「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」って、それそっくりそのままお返ししますね
その日、ヴィオラ・リブリッシュフィールド男爵夫人は、いつものように朝の市場へ出かけていた。
籠の中には、卵が十二個。鳥のもも肉が二枚。豆が二袋。それから、しなびかけた葉野菜が三束。
「奥様、今日も精が出ますね」
馴染みの八百屋のおかみが、しなびた人参を一本おまけしてくれる。ヴィオラは「いつもありがとう」と微笑んで、それを大切に籠の底へしまった。
男爵夫人が自ら市場へ買い出しに来ること自体、本来ならあり得ない話だ。けれど、リブリッシュフィールド家の財政事情を知っているのは、屋敷の中でもヴィオラと、年老いた家令のセバスチャンだけ。あとはみんな、ピカピカに磨き上げられた銀器と、毎晩テーブルに並ぶ豪華に「見える」料理を見て、「うちは裕福だ」と信じ込んでいる。
その筆頭が、夫のレバルモンドだった。
屋敷に戻ると、夫はちょうど起き出してきたところだった。十時を過ぎている。昨夜もどこかの夜会から明け方近くに帰ってきたらしい。
「おはようございます、あなた」
「うむ」
レバルモンドはろくに顔も上げず、ヴィオラが用意したカップに口をつけた。中身は、薄く淹れた紅茶だ。彼は「今朝の茶葉はずいぶん香りがいいな」と満足げに頷いている。本当は、昨日の茶葉を二度目に使っているだけ。けれど、ヴィオラが乾燥させた林檎の皮をひとかけら落としているから、なんとなくいい香りに「思える」のだ。
朝食には、ふんわりとしたオムレツと、焼きたてのパン。とろりと黄金色のソースがかかったオムレツは、卵二個を泡立てて二人分に膨らませたもの。ソースは鳥の骨で取った出汁を煮詰めて、胡椒を振っただけ。パンは、昨日の固くなったものを牛乳に浸して焼き直したフレンチトースト風。
レバルモンドはそれを「美味しい」とも「まずい」とも言わず、当然のように平らげる。ヴィオラはそれを、満足そうに見つめる。結婚して八年。ヴィオラは二十八になった。この八年で彼女が積み重ねてきた「努力」の年月は、数字以上に重い。
しかし、それに夫が気づくことは、一度もなかった。
§
異変が起きたのは、その日の午後だった。
屋敷の玄関先に、見慣れない馬車が停まっている。装飾過剰な、けばけばしい紋様。御者の制服も、どこかちぐはぐだ。
「セバスチャン、どなた?」
「それが……旦那様が、お連れになられて」
老家令の声が、明らかに困惑している。ヴィオラが応接間の扉を開けると、ソファに、夫と、見知らぬ若い女が並んで座っていた。
ふわふわのピンク色のドレス。指という指に光る大ぶりの宝石。香水の匂いが、部屋いっぱいに充満している。
「ヴィオラ。ちょうどよかった」
レバルモンドは、こちらを見もせず言った。テーブルの上には、すでに用意された一通の書類。
離婚届だ。
「俺は彼女、ロザリンド嬢と再婚することにした。お前とはもう終わりだ」
ヴィオラは数秒、瞬きをした。
「……理由を伺っても?」
「理由? 言わなきゃわからんのか。ったく、頭の足りない女だな」
レバルモンドは、隣のロザリンドの肩を抱き寄せる。女は勝ち誇った笑みを浮かべて、ヴィオラを上から下まで眺め回した。
「家のことしかできない、子も産めない、宝石ひとつねだることも知らない」
ヴィオラは無言のまま、夫の言葉を聞いている。
「その上、俺の稼ぎで食わせてもらってるくせに、ろくに化粧もしない、ドレスも仕立てない。お前のような地味で陰気な女と、八年もよく我慢してやったよ」
レバルモンドは呆れたように大げさなため息をつき、ロザリンドと顔を見合わせて鼻で笑った。
「俺の稼ぎで毎日美味い飯を食って、贅沢な暮らしをさせてもらってるくせに、愛想のひとつもないんだからな。……まったく、誰のおかげで生活できてると思ってるんだ! さっさと出て行け!」
