいいんだろう」
「危険です、船長――」
リガルは渋々、首元にあるスイッチを押した。途端に薄くなっていた外の景色が鮮明になり、男の白い顔が余計白く見える。忠告を無視した彼に、ヘルメットの通信機からクルーたちの苛立だしげな溜息が聞こえてきた。それを悟られない様に慎重に無表情を装いながら両手を広げて見せると、白い男は嬉しそうな笑みを見せた。
「さて、何から話そうか。君と話すことは本当に、星の数ほどもあるんだよ、リガル。この日のことを何度夢見たか、数え切れないくらいだ。何せ、一一〇二回からあとは数えていないものだからね。君の方はどうかわからないけれど、まあ自己紹介から始めようか」
「そうしてくれるとありがたい。こちらだけ名前を知られているのも君が悪いし」
その言葉に、男はわざとらしく小首をかしげて見せた。まるで道化だと心の中で揶揄しながら、リガルは不快感を必死にこらえて返事を待つ。
今は、この男をより知るために力を尽くすべきだ。ゴーストタウンで現れたこの男が、あのテロリスト集団を統率しているのだとすれば、ここで得た情報は後々になって重要な意味を持ってくることは確実なのだ。アスティミナの泣きじゃくった顔を思い浮かべて、腰に差したブラスターへ手を伸ばさない様に必死に自制するのも、死んでも顔には出さない。
「フム。それは違うな、リガル」思いもかけない否定の言葉がかえってきて、彼はしばしの間、意味が呑み込めずに黙り込んでいた。
「どういう意味だ」
「言った通りの意味だよ。君は私の名前を知っている。そのちっぽけな脳味噌の奥底に、それはもう厳重に隠してあるだけだ。どういう仕掛けかは……ま、言わないでおこう。話がややこしくなっては君も面倒くさいだろうし、楽しみはとっておくものだ。人生に味気がなくなる」
「もう、既に面倒くさいし、そんな心配はいらないくらいに人生は煌びやかだよ、エネルギービームとミサイルでね。君らのせいで迷惑を被るのは三回目だ」
意外だったのか、男は片眉を上げた。どうして三回なんだ、と問う彼に、リガルは淡々と答える。
「レイズ=バルハザール戦争は君らの仕業だろう。なんとも迂遠で、古風な手を使ったものだ。内戦の終結から早期に力を付けたがっていたバルハザール宇宙軍に、隣国で経済的に豊かな資源と発展を誇っていたレイズ星間連合を軍事侵攻するに足るこれ以上ない戦力として、あの純白の無人艦隊を送り、極右政権が支配しているかの国を戦争へと誘った。結果、戦争初期よりレイズ星間連合宇宙軍の奮闘により民間人の犠牲は最小限に抑えられたものの、多くの戦死者をだし、バルハザールは今や銀河連合の管理下に入って、今も無辜の市民が困窮の苦渋を舐めながら遠い復興の道へ歩みだしたばかりだ。
二つ目はゴースト・タウン。オリオン椀で有数の富豪であり、その資産はどの国家もまるで無視できないどころか、交通の要衝であるアルトロレス連邦のさらにハブとなっている宙域とステーション、通称、黄金の花束の領主たるニコラス・フォン・バルンテージ氏を誘拐して、短期間なりとも人類社会の経済に影を落としかけた」
「だから?」
無神経にすぎる男の言葉に、リガルは低い声で言った。
「今この瞬間にも、何万人の人間が望んでもいない苦渋を舐めているのか、わかっているのか?たったひとりの肉親を失いかけた少女がどんな苦しさ、悲しさ、悔しさを抱いたのか、君は知っているのか!」
男は、ああ、と納得したように声を漏らす。
「なるほど。君は記憶はなくしていても、能力までは劣っていないようだ。恐らくはバレンティアの情報部でもそこまで確信を持ててはいまい。いや、一部の人間は違うかな?ああ、そういえば伝言を残したか。私に出会って戸惑っていなかった所を見ると、メッセージは届いていたようだね、何よりだ。あの元帝国貴族の大富豪は重要な因子でね、殺す事は始めから考えちゃいなかったんだよ。信じちゃくれないだろうが、あの女の子然り、あの件で黄金の花束の住人を殺すつもりはなかった」
この男は何を言っているのか。先ほどのリガルが言ったことを聞いていたのではないのか。
命の話をする上で、人間は二種類の話し方をする。ひとつは、命以上の価値は無いという論法。尊重されるべきは人命で、金や思想もその黄金に光り輝く人類の至宝の前には無価値であり、天秤の上に乗せて量れば必ずそちらに傾く。反対に、命ほど軽いものは無いという論法は、言うに及ばずその逆である。
