前編
「いい加減、いい年齢なんだからさ、もうこういうバカなことはやめなよ」
「わかってるさっ……げほっげほっ」
父さんは、俺の言葉に激しく咳き込んだ。
……熱は39.2。もちろんこれは立派な風邪だ。しかも、どうやら肺炎を併発しているらしい。非常につらそうなのだが、その原因を聞けば同情する気は誰にもおきないだろう。
「……50に手が届こうっていう男が、真冬に日比谷公園の噴水で水遊びするのはどうかと思うよ。……いくら酔ってたってさ」
「……バカ野郎。記憶にないことを言うなっ……げほっ」
ほんとツラそうなんだけどね。
でも、やっぱり同情する気はおきないんだよ。
「良かったね、警察沙汰とかにならなくて……」
何しろ勤め先は、大手都市銀行。ほんのちょっとのそういう醜聞がリストラネタになりかねない。
私的に非常に恨み骨髄の俺は、父さんの一番いやがることを言ってやる。
「……全然似てないと思ったけど、父さんも祖父ちゃんに似てるんだね、そういうとこ」
父さんは俺を怒鳴りつけようとして、激しく咳き込んでベッドに倒れ臥す。俺はそっと布団をかけなおしてやると、病室の外に出た。
(……ったく、最後の最後に最悪の年末だよ……)
溜息を大きくつく。
「昌巳、どうしたの?」
ちょうど、戻ってきた母さんが、俺の顔を不思議そうに見ていた。
「何でもないよ。それより、父さん、ほんとに大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫よ。肺炎もお薬で治るそうだし……ちょうど会社も冬休みでタイミングが良かったわね」
こういうのをタイミングが良いと言ってしまってもよいのかと俺は少しだけ首を傾げた。
「なら、いいんだけど……」
母さんからの電話で父さんが救急車で運ばれたのだと聞いたときには、一瞬、背筋が凍った。
大手都市銀行の人事課に務める父さんは、真面目なだけが取柄のような人だ。
昨今吹き荒れるリストラの嵐にいつ飲み込まれるのかと俺は密かに不安に思っていたりもする。今のところ幸い父さんはリストラされる方ではなく、する側の人間なのだけれど、でも、自分が真面目に仕事をすればするほど、他人の首を切るというその結果に心を痛めていたことを俺は知っている。
それは俺の想像以上に父さんにとってはストレスだったらしい。
つい一昨日、父さんは忘年会……銀行とは一切関わりのない学生時代の友人達とのもの……に出席したそうだ。
ちょうど仕事納めの後ということもあってハメをはずしすぎた父さんは、同じくらい酔っぱらった同級生達とそのまま日比谷公園の噴水に飛び込んだのだという。(何てバカなことを)
そして、酔っ払い同士で水をかけあっているうちに足を滑らせて頭を打ち、そのまま動かなくなり、あわてた人々が救急車を呼んでくれたのだという。
幾ら酔っていたからとはいえ、俺にしてみれば、あの父さんが噴水に飛び込んだということが信じられない。しかも、真冬にその中で水かけっこをしていたなんて……たぶん、現場を直接見ても信じられないと思う。
何しろ、うちの父さんときたら、およそそういうことをする人物ではないからだ。
でも現実問題としてはそれが事実なわけで……俺は信じられないまでも、とりあえず結果の方はきちんと受け入れることにした。
病院での検査の結果、頭の方はただのコブだけということが判明したのだが風邪と共にひどい肺炎を併発していて、父さんはこの年末年始を病院で過ごすことが決定した。
……同時に、俺が年末年始を自宅で過ごせないということも決定した。
「それより、昌巳、ちゃんと準備はできているの?」
「できてるよ……」
俺はそっけなく言う。