夫は、テーブルを叩いた。
ヴィオラは、ペンを手に取った。
「あ、はい。わかりました」
そして、驚くほどあっさりと、離婚届にサインをした。
レバルモンドが、一瞬きょとんとした。何か粘られると思っていたのだろう。泣き縋られて、それを高みから蹴り飛ばす場面を期待していたのかもしれない。
けれど、ヴィオラはペンを置いて、にっこりと微笑んだ。
「では、私の私物だけ持って、本日中に出ていきますね。慰謝料は、貴族法で定められた最低額で結構ですので。逃げられないように、王立公証人を通させていただきます」
「……は?」
「それから、家計簿はキッチンの引き出しの三段目に。今月分の支払い予定表は、書斎の左の棚です。詳しくはセバスチャンが知っていますので、聞いてください」
立ち上がり、丁寧に一礼する。
「八年間、お世話になりました」
ロザリンドが、勝ち誇った顔で何か言っている。レバルモンドが何か喚いている。
しかしヴィオラの耳には、もう何も入っていなかった。
§
翌朝、ヴィオラは、自分のささやかな荷物と、長年こつこつと貯めたへそくりの入った革袋を抱えて、屋敷の門を出た。セバスチャンに「行き先は伏せておいてください」と頼み、乗合馬車に乗り込む。
行き先は、王都から馬車で二日ほどの、温泉で有名な田舎町。聖ナルディアという、湯けむりとパン屋と古い石畳しかない、小さな保養地だった。子どもの頃、亡き母に一度だけ連れてきてもらった町。
馬車に揺られて二日。聖ナルディアの町に着いたのは、夕暮れ時だった。緩やかな坂道に、湯気を立てる屋根の宿が点々と並んでいる。空気はほんのり硫黄の匂いがして、けれど不快ではなく、むしろ懐かしい。
ヴィオラは、目立たない場所にある「銀の鈴」という小さな宿を選んだ。看板の文字は少し掠れているけれど、玄関先の植木が手入れされていて、宿の女将の笑顔が温かい。
「お一人さまですか」
「ええ。しばらくお世話になりたくて」
「あら、それは嬉しい。うちは長逗留のお客さんが多いんですよ。お部屋に厨房はついていませんが、よかったら、下の厨房を空いてる時間に使っていただいてもかまいませんからね。食材の保管庫もありますから」
「あら、それは助かります」
聖ナルディアのような保養地の宿は、「自炊客」と「賄い客」を選べるのが普通だ。豪勢な料理を出してもらいたければ、宿の朝夕食を頼めばいい。けれど、ヴィオラのように長く滞在するつもりの客には、自分で食材を買って、宿の厨房を借りて、好きなものを作る方式が好まれる。料金もぐっと安くなる。
「取り敢えず、一週間お願いします」
「はい、ありがとうございます。ではご案内しますね」
通された部屋は、こぢんまりとして、けれど隅々まで掃除が行き届いていた。窓を開けると、町の屋根越しに、遠くの山並みが見える。
ヴィオラは荷を解き、すぐに浴衣に着替えて、宿の温泉に向かった。
湯に身を沈めた瞬間、彼女は、思わず声を漏らした。
「……はあぁぁ」
熱すぎず、ぬるすぎず。とろりとした柔らかい湯が、肩を、背中を、足の指の先までを包み込む。八年間、ずっと張り詰めていた糸が、ほどけていく音がした気がした。
(なんて、気持ちがいいんだろう)
誰にも気を遣わず、誰の機嫌も窺わず、ただ自分のためだけに湯に浸かる。
ヴィオラは、湯に浸かったまま、ふっと笑った。
§
聖ナルディアでの暮らしは、驚くほど穏やかだった。
朝はゆっくりと起きて、宿の食堂で女将の用意してくれる簡単な朝食。昼は町を散歩して、市場で食材を買う。夕方になると、宿の一階の厨房を借りて、自分の夕飯を作る。
新鮮な卵に、地元の山で採れたという香りのいいきのこ。市場の隅で安く売られていた野菜の切れ端。それらを使って、ヴィオラは久しぶりに「自分のための料理」を作った。
