第1章1
あれから10年の月日が流れた。
パスツレラ大陸の最南端に位置するレプトスピラ王国。
その城下町。‘麦酒の宿’という看板を掲げた宿屋は、今日も多くの宿泊客で賑わっていた。
レプトスピラ王国は、農業大国である。気候は温暖で天災も少ない。肥沃な大地と豊かな海がもたらす恵みが、この国を支えている。
ほとんどすべての食料品が自給率100%を超え、自国民を養って、尚、余りある食糧を他国に輸出している。特にパスツレラ大陸全土で消費されている小麦・とうもろこしの、実に90%はレプトスピラ産である。
レプトスピラ王国は、決して武力の強い国ではない。しかし、食糧を大量輸出し、各国の命綱とも言うべき‘食’を握る事で、軍隊の力なしに他国に有無を言わさぬ権力を手にしている。
‘麦酒の宿’は、1階が酒場、2階が宿屋になっており、宿泊客のほとんどは、1階の酒場で夕食代わりに一杯やってから、部屋で休む。
この宿の麦酒は、レプトスピラ独自の醸造法で作られた特産品で、これを目当てに来る客も多い。
ある1組の男女がこの宿を選んだのも、それが理由だった。男はどこでも良かったのだが、女がここにすると言ったのだ。女の方も、取り立てて麦酒が好きなわけではないが、‘特産品’という言葉に弱いのである。
「はいよ、いらっしゃい!」
その男女が入口を開けると、恰幅の良い女将の威勢の良い声が響いた。
男女のうち、女の方は緩いウェーブのかかった赤髪を腰まで伸ばしていた。腰に大剣を帯びている事から、戦士である事が伺える。しかし、防具は軽そうな胸当てのみで、二の腕や太腿は露出している。防御力よりも、身軽さを優先させた装備だ。
少々、生意気そうだが、なかなか美しい顔立ちをしており、ドレスでも着せておしとやかに座らせておけば、かなりの美女であろう。しかし、残念な事に、この女はドレスなど着た事はなく、おしとやかに座っている事もない。
男も、戦士風の出で立ちだった。女の持っている大剣よりも、やや小ぶりの剣を腰に帯び、黄土色の板金の鎧を身に着けている。鎧の上からなのではっきりとはわからないが、戦士にしては、やや細身のようだ。引き締まってはいるが、それほど太くはない手足が、鎧から伸びている。
目にかかるかかからないか程度の長さの黒髪は、少し周りの目をひいた。パスツレラ大陸では、黒髪の人間は珍しいからである。
女も男も、深緑の瞳に切れ長な目つきをしていた。パーツとして見れば、それはよく似ているのだが、不思議な事に、女の場合、それは生意気そうな印象を周囲に与え、男の場合、それは大人びた印象として周囲に伝わっていた。