聖女を殺した私たち
アストレナ国の王太子カイレムと、ダルセイド公爵令嬢イブリンの結婚式は、息を呑むほどの華麗さと壮大さで幕を開けた。その祝祭は近隣諸国から王族や貴族も招き、朝から夜にかけて、挙式、パレード、披露パーティーと、途切れることなく続いた。
夜の帷がとうに下りたというのに、王宮内は煌々と明るく、人々は祝宴に酔いしれていた。
その一方で、街並みも今日という特別な日を祝うかのように賑やかだった。あらゆる飲食店が夜遅くまで店を開け、客たちは杯を交わし、心地よい酔いに身を浸す。
それほどまでに、この結婚は人々の望みだった。王太子カイレムが聖女として崇められるイブリンを王太子妃に迎えることで、この国の未来が約束されたかのように信じているからだ。
そんな期待を背負う主役のふたりは、賑やかな祝宴の場を早々に切り上げ、静かな室内へと戻っていた。
人々はきっと、ふたりが初めての夜を迎えるための特別な時間だと考えていただろう。
しかし、イブリンの顔は恐怖に引きつり、険しい表情を浮かべている。
「カイレム……」
朝から続く慌ただしさのせいか、イブリンの顔には疲労が色濃く表れていた。美しいドレスを脱ぎ、寝衣姿となっているにもかかわらず、その姿には色気のかけらもない。青い瞳は不安げに揺れ動き、整えられたピンクゴールドの髪も乱れ、どこか憔悴しているように見える。
初夜を迎える緊張のせいだろう、という雰囲気ではなかった。
「とりあえず、座ろうか」
カイレムはイブリンにソファをすすめ、緊張を和らげようと果実酒をグラスに注いだ。
イブリンにグラスを差し出したが、彼女は受け取ろうとしない。仕方なくカイレムが一口飲み、グラスをテーブルに戻した。
「カイレム。私、パーティーで見てしまったの」
「何を?」
眉をひそめ、カイレムが即座に聞き返した。
「ユリセナがいた……」
その名に、カイレムもひゅっと息を呑む。
聖女ユリセナ。いや、正確には元聖女。そしてかつてカイレムの婚約者だった女性。
「ユリセナだと? だが、彼女は……」
ある日を境に、忽然と姿を消した。関係者は慌てて探し回ったが、それ以降、聖女ユリセナの姿を見た者はいない。
その後、聖女見習いだったイブリンが正式に聖女となり、カイレムと婚約し、今日、盛大に結婚式を挙げた。
それなのに、いなくなったユリセナがこのタイミングでふらりと戻ってきたのだろうか。
イブリンは青い瞳を大きく見開き、カイレムの両腕にしがみついた。
「カイレム。誰にも言わないって、約束してくれる?」
「何をだ?」
こんな前置きの後に続く話が、良い話であるはずがない。カイレムはそれを理解していた。
「だから、約束して。絶対に誰にも言わないって……」
「あぁ、わかった。誰にも言わない。安心して話をしてくれ」
新妻を宥めるように、彼女の背をそっと撫でる。
「あのね、あのね……私、ユリセナを殺しちゃったの。あの子の飲み物に毒をね、入れたの。あっという間に死んじゃった……」
イブリンの視線は宙をさまよっている。
殺したというなら、死体はどうしたのか。聞きたいことは山ほどあったが、これ以上彼女を刺激するわけにはいかなかった。
「だから彼女、恨んで、私たちの結婚パーティーに現れたのよ……」
イブリンの言葉を聞き、カイレムは深く息を吐いた。
甘い蜜月の期間であるはずが、イブリンは恐怖に震え、翌日も、その次の日も寝室に閉じこもっていた。シーツを頭からかぶり、寝台の上で丸まって身体を震わせている。そんな彼女を抱く気にはなれず、カイレムはイブリンに手を出していない。
そして今日も、彼女は寝台の上で丸くなっていた。
仕方なくイブリンを信頼のおける侍女に頼み、カイレムは執務に戻ることにした。新妻と一緒にいても気が滅入るだけだ。
どこからか話を聞きつけたのだろう。王妃エヴァリーナがイブリンを心配する素振りを見せながら、カイレムを中庭に面したサロンでお茶に誘ってきた。
「どうされたのです、母上」
「それは、こちらの台詞です」
カイレムは母親似だ。絹糸のように流れる金色の髪も、夜を思わせる紺色の瞳もよく似ている。カイレムが女性だったら、王妃と合わせ鏡のようだったろうとまで言われているのだ。
それに反して、妹王女のリリシアは父親似だ。月を思わせる銀色の髪に、榛色の瞳。それでも顔の造形はなんとなくカイレムと似ている。
「イブリンとの生活はどうなの?」
「それは、夜の生活を聞きたいのですか?」
エヴァリーナは、聖女の血を引く孫娘の誕生を心待ちにしている。
「違うわよ。ただ……結婚パーティーの日から、様子がおかしかったから……」
王妃は、純粋にイブリンの身体を気遣っていただけだった。
「そうですね。準備も立て込んでおりましたから。終わってほっとしたのではないでしょうか」
カイレムも当たり障りのない言葉を選んで口にする。
「そう。それならいいのだけれど……。ただ、変な噂を聞いたものだから……」
「噂、ですか?」
侍女たちは離れた場所で控えており、他には誰もいない。だというのに、エヴァリーナは小さく首を降って周囲を確認してから、カイレムに顔を寄せてきた。
「えぇ。あなたたちのパーティーに、ユリセナがいたという話を耳にしたのよ? あなた、ユリセナに……リトス侯爵家に招待状を送ったの?」
「何を、言っているのですか? 彼女は……それに、リトス侯爵も領地に戻ったと……」