油でじっくり焼いたきのこに、塩をひとつまみ。卵をふんわり巻いて、上に少しだけバターを落とす。野菜は刻んでスープに。それから、市場で買った焼きたてのパン。
出来上がったら、皿に盛って、食堂の窓際の小さなテーブルに運ぶ。皿は宿の素朴な陶器。銀器も、銀燭台もない。
それでも。
「いただきます」
一口食べて、ヴィオラはまた、ため息をついた。
(……美味しい)
何が違うのかと言えば、たぶん、何も違わない。屋敷で食べていたものと、材料はそう変わらない。違うのは、向かいの席に、誰もいないことだ。
ただ、自分の好きな味付けで、自分の好きな量を食べる。
(誰の文句も聞かずに食べるご飯って……)
ヴィオラは、湯気の立つスープを一口すすって、しみじみと呟いた。
「……最高ですね」
そう。最高だった。
§
聖ナルディアに来て十日ほどが経った、ある夕方のことだった。
宿の食堂の隅の席で、一人の少年がじっと、テーブルの一点を見つめていた。
背は高い。けれど、まだ顔立ちにあどけなさが残っている。たぶん、十八か、十九くらい。麦の穂のような明るい色の髪に、本来なら日に焼けて健康そうであろう肌色。けれど、その肌は今、紙のように白い。
少年の前のテーブルには、宿の女将が出した素朴な夕食──鶏のシチューと黒パン、それから青菜のサラダが並んでいた。決してまずそうではない。むしろ、女将はなかなか料理上手な人だ。
それを、彼はほとんど手つかずのまま、ただ見つめている。
スプーンを一度、口に運ぼうとしては、止める。また持ち上げては、皿に戻す。何度か繰り返して、結局、深いため息をついて、テーブルに肘をついた。
ヴィオラは、自分の盆の皿の上を、ちらりと見た。
今夜のメニューは、市場で見つけた小さな白身魚のムニエル。バターの香りと、添えたレモンが効いている。それから、人参とじゃがいものポタージュ。とろりと甘くて、自分でもなかなかうまく作れたほうだ。
少しだけ、考えた。
ヴィオラは、自分のテーブルに盆を置くと、ポタージュの器をひとつ、手のひらで包んで、少年の席まで歩いていった。
「あの、よろしければ」
少年が、はっと顔を上げた。
近くで見ると、ますます顔色が悪かった。目の下にうっすらクマが浮いている。たぶん、ろくに眠れていない。
「ポタージュなので、お腹にも優しいですよ。……それに、ずっと宿のお食事では、少し飽きていらっしゃるのでは?」
少年は、まじまじとヴィオラの顔と、差し出された器を見比べた。
「……いいんですか。見ず知らずの俺に」
「同じ宿に十日もいれば、見ず知らずというほどでもありませんよ。それに、温かいうちに誰かに食べていただけるほうが、作ったほうも嬉しいんです」
ヴィオラは、にっこり笑って器を置いた。
「お口に合わなければ、残してくださってかまいませんから」
それだけ言い添えて、自分の席に戻る。何事もなかったように、ムニエルにフォークを入れた。
少年は、しばらく、ぽかんとポタージュを見つめていた。
それから、ようやく意を決したように、スプーンを器に沈めた。
ひとさじ、口に運ぶ。
──その瞬間、少年の肩から、ふっと力が抜けたのを、ヴィオラは横目で確認した。
二口目は、もう少し早く。三口目は、もっと早く。
少年は、結局、ポタージュを器の底まで一滴残らず飲み干した。
(よかった……)
たぶん、胃が疲れていたのでしょう。
宿の料理は、女将の腕もあって決してまずくはない。けれど、基本的には、長旅で冷えた身体を温める、こってりとした肉料理や煮込みが中心だ。旅の初日、二日目にはありがたいご馳走でも、何日も続けて食べていれば、胃袋は悲鳴をあげる。
あの子の顔色の悪さは、たぶんそれだ。重い料理を前に、食欲だけが萎えて、箸が止まる。
とろりと優しいポタージュが、ちょうど彼の胃袋に、するりと入ってくれたのなら、上出来だ。
それくらいのことは、ちょっと考えればわかる。
