一三二年 十月二十一日~
・アリオス歴一三二年 一〇月二一日 大型巡洋船アクトウェイ
結局、敵の船と完全な停戦状態に至るまで、一日かかってしまった。危険なほど接近した二隻の船を、まずは慎重に引きはがすことから始まり、その上で、安全にアクトウェイの中に残された海賊達を敵の船、コンプレクターへと移送。軌道を同調し、周辺宙域から最寄りの星系を割り出してそちらへと向かうべく進路を修正した。それらの後始末が全て終わった後、ハンスリッヒは再び、大胆不敵な笑みを浮かべてアクトウェイに舞い戻ってきた。
気さくな様子で手を振ってくる彼を見つめながら、リガルは複雑な思いで、隣で腕を組み顔を顰めているジュリーを見やる。よく焼けた肌の色と、眩しいほどの金髪を持つこの女性のことを、思えば、リガルはよく知らなかった。フィリップやイーライ、セシルだって同じだろう。フリーランスの航海士だったという話だが、もしかしたら海賊だったのかもしれない。いや、もしかしたら彼らの仲間だったのかも。
「なにじろじろ見てるんだい、リガル」
どきりとして、リガルは思わず正面を向き、ハンスリッヒの趣味の悪い紫色の航宙服を見つめながら咳払いした。ジュリーは鋭い目で彼を睨み付け、口元を皮肉気に歪めている。
「いや、その、なんだ。綺麗だなと思ってさ」
彼女は大げさな溜息をついて、肩を竦めた。
「言い訳がそれかい。まったく、天性の女たらしだね。そんな軽々しく女を褒めるもんじゃないよ」
「本心だよ。君が静かになるなんて、今までなかったからな。この機会によく見ておこうと思って」
「失礼だね。ま、世辞も悪くは無いさ。船長、先に言っておくと、私とあそこの馬鹿男は旧い知り合いなんだ。旧知の仲ってやつ。これから色々と話すけど、それはクルーには話さないでいてくれるかい?頼むよ」
もう一度、今度は驚きの表情でリガルはジュリーを見る。空気の循環のため、格納庫には常に緩やかな風が吹いている。その人工的な空気の流れに彼女は目を細めて、着崩した航宙服のポケットに両手を突っ込んだまま、首だけを彼に向けた。問いかける様に、片眉が吊り上がる。
「わからないな」リガルはそういった。彼は既に無表情に戻っている。「君がそう言う理由がわからない」
「そういうと思ったよ」ジュリーは含み笑いを漏らした。
「何を、かな」
「今の台詞さ。優しすぎるよ、あんたは。私達が秘密を持っていることを知っているくせに、それを後ろめたいものだとは微塵も思っちゃゃいない。ま、そこが美点だけどね。けれど、綺麗だからって美しいとは限らないもんさ。あそこの野郎や、私みたいに」
既に間近までやってきたハンスリッヒに向けて、ジュリーはわざと大きな声でいった。美男子はきらびやかな笑みを仮面のように顔に張り付け、リガルとジュリーの前に立つと、両手を広げて、さながら凱旋する英雄の如く振る舞い始めた。
「酷い言われようだ。お待たせして申し訳ない。コンプレクター船長、ハンスリッヒ・フォン・シュトックハウゼン、ただいま到着した」
「改めて、リガルだ。会議室を用意してある。三人で、そこで話そう」
やけに冷たい彼の手を、リガルは苦い思いと共に握った。
「話してもらおうか。洗いざらい全部。それこそ、銀河の星ひとつに至るまで」
会議室でキャロッサがコーヒーを並べて退出した後、リガルが告げた。
円形のテーブルを囲んでいるのは、ジュリー、リガル、ハンスリッヒ、そしてアキだ。彼女いわく、船長の安全保障ということで相席を名乗り出たのだが、それが好奇心によるものだということが、リガルにははっきりと分かった。こういう時、彼女は決まって無口になる。ジュリーやイーライにとっては、一緒に過ごしていてもほとんど喋らないアキが無口になる場面など、それが当然になっているので、判別など到底不可能なのだが、どちらにしろアキにはいてもらう必要があったので、リガルは了承したのである。