この男は、正に後者だ。命を、人間を、自分が行うものの構成要素としか見ていない。
臨界点まで達しそうになった怒りを、リガルがどうにか抑え込むことが出来たのは、脳裏にアキの顔が浮かんで、言ったからだ。「船長、今はその時ではありません」。
「破壊者が。今回で三回目だぞ。うちのクルーの肉親が乗っている船を攻撃していたな。君はもう少しであの船を撃沈し、彼女を哀しみのどん底に引き落とする所だった。あの戦闘を見て、彼女がどれだけ―――」
「昔から変わらないな、君は」
遮って呟かれた言葉。その呆れ果てた彼の口調に、リガルは頭の中で何かが切れる音を確かに聞いた。
「俺はお前の知っているリガルではない!全くの別人だ。俺はお前を知らない。お前のような――冷酷無比な屑とは無縁だ!」
「いいや、リガルは宇宙にたったひとりだ。君以外に居る筈が無い。ここまで来ると重傷だが……時間もあるしいいだろう。それくらいの余興が無ければ期待外れというものだ」
リガルは滑らかな動作で腰のホルスターからブラスターを抜く。小さなエネルギー兵器を嵩張るグローブ越しに握りしめながら、リガルは男の眉間に銃口を向けた。照星に重なったヘルメット越しの男の目は面白がるように彼を見つめ返し、ひらひらと両手を上げた。その仕草の一つ一つに挑発的な要素が計算深く入り込んでいて、極めて不運なことに、リガルにはそれに気付いてしまった。
この男は、自分を怒らせようとしている。そう考えるとここで銃をしまった方が良いのだろうかと考えがよぎるが、こいつが殺されるつもりならそれでも良いと、銃床を固く握りしめ、トリガーガードに指をかけた。
「今すぐに目の前から消えろ。もう俺に――いや、俺の船に関わるな。今すぐにテロ行為から手をひけ。まだ間に合う、俺の目が黒いうちは」
「おいおい、いつの時代の映画俳優だ?そんな台詞は今どき流行らないぜ、リガル。私ならそんな安っぽい台詞は口になんてしない」
「黙れ。五秒数える。その間に―――」
「アキは元気か?」
後頭部を何かで殴られたような衝撃と共に、くらりと地面が歪むような錯覚が彼を襲った。
まったく、まったくの不意打ち。リガルは言葉を喪い、体の各所から力が抜けていく感覚に溺れる。アクトウェイの外殻は形を無くして溶けだしていく様であり、一瞬、パールバティーの輪郭と宇宙の境界線も曖昧になり、頭上の白い船すらも視界から消え失せるほどの脱力感が彼を襲う。ここが無重力でなかったら、膝から崩れ落ちていたに違いない。不敵な笑みを消し、まったくの無表情で見つめてくる白い男は、先ほどとは比較にならないほど平坦な声でいった。
「君は彼女に昔から入れ込んでいたからな。今も一緒にいるとは思っていたが、まさか本当にその通りだとは。その様子だと、彼女も私のことを知らない、或いは覚えていないんだろう。悲しいよ、君達二人に忘れられるなんて。それに、この無線を傍受しているのは彼女だろう?ここ数年で随分と人間らしくなったものだ。君のために惑星政府が所有する大型展望台の望遠レンズをハッキングして、こちらを伺っているのに気付いていないのか、リガル。そう、ちょうどあのあたりだ」
リガルは、震える手に持った銃口を降ろし、この人間離れした、怪物のような男が指を指す緑の惑星を見つめる。
そして、問う。
お前は何者だ、と。
「ようやくそれを聞いてくれたか。やれやれ、まさか銃を向けられることになるとはね。私としても、ここに来た理由を慮ってくれて嬉しいよ。だが、もう少し良い邂逅を希望していたんだ」
男は心底残念そうにつぶやくと、あの不敵な笑みをまた浮かべた。
仮面のようなその笑みが、男の本性であるに違いなかった。
「ジェイス」
同時に、訳の分からない懐かしさが胸に湧き上がる。それがどうしようもなく不快で、まるで他人の臓物が体の中に入り込んできて、自らのそれと入れ替わる様な感覚がする。
「思い出してくれたか、兄弟」
思い出すわけが無い。何故なら――
「俺は、お前を知らない……ジェイス」
「そうでもないさ、リガル」
男は、頭上に頂く白い船を仰いだ。リガルは反対に、下にある黒い船を見下ろす。