§
翌朝、宿の食堂で朝食をとっていると、向かいの席にすっと影が立った。
「あの、昨日は、ありがとうございました」
昨日の少年だった。今日は少し顔色がいい。手には、小さな包みを持っている。
「ああ、おはようございます。お腹の具合、いかがでした?」
「お、おかげさまで。あの、これ、お礼です。町のパン屋さんで朝、焼きたてを買ってきて」
差し出されたのは、ほんのり温かい、ぱりっと焼けた小麦のパン。
「まあ、ありがとうございます。嬉しい。一緒にいただきません?」
「い、いいんですか」
「もちろんです。お向かい、空いていますから」
少年は、緊張した面持ちで、向かいに腰掛けた。
「俺、エイリールといいます」
「ヴィオラです」
エイリールはようやく安心したような顔で、はにかんで笑った。
「あの、ヴィオラさんは、いつまでこちらに?」
「決めていないんです。気が済むまで」
「あ、俺も! えっと、俺も、まだ決めてなくて……」
エイリールは、ふと視線を落とした。
「実は、その、家を、出てきまして」
「あら」
「いえ、悪い意味じゃなくて。父が亡くなってから、いろいろあって。少し、頭を冷やしたくて」
「そうでしたか」
ヴィオラは、それ以上は聞かなかった。彼女自身、聞かれたくないことを抱えてここに来ている人間だ。同じ匂いがする相手には、深入りしないのが礼儀だろう。
その日の夕方、ヴィオラはいつもの通り、買ってきた食材を抱えて宿の厨房に下りた。今夜は、きのこのリゾット風と、青菜のおひたし。
出来上がった皿を盆に載せて食堂に下りていくと、エイリールはまた、隅の席に座って暗い顔をしていた。しかし今日は、ヴィオラを見つけるとぱっと顔を輝かせた。
「ヴィオラさん!」
「あら、今夜は食欲がありそうですね」
「はい、おかげさまで!」
ヴィオラは、自分の盆を抱えて、ふと考えた。それから、自分のリゾットの皿を半分、彼の前に分けた。
「これも、よろしければ」
「い、いいんですか!?」
「たくさん作ってしまいましたから。もったいないでしょう」
エイリールは、目を見開いて、リゾットの皿を見つめた。それから、おそるおそる、ひとさじ、口に運んだ。
その瞬間、彼の目尻が、すっと下がった。何かが、彼の中で、ふわりと溶けていったような顔だった。
「……美味しい」
「ふふ、ありがとうございます」
「すごく、美味しいです。ほんと。なんでこんなに、ほっとするんだろう」
エイリールは、本気で困惑した顔で、ヴィオラを見上げた。
ヴィオラは、それを「料理を褒めてもらえた」と、純粋に受け取った。
「ありがとうございます。エイリールさんさえよければ、明日も作りましょうか」
「ぜ、ぜひお願いします!」
「はい、かしこまりました」
ふわりと柔らかく微笑むヴィオラ。
エイリールは耳を赤くしながら、皿の底まで一粒残らず、リゾットを平らげた。
§
それからの数日、エイリールは目に見えて元気になっていった。
朝、食堂で会えば「ヴィオラさん、おはようございます!」と、犬の尻尾でも振りそうな勢いで挨拶される。夕方、ヴィオラが厨房から自分の夕飯を運んでくると、彼はすでに食堂で待っている。なにげなく彼の前に小皿を置くと、世界で一番嬉しそうな顔をする。
「ヴィオラさんの作るもの、なんでこんなに美味しいんですかね」
「まあ、少し工夫していますからね」
「工夫?」
「安いものを、できるだけ美味しく食べる工夫。ずっと、そういうのが昔から好きなんです」
エイリールは、フォークを止めて、まじまじとヴィオラの顔を見た。
「……ヴィオラさんって、料理人だったんですか」
「いいえ、ただの主婦ですよ。元、ですけれど」
ヴィオラは、軽く笑って、自分のお茶に口をつけた。
エイリールは、それから黙って、皿を見つめた。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わずに、ただ静かに料理を食べ続けた。