香り高い豆の芳香を楽しんでいた貴族風の男が顔を上げ、無駄のない滑らかな仕草で、紙コップをテーブルの上に戻した。その仕草のどれもが鼻につき、リガルは顔を顰めそうになるのを堪える。
「それよりも。改めて自己紹介をさせてもらおう」
勿体ぶりながら、ハンスリッヒは古めかしい帽子を脱ぎ、見事な金髪を撫でた。その仕草の前と後で、彼の鋭い目つきが、何か威厳の様な光を帯びたことに気が付き、リガルは息を呑み、自分の紙コップを口元へと運んだ。
「私の名前はハンスリッヒ・フォン・シュトックハウゼン。銀河帝国侯爵、カエスト・フォン・シュレンツィアの甥だ」
盛大にリガルがコーヒーを吹き出すのと同じく、アキまでもが、コーヒーをテーブルの上に”落としかけた”。ジュリーは面白そうに、二人の反応を無言で眺めている。アキがどこからともなくナプキンを取り出し、リガルがぶちまけたコーヒーの後始末にかかった。
「ということは、なんだ。君は、銀河帝国の?」
要約平静を取り戻して彼が問うと、ハンスリッヒは愉快そうにひと笑いした。
「そうだ。驚いたようだね。言ってはなんだが、今の顔は見ものだった」
「なんていうか、その……ハンスリッヒ」
「ハンスでいい」貴公子は短く、予断を許さない口調で訂正した。
「ハンス」言い直し、リガルはしげしげと目の前の男を見つめる。「予想外だよ。俺の名前はリガル。シングルネームだ」
心の中で、彼は呟いた。俺の名前、短いだろ。君みたいに長くなくて残念だぜ。そりゃあもう、その大層な名前といったら……さながら黄金だ。俺は真っ黒。目立たない真っ黒さ。
そんな彼の皮肉な心の声とは裏腹に、ハンスは顎に手を当て、小さく彼の名を呟いた。
「リガル。成程、良い名だ。それではリガル、単刀直入にお願いするが」
ハンスはジュリーに向かって微笑みかけた。彼女は鉄の様に冷たい表情で、ハンスを見つめ返している。
「彼女、ジュリー・バックを、僕に渡してくれないか」
瞬間、会議室が凍った。リガルの目は鋭く光り、アキは無言のままハンスを見つめ、ジュリーは呆れたと言わんばかりに天井を仰ぎみている。三者三様の反応を眺めながら、ハンスは優雅な仕草で掌を突きだし、尚も続けた。
「大丈夫だ、それ相応の代償は支払うつもりだよ。彼女がこの船にとって重要でない筈が無いし、私としても、それは先刻承知の上だからね」
リガルは我が耳を疑った。
「相応の代償?今、そう言ったのか、ハンス」
「言ったとも。もしかして、応じない?」
「聞くまでも無いだろ。彼女は俺の仲間だ。確かに、まだ会ってから一年も経っちゃいない。けれど、俺にとっては自分の命と引き換えにしても守りたいと思う、大切な仲間だ。そのジュリーを、いきなり襲撃した上に寄越せだと?本気なのか」
涼しい顔で、ハンスは頷いた。
「そうだ。言っておくとな、リガル。これは至極真面目な話だ。ジュリーとは昔からの付き合いでね。私のコンプレクターで、ずっと航海長をやっていたんだ。彼女の運転は荒っぽくはなかったかい?ブラックホールに突っ込んだみたいだったろう」
その時、リガルの中で、半ばトラウマになりかけている光景が浮かんだ。レイズ=バルハザール戦争で、メキシコ星系の防衛戦をしていた時だ。数百隻のバルハザール艦隊のど真ん中を、まるでドリルの様に突き進んだ時のジュリーの運転は、ぶつからないのが不思議なくらい乱暴だった。ブラックホールに突っ込んだみたい……成程、良い表現だ。不覚にもそう思いつつも、リガルは首を振る。
ジュリーはかなりの腕前を持っている。結局、今まで一度も航路を外れたり、何かに衝突したりというありきたりな事故と無縁でいられたのは、彼女のお蔭なのだ。それはいつでも起こり得る事故であって、容易に予防し得るものではない。確かな実力と、経験に裏打ちされた直感が必要な才能だ。
リガルは椅子に背中を預け、ハンスのペースに乗らないよう、アキの表情をちらりと見た。彼女の目が訴えかけてくる。”船長、この男を料理してもいいですか?”