突然の入院だった父さんは、空いている病室がなくて一人部屋。周辺の一人部屋の患者さんは皆、あまり症状が思わしくないのかひっそりと静まりかえっている。特に隣室の『佐伯』さんは、さっきからお医者さんや看護婦さんがあわただしく出入りしている。
(……年末なのにな……)
せめて、新しい年を迎えられれば良いのにと、見ず知らずの人の病状の好転を願う。真っ青な顔色で俺とおなじ年頃の女の子が病室に入って行く姿が目の端に残った。
「持ち直すと良いのだけど……」
同じことを考えていたらしい母さんが溜息をつく。
「……悪いの?」
「……みたいなの」
母さんは顔を曇らせる。だが、それを振り切るように話題を変えた。ここは病院で、そういう人がいるのは仕方がないことだった。
「新幹線の切符はちゃんと持った?」
「うん。別にグリーンじゃなくても良かったのに」
「バカね、この時期、グリーンじゃなきゃ座れないわよ」
そうか、Uターンラッシュだもんな。
「お土産も持ってくれた?」
「うん。ところで、何なの?この重いの」
俺は右手の紙袋を軽く持ち上げてみせる。
「虎屋の羊羹。お義父さんが大好きなのよ」
「ああ、祖父ちゃんの好物の栗蒸し羊羹?」
「そう。小倉のと合わせて全部で五本入ってるわ」
重いはずだよ……。羊羹は元々重いものだけど、数ある羊羹の中でも虎屋の羊羹ってのはとびっきり重い。羊羹の中の羊羹とも言うべき、とっておきだからだ。
俺はしみじみと溜息をつく。
「たいしたことないでしょ、男の子なんだから。……それともなに?静岡のおうちに行くのイヤなの?」
図星をつかれて俺はドキンとした。
「……イヤだよ」
だから去年の正月だって、GWだって、夏休みだって……法事だって何だって全部、部活で忙しいからって行かなかったんじゃないか。
「何で?翠ちゃん、会いたがってたわよ?あんなに仲良かったくせに……それとも、照れくさいの?」
この間、法事でお祖父ちゃんちに行ってきたばかりの母さんはからかうような眼差しを向ける。
「……別に」
照れくさいわけじゃない。
「あんなに翠ちゃん、翠ちゃんって言ってたくせに」
何も知らない母さんはくすくすと笑う。
「そうだけど……」
「翠ちゃん、すごーく美人になってたわよ。お母さんに似たのね。会ったらびっくりするわよ~」
翠ちゃんが、美人なことなんてとっくに知ってるよ。
俺は心の中で呟く。
「……やっぱ、俺、うちで過ごしたいんだけど」
「ダーメ。お義父さんも翠ちゃんも、あんたが行くのを楽しみにしてるんだから。だいたい、昌巳一人じゃあ、炊事も洗濯も出来ないでしょう?」
「そんなことないよ。寮で洗濯ぐらいしてるし……」
「あんた一人を家に置いておいたら、私が心配でお父さんの看病に専念できないの。おとなしく静岡に行きなさい」
母さんは病院の玄関を指差して言う。こういう風にはっきりきっぱり言われたら、俺が何を言っても絶対にダメ。
「……わかったよ」
俺は、今日何度目になるかわからない深い溜息をつき、病院を後にした。
□□□
普段は、新幹線の車内というのはわりと静かだ。
ただ、今日は年末のせいかどこかせわしないような気がした。
Uターンラッシュから少しはずれているとはいえそれでも故郷に帰る人たちは多いらしい。大きな荷物を持った人が何人もいたし、珍しく家族連れの姿も多い。
そんな中で俺の姿はちょっと違和感があったかもしれない。
まあ、自分が思うほど、他人は自分を気にしていないものだけど。
(翠ちゃん、か……)
俺は、記憶の中のその面影をなぞる。
翠ちゃんのフルネームは葛西翠という。
俺の姓も葛西で……つまり、血が繋がっている親族だ。年齢は、俺より一つ下。