その夜、宿の女将がお茶を運んできながら、にやにやしながら言った。
「奥さん、気づいているかい? あの坊ちゃま、おたくに惚れてるよ」
「えっ。やめてください、女将さん」
「揶揄っているんじゃないよ。本当だってば」
「あの子、まだ十八ですよ? それに比べて私は二十八です。十も離れているんです。私みたいな出戻りに、惚れるはずがありませんわ」
「いやだから、そういうのを抜きで──」
「ご飯のお礼を、几帳面にしてくださっているだけですよ。育ちのいい子ですから」
ヴィオラは、にっこり笑って、お茶を飲んだ。
女将は、口を開きかけて、それから、深く深くため息をついた。
♦︎
一方、その頃。
王都のリブリッシュフィールド家では、すでに歯車が狂い始めていた。
離婚届を提出した翌日、ロザリンドは寝室の調度を見回すなり、不満そうに口を尖らせた。
「ねえレバルモンド様。今夜のディナーには、王都で一番の高級肉屋から、最高級の仔牛肉を取り寄せてちょうだい。それから、料理人、腕のいい人を呼んでちょうだいね。私、家庭料理なんか食べないんだから」
「あ、ああ、もちろんだとも」
レバルモンドは鷹揚に頷いた。今までの「地味な」食卓も悪くはなかったが、これからは本物の贅沢ができる。何しろ、リブリッシュフィールド侯爵家は──
そこで、彼はふと、首を傾げた。
(……そういえば、うちの料理人、誰だったかな)
考えてみれば、彼は長らく、厨房に足を運んだことがなかった。料理は黙っていてもテーブルに並ぶものだったからだ。セバスチャンに問うと、老家令は困ったように目を伏せた。
「旦那様。料理人は、もう七年前に暇を出しております」
「……は? じゃあ今まで誰が」
「奥様でございます」
「ヴィオラが!?」
絶句した。けれど、今さら考えている暇はない。ロザリンドの機嫌を損ねるわけにはいかない。レバルモンドは慌てて、安い職業紹介所に人をやって、その日のうちに「料理人」を雇い入れた。
ただし、腕のいい料理人は月に金貨五枚は下らない。ぎりぎりの予算で雇えたのは、まだ下町の定食屋の見習いを終えたばかりの、若い男が一人きりだった。
その夜の夕食は、悲惨だった。ロザリンドの注文通り「最高級の仔牛肉」は買い揃えたのに、調理がまったく追いついていない。表面は黒く焦げ、中は赤い。付け合わせの野菜はべちゃべちゃで、ソースは塩辛いだけ。スープは、ただのお湯に塩を溶かしたような味だ。
「な、何これ! 食べられないわよ!」
ロザリンドは、皿を押しのけて叫んだ。
「料理人を呼びなさい! こんな不味いものを私に食べさせるなんて!」
「ロ、ロザリンド、落ち着いてくれ……」
レバルモンドはおろおろと取りなすので精一杯だった。
事態が決定的になったのは、それから三日後のことだった。
「旦那様」
老家令のセバスチャンが、青ざめた顔で書斎にやってきた。
「肉屋からの請求書、仕立て屋からの請求書、宝石商からの請求書、それから、家具屋……合わせて、金貨にして二百枚を超えております」
「に、二百枚だと!?」
レバルモンドは、椅子から飛び上がった。
「そんな馬鹿な。そこまで使った覚えは──」
「ロザリンド様のドレスと宝石が、合わせて百三十枚ほど。あとは、先月旦那様が夜会でお作りになられた借りが四十枚、それに、以前からの掛けの累積でございます」
「……う」
レバルモンドは、言葉に詰まった。
「だ、だが、払えんことはないだろう。うちの月の収入は……」
「金貨、二十枚ほどでございます」
「二十!?」
今度こそ、絶句した。
「馬鹿な、そんなはずは。確かに領地の収穫はここ数年よくないと聞いていたが、しかし、うちは毎月、毎晩、あんな豪華な──」
「旦那様」
老家令の声は、悲しいほどに静かだった。