「ハンス、彼女の不審を誘おうっていうのなら無駄だ」
まだ駄目だ、と、アキに密かに首を振りながら、リガルはハンスに言った。
「彼女が人を殺していたとしても、俺は彼女を見限ったりしない。ジュリーは、良い人間だ。それは変わらない。過去の出来事で本人を見誤るなんて愚かなことはしないよ」
その言葉は予期していなかったのか、ハンスは軽く驚いたようだったが、熱心にジュリーへと語りかけた。
「そうか?なら、ジュリー。君の口で説明してあげた方がいいんじゃないか。その過去とやらについて」
彼女は、口を一文字に引き結んだまま黙り込んでいる。何か、言いたいことを言えずにいる子供みたいな顔で、黙りこくったまま俯いている彼女を横目で見ながら、リガルは彼女が口を開くのを待った。
が。結局口を開いたのは、彼女ではなく、ハンスの方だった。
「言えないか?まあいいさ。リガル船長、今回の件は申し訳なかったな。いきなり後ろから撃つのは、実はあまり趣味じゃない」
「悪趣味な船に乗っているくせに、よく言うよ」
ハンスは鼻で嗤って見せた。
「何とでも言えばいいさ。彼女が事情を話した頃に、また僕は現れる。それまで、しっかり話し合っておいてくれよ」
謎めいた言葉を残し、ハンスは立ち上がった。
コンプレクターが姿を消した後、様々な船内の調整のためにクルーたちが右往左往している時、ちょうどいい時間だからと、リガルは自室にこもって航海日誌を整理していた。船長として、今日のハンスリッヒのことから、細部にいたる自分の感想、クルーたちの様子などを書きつけていき、厳重な保安プロトコルをかけて、アクトウェイのセントラルコンピュータに確保された、膨大な容量の記憶領域に保存する。
これで、今日一日は、酒を飲むだけで終了だ。そう思い、それまでは艦橋に張り付いていようと立ち上がった時だった。
ドアの前に立つと、スイッチを押すまでもなくドアがスライドする。驚いて顔を上げてみると、通路からの光を背に、長髪の女のシルエットが浮かんでいるのが見受けられた。暗い部屋の中でコンソールをいじくっていたせいか、逆光で顔がよく見えない。
「リガル、ちょっといいかい」
声でジュリーだと分かった。リガルは一歩後ずさって、顎をしゃくって彼女を中へ招き入れる。今までにないほどしおらしい仕草のジュリーは、まるで別人のように、薄い灯りに綺麗な横顔を晒していた。リガルは、半ば予想していた彼女の来訪を、歓迎するでも、拒絶するでもなく、ただ受け入れていた。
しばらく、彼女は部屋の中央で突っ立ったまま、無言で床を睨み付けていた。ここにやってきた生身の女性は、実は滅多にいない。というのも、アキが少しばかり出入りするほかは、セシルやキャロッサが用事で訪れるくらいだからだ。彼女以上に落ち着かなかったリガルは、適当に出してきたコニャックの瓶をテーブルの上に置き、ショットグラスに僅かな量を注ぎ淹れた。それまで、身じろぎひとつしなかったジュリーが、琥珀色の液体を目ざとく見つけ、寂しく微笑む。
「酒はいらないよ。今から大事な話をするんだ。呑んでなんていられないさね」
リガルはグラスを片手で玩びながら、短く鼻を鳴らした。
「そうか。話が何かは知らないが、気が向いたらでいいよ、ジュリー。君が無理をすることは無い」
「本当に優しいね。そうさね。そろそろ、私も腹を括る時が来たみたいだ」
それから、ジュリーは傍にあった、先ほどまでリガルが座っていた椅子を引き寄せると、航宙服の皺を片手で伸ばし、その上に、足を折りたたんで腰を下ろす。リガルは背を向け、自分の分のコニャックに口を付けた時だった。
「アクトウェイの船長、リガル。あなたにお話しすることがあります」