高校1年の秋までは、我が家から徒歩10分のところにあった祖父ちゃんちで暮らしていたけれど、祖父ちゃんが静岡に引っ越すのと同時に一緒に引っ越した。
書道家である祖父ちゃんは、その世界ではなかなかの有名人だ。時々、テレビなんかにも出ている。
去年は、教育テレビの趣味の書道とか何とかっていう番組の講師も勤めていた。
今は、書を書くだけでは飽き足らず、自分の工房を構えてそこで紙漉きもしているのだ。ついでに、最近は陶芸にも手を出しているんだとこの間のメールで自慢してたな。
PCも携帯メールも使いこなし、さらには自分のホームページまで持っている祖父ちゃんは、根っから芸術家気質の人だ。うちの父さんと血がつながっているのが信じられないほどに頭が柔らかく、性格もぶっとんでいる。
(しかも、この年齢でまだ現役だし……)
一昨年だか去年だかは何とかっていう女優との写真が女性週刊誌にすっぱ抜かれていたし……。還暦なんかとっくに過ぎて、喜寿だって過ぎているくせに、不思議と女性によくモテる。まあ今は独身だから、別にスキャンダルじゃあないんだけど……。
(でも、翠ちゃんはいい気はしないだろうな……)
父さんは頭っから湯気出して激怒してたって言うからな。
うちの父さんのお母さん……つまり、俺のお祖母ちゃんが亡くなった後、祖父ちゃんは4回結婚して、3回離婚して1回死別した。その最後の奥さんが、翠ちゃんのお母さんだ。
呉服屋さんの店員をしていたところを祖父ちゃんに見初められたというその人は、本当に綺麗な人だった。俺もよく覚えているけど、和服の似合う日本美人だった。
俺は、お祖母ちゃんと呼ぶわけにはいかず、いつも翠ちゃんのお母さんと呼んでいたけれど、実際、翠ちゃんのお母さんはうちの母親よりも若かった。
翠ちゃんは、その人と祖父ちゃんの子供で……父さんの年齢の離れた異母妹……つまり俺にとっては年下の叔母に当たる。
でも、俺はそんなこと全然知らなかった。
翠ちゃんのお母さんは身体が弱かったから、翠ちゃんは近所の俺んちに預けられることが多くて、俺たちはまるで兄妹同然に育った。
俺が以前からの志望校であるサッカーの強豪である東慶に合格し、その寮に入る時、翠ちゃんは淋しいと泣いた。東慶は中高一貫の私立で、有名私立大学への進学率も高かったから、うちの親は反対しなかった。
俺は、サッカーをやる為に自分で選んだことだったけれど、寮に入ってからこっそり泣いた。なんでサッカー部は寮なんだろうと口惜しくも思った。
翌年、翠ちゃんが東慶に入学した時、俺は自分が合格したときよりも嬉しかった。
東慶は男女別学だったけれど、それでも、その姿を時々は目にすることが出来た。
それに、時々、翠ちゃんの弾くピアノの音が聞こえていたから、俺には翠ちゃんが近くにいることをはっきりと感じられたのだ。
祖父ちゃんが静岡に引っ越すことになって翠ちゃんが東慶を辞めてついていった時、俺の世界は一変した。
誰の目にも俺の変化がわからなかったとしても、俺の中ではごっそりと何かが抜け落ちた。
それに気付いたのは、親友の誠二だけだっただろう。
たぶんあの時が俺の幼年期の……あるいは、少年時代の終わりだった。
俺も翠ちゃんもあの時まで、自分達がどういう関係なのか、はっきりとよくわかっていなかった。
翠ちゃんは祖父ちゃんのことを『じじ』と呼んでいたし、祖父ちゃんと翠ちゃんのお母さんが結婚したのは、俺が小学校にあがった年だったからだ。
……俺の初恋は、翠ちゃんだった。
おっとりとしているくせに芯は強くて、目を離すと何をするかわからない翠ちゃんを、俺はずっと好きだった。