「ジェイス。テロリストたちの首謀者はお前なのか」
「そうだ」
簡潔な答え。リガルは尚も問うた。
「何をするつもりだ」
「戦争」
「どこと」
「どことでも」
「仲間はいるのか」
「たくさんいる。昔は銀河帝国とか呼ばれてたかな」
半ば想定していた返答に驚きは無いものの、大変な無力感が彼の中に渦巻き、荒れ狂っていた。
「帝国の残党か。目的はなんだ。何故、お前たちは争乱を起こす。今のままでみんな幸せなのに。戦争なんて、起きない方がいいのに。人だって、無意味に死ぬことになんの意味がある?なんの権利があって君は人を殺す。幼い少女まで涙で目を腫れさせてまで為すべきものなど、宇宙のどこにもないのに」
「本当に、そうかな?」
二人は顔を見合わせる。そして、黒い方が視線を逸らした。
恐らくは、自らの胸の内に沸いたひとつの答えから目を逸らす為に。
「その様子だとわかっているみたいだな」男の言葉は、為す術もなくリガルの胸中に深く切り込んでくる。やめてくれ、と、声にならない悲鳴を上げた。
「そう、愛情だよ。人間が真の愚行に走らせるのは憎しみや怒りではない。それらは激しさという点で、他の感情より優位に立っているが故に、他人へと危害を及ぼす。それだけのことで、忌避される。だが、感情毎に設定された人間の行動という点で見た時、愛情豊かな人間ほどとんでもないことをしでかすことがある。それはつまり、人間にとって最も真っ直ぐな感情が愛情だからだ。その真っ直ぐさ故、人間はこれを美徳とする。そして美徳は人々の価値観を大いに捻じ曲げ、愛する大切な者を守るために何でもする、それこそが崇高な行いだという風著が生まれる」
地球上で、これはしばしば戦争の口実とされてきた。国家における軍隊はその戦争遂行における意思決定を政府に頼る。だから、軍人は戦うよりも戦わせられる意識が強い。災害復興支援などは例外だが、戦闘行為を目的として何かしらの行動を起こす時、その動機は命令されたからであり、必ずしも自分本位の決定ではない。それ故に、彼らは自らが戦地へ赴くことの意味を胸の内に問う。そうでなければ、現実として具現化した地獄である戦場において、明確な自分という意識を保持することは困難であるからだ。自分はなぜ戦っているのか、なぜ顔も知らぬ他人を殺しているのか。本当にそこに居る意味が無いのならば、それら命を落とした戦友や敵に対して、甚だ不謹慎で、無礼なものとなるのではないか。そのような意識を救い出すのが愛国心であり、絆だった。今でもそれは変わらない。自分以外のどこかに大義を抱くことで、人間は初めて戦いを自己正当化する手段を得る。そして、それらの大義は愛情と無関係ではいられないのだ。
軍人に限らず、殺人をはじめとする重大犯罪の中でも、多くは愛情をこじらせたとでもいうべき案件がいくつも含まれている。人間の愛情は時に殺意へと転化される。それは真っ直ぐであるが故に、自らの手では制御しがたい暴れ馬のようなものだ。いつの間にかそれに引きずられ、それを正しいと思うようになると、実は理知的に見えて手が付けられない。見境が無い、というべきだろうか。
「ひとつ、忠告しておこう。これからオリオン椀は、史上類を見ない、初めての戦争に巻き込まれることになる。その中で、君の言う幸せというものが如何に脆いのかを知ることになるだろうが――」
ジェイスは、悲しい目でリガルを見た。憐みの目。憐憫以外の色さえ見えない、真実の感情を宿したその瞳。
「――君にできる事は何もない。だが気落ちすることは無い。君は独りなのだし、動員できる戦力も精々、重巡洋艦クラスの船が一隻。それだけで宇宙を止める事が出来るのなら、誰も苦労はしないのだから」
「―――」
「今日はここまでだ。為すべきことは為した」
ジェイスは去っていく。ブーツの底の磁力機能をオフにすると、そのままアクトウェイを蹴り、あの白い船へ向かって飛び上がる。
「待て、ジェイス――」
「リガル、それ以上は不要だ」無線通信のクリアな声が、予期していたかのように遮る。「答えを知りたくない問いは、するべきではない」
彼は何も言えずに、頭上の白い船へと戻っていく男を見つめる。
そこで気付いた。彼は、星の瞬きのような高みに在るのだということに。