思わずむせ返り、彼はすっかり別人になった、目の前の見たことも無い女性を見つめた。髪型も、服装もジュリー・バックのままなのに、その佇まいたるや、どこかハンスと通じる様な気品が溢れていた。
女は尚も続ける。
「私は銀河帝国が貴族、カエスト・フォン・シュレンツィアが姪、ジュリエット・フォン・シュトックハウゼンと申します。リガル船長。貴方に折り入ってお願いがあり、この度はお部屋まで失礼いたしました」
開いた口が塞がらず、目の目にいる美人は一体誰だろう、この船に密航していたのか。いやそれならアキが見逃すはずはない……そんな思考を進めた後、我に返って、リガルは航宙服の袖でだらしなく開いていた口元を拭った。
「ジュリー・バックという名を騙りこの船に乗り込んでいたことは謝ります。ですが、どうか私の話を聞いてください」
「ちょ、ちょっと、ちょっと待った!」突拍子もない話しに、リガルは思わず口を挟んだ。
「何が何だか分からない。君は……いや待てよ、カエスト・フォン・シュレンツィアの姪ってことは、君はハンスリッヒと……」
女性は頷く。その仕草のひとつひとつが緻密で、優雅で、妖艶なほど美しい何かを纏っていた。
「ええ、兄妹です。私達は、オリオン椀大戦で落ち延びた銀河帝国の貴族、シュレンツィアの血を引いております。私たち兄妹は、連邦の情報部の手さえも逃れ、密かに用意した船に乗り、ここシヴァ共和国のある星系にまで逃げ延びました」
ジュリーが語った内容は、おおよそ以下のようなものだった。
百年前のオリオン腕大戦末期、バレンティアと銀河帝国の戦闘は泥沼化していた。後に膨大な数のノーマッドを統率してジェームス・ストラコビッチが戦争を終わらせる僅か一ヶ月前。目前にまで迫った自国の敗北と疲弊ぶりを憂慮した時の帝国内務次官補、カエスト・フォン・シュレンツィア侯爵は、帝国の未来を見限り、前線で亡くなり、少なくなってしまった親族を率いて、国外へ亡命する準備を進めていた。
が、当時の亡命相手など、バレンティアやその周辺諸国しか無く、止むを得ず彼は帝国領土内に身を隠すことにしたのだった。そこで終戦を迎え、シュレンツィア侯爵は親族と共にシヴァ共和国のある星系に存在する星に住み着き、住民と共に生活を始めた。
戦争の集結からおよそ八十年が経過した頃、生まれたのがハンスリッヒ・フォン・シュトックハウゼン、そして、ジュリエット・フォン・シュトックハウゼンだった。二人は、この平穏な時代でも生きていけるよう、ジュリー・バックと、ハンス・バストーリオという表向きの名前も与えられた。兄妹は仲が良かった。貴族らしい生活をかなぐり捨て、地元住民との親交を深めていた彼ら一族は、穏やかな暮らしの中にあった。
しかし、いつからか、ハンスリッヒは宇宙を見つめていたのだという。分からなくもない、とリガルは思った。彼が宇宙を旅する理由と、ハンスリッヒのそれとはまったく同然のものだったから。無限の暗闇にある光を探りに行きたいと思うのは、半ば強迫観念となって、リガルの心の奥にも住み着いている。
そして、ハンスリッヒは最愛の妹をも宇宙に誘った。ジュリーも、人一倍宇宙への好奇心は強く、それは半ば、狭苦しい惑星から外に出たいという願望もあったのだが、結局、彼女は兄についていくことにした。
その折、どういう訳かその星で短距離戦術超光速航法の実現のために実験されていた、今のコンプレクターが打ち棄てられていた。連邦は巨額の軍事費と復興費で困窮していた時期だから、成功はしていたものの、実用性を見出せなかった短距離ジャンプ装置を載せたその船は、錆だらけの船体を星に隠していたのだ。
ハンスリッヒはまず、この船を生き返らせることに尽力した。ジュリーももちろん手伝ったが、たった二人でアクトウェイに匹敵する巨艦を整備するなど、到底無理な話だった。