「奥様が、ご実家から持参されたご結婚の持参金。それから、奥様が書斎の隅で夜中に刺しておられた刺繍を、古い伝手を辿って貴婦人方にお売りになっていた内職のお金。そのすべてが、この八年間、毎月、この屋敷の生活費に充てられておりました」
レバルモンドの手が、震え始めた。
「奥様は、月に金貨三十枚を、ご自分の蓄えから足しておいででした。お食事についても、市場へご自分で足をお運びになり、安い卵や豆を買い、一晩水に浸してふやかし、すり潰して香草で香りをつけ、高級なパテのように仕立てておられました。古くなったパンは卵液に浸して焼き直し、果実酒の搾りかすでジャムを。茶葉は二度、三度と使い回し、最後には乾燥させた林檎の皮を加えて……」
セバスチャンは、目を伏せた。
「奥様は、八年間、ずっとそうしてこられました。旦那様にお気づかれぬよう、屋敷の体面を保つために」
「……そんな」
レバルモンドの顔から、血の気が引いていった。
そういえば、と彼は思い出す。ヴィオラは、結婚して何年目かの頃から、一度も新しいドレスを仕立てなかった。一度も宝石をねだらなかった。夜、彼が夜会から戻ってきたとき、書斎の小さな灯りがついていたことがあった。彼は「陰気な女だ」と鼻で笑って通り過ぎた。
あの灯りの下で、ヴィオラは、この屋敷の──彼の体面の──ために、一針ずつ、刺繍を刺していたのだ。
(俺は……俺は、ずっと何を見ていた)
それから、わずか一週間で、リブリッシュフィールド家は完全に崩壊した。ヴィオラの毎月三十枚の「持ち出し」が消えた屋敷は、もともと身の丈に合わない暮らしだったのだ。元の収入だけでは、使用人の給金さえ払えない。家具は次々と差し押さえられ、銀器も、絵画も、一枚残らず競売にかけられた。最後に残されたレバルモンドは、膝を抱えて、空っぽになった応接間の床に座り込んでいた。
(……ヴィオラ)
(ヴィオラはどこだ)
(ヴィオラがいれば。ヴィオラなら、なんとかしてくれる)
彼はようやく、気づいたのだ。毎朝のオムレツが、二個の卵で作られていたことに。毎晩の紅茶が、二番煎じだったことに。ピカピカに磨かれていた銀器を、誰が磨いていたのかに。そして、その全部を、彼は「俺の稼ぎ」だと思い込んでいたことに。
「セバスチャン。ヴィオラはどこだ」
「……存じ上げません。ただ、奥様は、子どもの頃、お母様と訪れた温泉町の話を、よくなさっておられました」
レバルモンドは、その言葉だけを頼りに、屋敷を飛び出した。最後に残った銀貨数枚を握りしめ、乗合馬車を乗り継ぎ、それから一ヶ月以上もの間、温泉町を一つ、また一つと、彼は這うように回り始めた。
♦︎
聖ナルディアに、秋風が吹き始めていた。
ヴィオラが宿にやってきて、ふた月が過ぎていた。湯に浸かり、美味しいものを食べ、夜はぐっすりと眠る。その繰り返しで、彼女の頬には、八年ぶりの血色が戻っていた。
その日、ヴィオラは、いつものように市場で買い物を済ませて、宿への坂道を上っていた。籠の中には、夕飯のための新鮮な卵と、立派なきのこ。
(エイリールさんの分は多めに作っちゃいましょうか)
そう思って、ヴィオラは小さく笑った。あの少年、最近はすっかり顔色がよくなって、食べる量も増えた。健康的になっていく姿を見るのは、悪くなかった。
そう、考えていたときだった。
道の脇に、誰かがうずくまっている。
ぼろぼろの上着。ひび割れた靴。伸び放題の髭と、垢じみた顔。
それでも、ヴィオラには、すぐにわかった。
(……あら)
夫だ。
正確には、もう「元」のついた、夫だった男だ。
ヴィオラが籠を提げたまま近づくと、男は地べたから顔を上げ、──そして、ぎょっとした。
「ヴィ、ヴィオラ……!」
「ごきげんよう、レバルモンド様」
ヴィオラの声は、湯上がりみたいに、穏やかで温かかった。
「お久しぶりですね。お元気そう……ではないようですけれど」
