幼い頃の記憶 2
10年前、ケンジー教授に引き取られる前のこと。ロレンツォはI地区にある、小さな孤児院にいた。
ロレンツォは親の顔を知らない。物心がついた頃から、ロレンツォは孤児院で生活をしていた。
だけど、それは何もおかしなことではなかった。ロレンツォにとっては当たり前の事だった。
孤児院から学校に通うようになり、ロレンツォの当り前は普通ではないのだと気付いた。気付いたが、どうにかしようとなど思わなかった。孤児院にいる子達は、ロレンツォと似た境遇の子が多かったから。
ロレンツォが7つになる年のことだった。孤児院に、新しい子がやって来た。
新しくやって来た子は、4つか5つくらいの女の子だった。
ロレンツォよりも2つか3つ年下だろうその子は、誰とも仲良くなろうとしなかった。誰とも言葉を交わさなかった。シスターにさえも。
でも、誰もそのことを気にしていなかった。孤児院にやって来た子は、初めのうちはみんなそうだから。何かしらを抱えてやってくるものがほとんどだから。
ロレンツォは物心がつく頃から孤児院にいるから、初めてここに自分が来た時の様子は知らない。だが、他の子達のように、世界が呪われるとしても何も感じない。親も身内もいないロレンツォにとって、孤児院のシスター達でさえ、心を許せる相手ではないから。
親がいないという事実に深い劣等感を抱いたことはない。そもそもロレンツォには、親というものの良さがわからなかった。
この頃のロレンツォにとって、大人というものは、孤児院の子供を憐れむ、善人の顔をした醜い生き物にしか見えていなかった。そんな大人が、ロレンツォは嫌いだった。
いや、大人だけではない。この頃は、この世に存在する人間全てを嫌っていた。
だから当然、ロレンツォからあの女の子に話しかけることもなかった。ないと思っていた。あの時までは。
ロレンツォがあの女の子と話すことになったのは、ある意味事故だった。
孤児院では、4歳以上の子供達に仕事が与えられる。そうしなければ追い出されるというのではなく、自分達で生活する場は自分達で整える、という教えによるものだ。
4歳——実際には誕生日がいつなのかわからない子供が多いからある程度となるが——となった子供は、12歳以上の子に仕事のやり方を教えてもらうことになっている。
ロレンツォも3年くらい前に少しずつ色んな仕事を教わった。
初めは簡単な床の掃き掃除や拭き掃除、徐々に慣れてくると、花の手入れやシーツの交換、洗濯、炊事など、教わることが増えていった。
2年以上かけて、全ての仕事を覚えたロレンツォは、最近漸く1人で仕事をすることが許された。洗濯や炊事など、1人でできないものは他の子供達やシスターと協力してすることになるが、掃除や花壇の手入れなど、1人でできる仕事はロレンツォ1人で行うことになる。
週ごとに仕事の分担は変わるが、この週のロレンツォの分担は花壇の手入れだった。
ロレンツォは花が好きだというわけではないが、1人で黙々とできるこの仕事は好きだった。他の子達は仕事でない限り花壇にやってこないから集中してできる。
だからその日も、ロレンツォは学校から帰って部屋に荷物を置くと、すぐに花壇に向かった。誰もいないと思い込んで。
だが、ロレンツォの予想に反して、花壇には先客がいた。つい最近来たばかりの女の子だ。
誰もいないと思っていたロレンツォは、少し気分を害した。
気分を害したが、仕事をしないわけにはいかない。
女の子を無視して、用具入れからジョウロとスコップを持ち出し、ジョウロに水を溜め、用具入れの前の小さなビニールハウスから花の苗を持ってくる。今日はこの花の苗を植えて水をやるのが仕事だ。
早速作業を開始したロレンツォは、早く仕事を終わらせて、部屋に戻って本を読もうと思っていた。
だが、背後に感じる視線が、ロレンツォの集中を邪魔してくる。
溜息をついて手を止めると、しゃがんだまま顔だけ後ろの方に向けて、ロレンツォの背後に立つ女の子に目を向ける。
「……何?」
「ぁ、う……ご、ごめ……ごめ、なさい」
女の子が何をしたいのか分からなくて問いかけたのに、女の子はロレンツォの問いに答えるのではなく、怯えたように謝ってきた。そのことがロレンツォを苛立たせる。
「謝れなんて言ってないんだけど」
「ひっ!ぇ、と、ごめん、なさい……ごめ、なさい……」
「はあ……」
ただ謝るばかりで用件を言わない女の子に構っていられないと、ロレンツォは溜息をついて、再び顔を花壇に向ける。日暮までに、ここにある全ての花の苗を植えなければならないから。
女の子に背を向けたまま、ロレンツォは作業に戻る。
だが、それは長く続かなかった。
「‥‥‥‥‥‥ご、めんな、さい……ごめんな、さい……きも、ち、わるくて、ごめんなさい……ゆるし、てください……」
「はあ?」
「ひっ!」
ロレンツォは女の子に対して「気持ち悪い」など言っていない。面倒臭いとは思っていたが、「気持ち悪い」など思ってもいない。とんだ被害妄想だ。
ほとんど反射的に反応したロレンツォに、やはり女の子は怯えたように震えて声を上げただけだった。
「はぁー……めんどくさっ」
「ご、め、なさ……」
「あのさ、それやめてくれない?」
「……ごめん、なさい」
「意味もなく謝るなっつってんの」
「ごめ、ぅ……」
「はあ。邪魔。用がないならどっかいって」
「ぁ、ご、ぅ……え、と……その、」
「チッ、面倒臭いな。用があるなら早く言えよ」
「ご、ごめ……えっと、しす、たーに、おしごと、おしえっ、もらいなさ、いって……」
「はあ?」
「ひっ、ご、ごめ、なさぃ……」
仕事を教えろということは、この女の子は4歳以上だろう。
だが、ロレンツォが気になったのはそこではない。
「仕事を教えるのは12歳以上の役割だってシスターから聞いてないの?」
仕事を教えてもらいなさいとシスターに言われたのなら、そのことも聞いているはずだ。
もうすぐ7歳になるはずのロレンツォは、どこからどう見ても12歳には見えない。見た目が12歳で間違えてしまった、ということはない。
それに、今週、花壇の手入れを任されているのはロレンツォだけだ。12歳以上の子達はみんな違う仕事を割り当てられている。
だから、ロレンツォは、女の子が来る場所を間違えたのだと思った。
「どうでもいいけど、あんたがいるべき場所はここじゃない。分かったならさっさとどっか行けよ」
「ご、めん、なさい‥‥‥」
女の子の声を背中に、ロレンツォはイライラした気持ちを抑えることなく作業に戻る。
だが、女の子が立ち去る気配はなかった。
「チッ!」
舌打ちをこぼしたロレンツォに、女の子が怯える気配を感じるが、ロレンツォは女の子を無視して孤児院内にいるであろうシスターの許に向かう。
無視してもいいと思ったが、女の子に気が散ったままでは、いつまで経っても作業が終わらないと思ったからだ。
だが、この判断をロレンツォは後悔することになる。
「本来なら12歳以上の子がすることだけど、この子には君が仕事を教えてあげてほしいの」
シスターからはいろんな理由が述べられたが、どのみちロレンツォがこの女の子に仕事を教えなければならない事実は変わることがない。
嫌々女の子に仕事を教えることになったロレンツォは、1か月後にケンジ―教授に引き取られることも、女の子と交わすことになる約束がロレンツォの人生を変えることになることも、この時は少しも考えていなかった。