そこで、一ヶ月に一度、隣の星系を往復している輸送船に頼み込み、人員を募った所、今もコンプレクターに乗っている筈の彼らクルーが集まり、そこからコンプレクターを地元住民の力も借りて何とか修復、航行可能な状態にまで仕上げたのが、ジュリーが二二才の時だった。
そこからは航海の日々だったという。念願の黒い海原へと身を滑らせたコンプレクターは、ありあわせの塗料で紫色にペイントされた。
「当初は、あの短距離ワープを使って海賊の攻撃を掻い潜り、安全な貿易を約束する放浪者として、生計を立てておりました」
結局、リガルは普通のグラスに水を注ぎ淹れて彼女の前に置き、自分はベッドの上にどっかりと座り込んで、同じように水のグラスを静かに傾けていた。確かに、ジュリーが言った通り、まるでドラマめいた兄弟の宇宙冒険譚を聞いていては、酒なんて飲んでいられなかった。彼女はリガルを見ないで、壁の一点に視線を集中して話していたが、やがてリガルに顔を向けた。
「楽しかった。兄も、クルーも優しくて、信頼し合っていました。今のこの船の様に。規模は、もっと大きかったけれど」
「でも、降りた」ぶっきらぼうに、リガルは言った。ジュリーは頷く。
「そうです。切っ掛けは、私の父と母が亡くなったことでした。二人とも、重い病で。田舎の星でしたから、もう見つかった時には手遅れだったんだそうです。私は、兄と二人ですぐに星に帰りました。クルーたちもついてきてくれて、無事に葬式は挙げました。
その後からです。兄が、商船を襲い始めたのは。人は殺さなかったけれど、私は耐えられなくなって、船を降りました。それから、兄とは連絡を取っていなかったのですが、しつこく追い掛け回されて……」
「そうしているうちに、アクトウェイに辿り着いたって訳か。性格や経歴すらも偽って、あの始まりの酒場に、君はやってきた」
彼女の背負っている過去に思いを馳せることなどできよう筈もない。リガルはグラスを空にしながらそう思った。今まで聞かされたこと全ては、極論、彼にとっては他人事だ。とやかく言うことはできないし、するつもりもない。
だから、彼にできることは、きっと彼女のこれからのことだ。
新たに水を注ぎ淹れたグラスをテーブルの上に戻しながら、リガルは一息ついて、それから話し始めた。
「で、結局、どうしたいんだ。君は、それを話すためだけに俺の部屋に来たわけじゃないだろう。そこからの話をしよう」
「はい。仰る通り、今の話は前座です。要旨はここからなのですが、私を―――」
「船から降ろせって言うのなら、断る」
ジュリーの目を見て、リガルははっきりと告げた。
その瞳に浮かんでいたのは、ハンスに彼女を渡せと言われた時と同じ、クルーを守るという決意だった。
「何が何でも断る。たとえ体のどこかが吹き飛んでも、断るぞ、ジュリー」
彼女は真っ直ぐにリガルを見据えた。彼女とは思えないほど、静かで、率直な視線だった。岩に染み入る清水のようなその瞳は、憂いで淡く濡れている。薄暗い室内で、男と女は一頻り視線を交わし、やがて男の方が口を開いた。
「それよりも、ひとつ聞きたいことがある」
リガルは立ち上がり、彼女の手つかずのまま放置されているショットグラスを持ち上げ、中身を一気に飲み干した。焼ける様な酒の味が胃の腑に転がり込む。
「何でしょうか」
「今の君と、いつもの君。どっちが本当なんだ」
彼女は黙り込んだ。答えられないだろうな、それもそうだ。しかし、あえて言うなら―――
「今の私です。今の私が、本当の私です」
言い切る彼女を一瞥し、リガルは軽い溜息をつく。言葉が口から零れない様にするので精一杯だった。ほらな、ジュリー。君は勘違いしている。そんな状態で船を降ろす訳にはいかないだろう?