レバルモンドは、ぼろぼろと涙をこぼしながら、地面に額を擦りつけた。
「俺が悪かった! ヴィオラ、頼む、戻ってきてくれ! お前がいないと、俺は、俺は……」
声が震えている。
「お前がいないと、生活費の計算もできない! 屋敷は差し押さえられた! あの女は宝石を持って逃げた! 借金取りに追われて、もう、まともな飯も三日食ってない!」
縋るように、ヴィオラの裾を掴もうとする。ヴィオラはふわりと一歩、後ろに下がった。
「ヴィオラ! 頼む! お前のあの料理が、お前のあのやりくりが、なきゃ俺は生きていけないんだ! お願いだ、もう一度──」
ヴィオラは、湯上がりのつやつやした頬で、彼を、見下ろした。
そして、首を傾げて、にっこりと、本当に楽しそうに、微笑んだ。
「『誰のおかげで生活できてると思ってるんだ』って」
レバルモンドの動きが、止まる。
「それ、そっくりそのままお返ししますね」
レバルモンドは、口を半開きにしたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。何か言おうと喘いでいるが、言葉にならない。
そのとき、坂の上から、軽い足音が駆け下りてきた。
「ヴィオラさん! 遅くなってすみません、市場までお迎えに──」
エイリールだった。息を弾ませて駆け寄ってきた彼は、地面に這いつくばる男の姿を認めて、ぴたりと足を止めた。それから、ヴィオラの隣にすっと立ち、籠にそっと手を添える。
「……ヴィオラさん。こちらは?」
「ああ、エイリールさん」
ヴィオラは、ごく自然な調子で応えた。
「王都におりました頃の、元夫ですよ」
もう関わりのない人のことを、隠すほどのことでもなかった。
エイリールは、ヴィオラと、地面の男とを見比べて、ふっと目を細めた。
そして、ヴィオラが今までに見たことのない顔で、静かに口を開いた。
「……元、ですか。なるほど」
一拍、間を置いて、エイリールは地面の男に向き直った。
「──ノーフィールドと申します」
ヴィオラの肩が、少しだけ揺れた。
(……え?)
「北方、ノーフィールド侯爵家、当主。エイリール・フォン・ノーフィールド」
エイリールは、そう言って、レバルモンドに向かって、ごく軽く会釈をした。貴族同士の、形式的な挨拶だった。
(侯爵家の、当主?)
てっきり、裕福なおうちの三男坊か、四男坊か、そんなあたりだと思っていた。家を出てきたというから、相続争いに疲れて飛び出してきた気の毒な末っ子なのだろうと。
まさか、当主その人だったとは。
一方、足元のレバルモンドの顔からは、残っていた血の気すら、一気に引いていった。
「ノ、ノーフィールド……ノーフィールド侯爵家……!?」
北方の鉱山を掘り当て、今や王家にも食い込む新興の大貴族。末席男爵家ごときでは、同じ夜会の扉をくぐることすら、本来なら許されない家格。
「な、なぜ、そのような方が、ヴィオラと──」
「失礼ですが」
エイリールは、レバルモンドの言葉を、きっぱりと遮った。
「こちらの方は、あなたにはもう、なんの関わりもない方です。地べたに座り込んで、お名前を呼ぶようなご無礼は、お控えください」
声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。
「そ、そんな、だが、私はヴィオラのかつての夫で──」
「かつて、ですね」
エイリールは、軽く首を傾げた。
一拍。
エイリールは、ヴィオラの隣で、ごく自然に、彼女の籠を持つ手を、そっと自分の手のひらで包んだ。
「──今後、彼女をお迎えするのは、私の家です」
ヴィオラの、瞬きが止まった。
「ですから、かつての縁者様が、今後、彼女に用件を持って訪ねてこられるのは、一切、ご遠慮いただきたい。お話があるのでしたら、ノーフィールド家の窓口を通してください。──とはいえ、あなた様とノーフィールド家に、今後、通すべきご用件は何もないはずですが」