「なら、尚更降ろす訳にはいかない。言っておくが、人の目を盗んで船を降りようと思うなよ。アクトウェイには女神がいるんだ、本物の女神がな。彼女の目を盗むことなんてできないし、俺が許さない」
「何故ですか」低い声で、叫ぶように、彼女は言った。「あなたが仲間を大切にするのは知っていますが、こればかりは、私に害を為します」
「どのように?」
「兄は、また襲いに来ます!」
精一杯の声で、彼女は訴えた。椅子から立ち上がり、両手を握りしめて、子供の様に叫んでいる。
「あの機動を見たでしょう。私はあの船でも航海長をしていたからよくわかります。兄がその気になったら、逃げることはできません。どれだけ速度を出しても、一回のワープで終わりなのです!」
「確かにな。だから、君はあの船がワープするタイミングも分かったという訳だ」
皮肉なリガルの口調に動じることなく、彼女は頷いた。
「そうです。彼がこの船を攻撃するたびに、私は身も心も締め付けられる。たとえ限りなくゼロに近い確率でも、クルーに危害が及ぶのは、身を裂かれる思いです。船長、お願いします。私を船から降ろしてください」
彼の航宙服に縋るように、ジュリーは懇願した。
「私を、助けてください」
彼女は、アクトウェイを傷つけたくないのだ。リガルにはそれが痛いほどよく解ったし、同情もする。しかし、そこだけは譲ることはできなかった。彼女がクルーを傷つけたくないと思うのと同じように、リガルはクルーを守りたいと思っているから。
ちっぽけなシャトルで艦隊の目の前に飛び出すような男に何を言っているんだ、と、イーライなら言うだろう。自嘲的な笑みを口元に閃かせながら、リガルは彼女の両肩に手を置いた。
「無理だな」
短い言葉に、ジュリーは顔を上げる。彼女の目尻から零れ落ちる涙を人差し指ですくい取って、彼はゆっくりと、ほっそりとした指を自分の襟から放した。
「何故なら、君は勘違いしているからだ。君を助けるというのは、言われなくても助けるつもりだからいいとして。そのままでは到底降ろすことはできない。傷付くと判っていることに、俺は、仲間を放り出すつもりはない」
ジュリーは肩を落とした。「そうですか」と短く、力なく呟く。
リガルは頷いた。
「そうだ。だが、そうだな。俺が君の条件を拒絶した代わりに、君にひとつ教えよう」
困惑した顔で再び顔を見あげるジュリーに向かって、彼はおもむろに、一台の携帯端末を取り出した。それは彼の私物で、いつも愛用しているものだ。ジュリーを始め、クルーなら誰でも見たことがある一台で、船内のあらゆる場所に設置されている無線ネットワークから、様々な情報を送受信することができる優れものだ。
「これは?」
「俺の携帯端末。見たことあるだろ」
「ええ、でも……」
彼女の困惑した顔が、みるみるうちに青ざめたものになっていく。悪戯をした子供みたいに、リガルは少しだけ楽しみを覚えながら、その表情の変化を目で追った。
「まさか」
「そのまさか、さ。アキに頼んで、これをクルーの端末に流している。君の告白は全て筒抜けだよ、ジュリー。秘密にしろ、という話は、もう無理だな」
口をパクパクと、開いたり閉じたりしているジュリーを尻目に、リガルは端末に向かって喋った。
「船長より各員へ。イーライ、ジュリーを降ろしていいか?」
「断固拒否、です、船長」
砲雷長が答えた。リガルは次々と問いかけていく。
「フム。フィリップ?」
「珍しくだけどな。イーライと同意見だぜ、リガル船長」
「キャロッサ?」
「降りてほしくありません。私以外の人が淹れるコーヒーが好きなのなら、しょうがないですけど」
「セシル」
「言うまでもないですが。船長が降りていいと言ったなら、私がブラスターで脳天をぶち抜く所でした」
「アキ」
「船長と同意見です。航海長の解任は認められません」
「船長、あんたは―――」
いきり立って叫んだジュリーの声は、クルーが知っているものに戻っていた。彼女は慌てて口に手を当てるが、もう遅い。
リガルは勝ち誇った顔をした。
「それでこそ、俺達のジュリー・バックだ」
彼は立ち上がり、部屋のドアを開ける。