レバルモンドが、ひゅっと息を呑んだ。
かつて、「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」「地味で陰気な女だ」「八年も我慢してやった」と、踏みつけにした女が。
自分には生涯手の届かない、北方の大貴族の次期侯爵夫人として、目の前に立っている。
レバルモンドは、ずるずると後ずさった。口をぱくぱくと動かしたが、もう、言葉は出てこなかった。
そのまま、彼は這うようにして、坂の下へ、よろよろと転がり落ちていった。
後には、湯けむりと、秋の風だけが残った。
──エイリールは、大きく、息を吐いた。
ほっと肩の力を抜いて、頬を赤くして、ヴィオラのほうを振り向く。
「あ、あの、ヴィオラさん! ご、ごめんなさい、勝手なことを! でも、俺、その、本気で、ヴィオラさんのことを──」
「エイリールさん」
ヴィオラは、両手を合わせて、にっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
「……え?」
「とっさにあんな嘘までついて、追い払ってくださって。本当に、助かりました」
エイリールの顔が、ぱきっと、音を立てて固まった。
「う、嘘……?」
「あの方、きっとこれで、すっかり怯えて王都に帰るでしょうね。さすが、貴族のご当主様! 機転がお利きになりますね」
エイリールは、口をぱくぱくとさせた。
「い、いや、あの、ヴィオラさん、違うんです、俺、あれは──」
「それにしても、侯爵家のご当主様でいらしたなんて。全然、気づきませんでした」
ヴィオラは、籠を持ち直して、のんびりと坂道を上り始めた。
「とにかく、助けていただいたお礼に、今夜はたくさん召し上がってくださいね」
エイリールは、坂の途中で、ぽかんと立ち尽くしていた。
それから、ゆっくりと、両手で顔を覆った。
頬は真っ赤で、耳まで真っ赤で、ついでに首まで真っ赤だった。
「……ヴィオラさん、鈍すぎる……」
湯けむりの立つ坂道の中ほどで、彼の小さな呻きが、秋風に溶けた。
§
その夜。
ヴィオラは、宿の厨房できのこを、上等のバターでじっくり焼いた。香りだけで、食堂で待っていたエイリールが「うわぁ……」と声を漏らした。
「はい、どうぞ」
「ええっ、いいんですか!」
「たくさんありますから」
エイリールは、目を輝かせて、フォークを差し出されたきのこを口に運んだ。
その瞬間、彼の表情がふにゃりと崩れた。本当に、心の底から美味しそうな顔だった。
「美味しい……ヴィオラさん、ほんとに、美味しい……」
「ふふ、ありがとうございます」
ヴィオラは、フォークを置いて、ちらりと窓の外を見た。
「ヴィオラさん」
ふと、エイリールが口を開いた。いつもより、少し真剣な声だった。
「俺、もう少しここに、いてもいいですか」
「ええ、いいんじゃありません? 私だって、いつまでいるか決めていませんし」
「……そうじゃ、なくて」
エイリールは、耳を真っ赤にして、テーブルの一点を見つめている。何か言いかけて、結局、ふるふると首を振った。
「あ、いえ。やっぱり、なんでもないです」
「……? そうですか?」
ヴィオラは、くすくすと笑って、自分のスープに口をつけた。
(明日の朝食も、彼の分のパンを多めに頼んでおきましょうかしら)
そんなことを考えながら、湯気の向こうの少年を、ちらりと見る。
(さて)
明日の市場には、何が並んでいるでしょうか。
あのおかみさんは、また何かおまけしてくれるでしょうか。
明日の夕飯は、何にしましょうか。
そう考えるだけで、ヴィオラの頬は、ふわりと緩んだ。
湯けむりの町の、小さな宿の、小さな食堂で。
男爵夫人だった女は、八年ぶりに、心の底から、自分のための一日を、満喫していた。