「好きなだけここにいていい。君にも、彼らに会う準備があるだろうから。ただ、次に君に会った時、たとえ君が男になろうと何になろうと、俺達は君を見捨てはしないよ。俺達にとってのジュリー・バックは、宇宙でただ一人。君だけだからな」
じゃあな、と、彼はハッチを閉めた。
独り残された薄暗い部屋で、彼女は悔しそうに唇を噛み、やけくそに、傍に置いてあったコニャックの瓶を、そのまま一口だけ煽った。
「まったく。だから優しすぎるっていうのよ、このキザ野郎」
目尻からは、何か温かいものが零れだしていく。その分を埋める様に、ジュリーはまた、一口瓶を煽った。
「ジュリー、どうしますかね」
航海長の席だけが空いたままの艦橋で、セシルが言う。リガルは隣に立つ彼女のブロンド色の髪の毛をちらりと見てから、キャロッサが淹れたコーヒーを一口飲んだ。
「さあな。俺には解らん。だが、いずれ彼女が決めねばならなかったことだしな」
澄ました様子で答えるリガルに、セシルは訝しげな目で顔を覗き込み、吐息が顔にかかるほどの近さで言った。
「判ってたんですね。ジュリーにああいう秘密があるってこと」
彼は目線を逸らし、軽く口笛を吹き始めた。セシルは呆れ果てる。
「どうして言ってくれなかったの、リガル。彼女のこと」
リガルはコーヒーをもう一口飲んでから、座席を左に少し傾け、頬杖をついて、セシルの髪の毛をいじろうとしたが、彼女の手で払われ、赤く腫れた掌をさすった。
「最初から気が付いてた訳じゃない。ピンと来たのは、最初にハンスと会って、話した時かな。やはり兄妹だな。目元がそっくりだ」
「凄いと言うか、なんというか。そんなことから、今回のことについて推測したの?」
「ぼんやりとだけな。本当に、ぼんやり。確信を得たのは、ハンスが色々と会議室で暴露してくれた時だ」
「ふうん。それで、彼女が苦しむのを見てたのね」
「ただ見てた訳じゃない。手は差し伸べるつもりだった。けど、こういう問題って、人に言われて納得できるものじゃないだろ?自分で考え込む時間が、少しは必要だ。違うかい?」
「まあ、確かにね。今回は、貴方に負けたわ」
セシルがリガルの肩に手を置いた時、ハッチが開いた。クルーたちの目が全てドアへと注がれる。
ジュリーだった。いつものはだけた航宙服に、片手に持ったポケットウィスキー。少しだけおぼつかない足取りと眠そうな目が、じろりと艦橋を眺めまわし、そのままリガルの下へやってくる。
「ジュリー」
リガルが呼びかけると、彼女はいきなり彼に抱き着いた。セシルは髪を逆立てて硬直し、キャロッサは軽く悲鳴を上げる。アキはジュリーを凝視し、イーライとフィリップは顔を見合わせたままだ。
「お、おい。どうした」
「リガル船長」掠れた、どこか魅惑的な声で彼女は囁く。「今回のことについては礼を言うよ」
「あ、ああ。いや、礼を言われるほどの事でもない」
「フン、可愛くないね。そこがいいところだけどさ」
ジュリーはリガルから体を離し、硬直しているクルーたちの間を縫って、自分の立ち位置に辿り着いた。そこからイーライを睨み付ける。
「何見てんだい、イーライ?」
「いや、何も見てないよ。見てない」
あたふたと自分の作業に戻るイーライは、隣にいるフィリップに囁いた。
「なあ。今のジュリーとこないだのジュリー。どっちが本物だと思う?」
フィリップは、白い歯を見せて声も無く笑った。
「そりゃお前、船長の言う通り、俺達のジュリー・バックはあいつしかいねぇよ。どれが誰って問題じゃない。そんなの、被を見るより明らかさ」
リガルはそんな会話もつゆ知らず、ただ身を硬直させて、自分のコンソールに届いた、アキからの秘匿インスタントメッセージに目を奪われている。そこにはこう書かれていた。
「不用意に女性と抱擁を交わすのは、少しどうかと思います。後でお話ししましょう」
後ろのオブザーバー席を振り返る勇気も無く、リガルは独り呟いた。
「やれやれ。女ってのは、どうも扱いが難しいもんだ」
新たに一つのメッセージが届いた。開くと、「聞こえています」という短い文章が、これ以上ないと言うくらいの単調な文字でつづられていた。