「えぇ……そうよね……。彼女は死んだはずだもの……」
なぜ王妃はユリセナが死んだと断定するのか。ユリセナは姿を消しただけ。今のところ、生死不明、行方不明者として扱われている。
いまだにユリセナを聖女と尊ぶ者もおり、彼女の生死については触れてはならない話なのだ。
「母上、王妃ともあろう者が、そういったことを口にするものではありませんよ」
カイレムがたしなめたところで、エヴァリーナの紺色の瞳が恐怖に染まる。
「違うのよ、カイレム……。聞いてちょうだい」
王妃は自身の身体を両手で抱きしめた。それは自分を見えない何かから守るような仕草にも思えた。
「……ユリセナを殺したのは、私なの。あなたのことを思って……。あそこから突き落としたの。死体は、上がってくることはないわ。だから、あの子がパーティー会場にいただなんて、嘘よ、嘘……」
「母上!」
カイレムが声を荒らげる。
「母上も疲れているのです。だからありもしない妄想に囚われる。そんなこと、あるはずがありません」
カイレムはビシッと母に告げた。それから控えていた侍女に声をかけ、王妃を頼んだ後、カイレムは席を立った。
「王妃をゆっくり休ませるように」
サロンを出たカイレムは、執務室に足を向ける。
イブリンといい、王妃といい、ありもしない妄想に囚われている。ましてユリセナを殺したなど、そんなこと、あるはずがない。
重く感じる頭を抱えたまま、カイレムは執務席についた。
このようなときに急ぎの仕事などあるわけないのに、机の上の書類につい手を伸ばしてしまう。
ユリセナはイブリンや王妃と仲がいいとは言えない関係だった。
ユリセナは聖女として市井に足を向けることも多く、それを王妃は嫌っていたのだ。
だからイブリンが聖女になったときも、彼女は神殿内での活動に力を入れるが、それ以外のことは興味がないとでもいうように、まったく手をつけなかった。例えば、養護院や医院などへの慰問活動など。
王妃はユリセナが王太子妃として、王族に名を連ねるのを嫌がっていた。そういった卑しい活動をしているから、心も卑しくなるのだと、ユリセナを罵倒していた王妃の姿を、カイレムは目にしたことがある。ユリセナには王族としての威厳がないと、そんなこともたびたび耳にした。
イブリンは、自分より身分の低いユリセナが聖女として認められ、かつ王太子の婚約者として選ばれたことを妬んでいた。
カイレムとしては、王太子妃、次期王妃としてふさわしい女性を望むだけ。
――コツ、コツ、コツ……
ゆっくりとしたノック音。
控えていた近衛騎士のダリオンに「リリシアだろう」と言い、部屋に入れるよう、告げた。
「お兄様。イブお義姉様は、どうされたの?」
人の部屋に入ってきたとたん、イブの心配をする。
「それよりも、侍女もつけずにここまで来たのか?」
「兄妹なのだからいいでしょう? それにきちんと言ってきたもの。お兄様のところに行ってくるって」
カイレムは苦笑するしかない。
五つ下のリリシアは、イブリンを慕っている。だからユリセナが姿を消し、イブリンが婚約者として名前があがったときは、喜んだものだ。
むしろユリセナを嫌っていた。リリシアに言わせれば「口うるさい」と。些細な行動を咎められると。
「それで、お義姉様の様子は?」
「あぁ。いろいろあったから、疲れてしまったのだろう。今はゆっくり身体を休ませるときだと判断した」
まだ諸国の関係者の幾人かは王宮内にとどまっているが、それは国王や他の重鎮たちが対応している。
王太子夫妻が愛を深めている時間を、邪魔しようとする野暮な者はいない。
カイレムはダリオンに目配せし、侍従にお茶を用意するよう頼んだ。
「そうなのですね。お兄様も、ゆっくり休めばいいのに」
「そういう性分なのだから、仕方ない。それにイブも……私がいないほうが気を使わなくてすむだろう」
相手を求めるときと、一人になりたいときがある。
侍従がお茶とお菓子を用意し、テーブルの上に並べた。
「そういえば、お兄様はお母様と一緒だったのではないの? でもお母様がお部屋に戻られたと聞いたから、お兄様の様子を見にきたの」
「ああ。先ほどまで一緒にいたが……母上も、疲れてしまったようだ。政は父上や他の者に任せ、母上もゆっくり休むよう言ってきたところだ」
「そう……お母様も、お兄様たちの結婚パーティーが終わってから、少し様子がおかしくて……」
リリシアの言葉に、カイレムはこめかみをぴくりと動かした。
それはユリセナに関係しているのだろう。王妃の言動を見れば、リリシアが「おかしい」と言いたくなるのもよくわかる。
「お母様。ユリセナをパーティーで見たって言うのよ? そんなこと、あるはずないのに」
リリシアは唇を少し尖らせた。昔から不満を表すときの癖だ。
「そうだな。どうやら母上もイブも、ユリセナの幻想に囚われているようだ」
「ほんと、しつこいのね、ユリセナって。死んでもイブお義姉様を苦しめるのね」
「リリィ! ユリセナの死は口にしてはならないと言われていないか? 彼女はまだ死んだわけではない。ただ、その姿を消しただけで……」
カイレムの言葉に、リリシアはにたりと不気味に笑った。
「お兄様。心配なさらないで? ユリセナは、私が殺しておきましたから……」
妹の言葉に、カイレムの胃が締め付けられるように痛んだ。リリシアは何を言っているのか。
「だって、ユリセナがいたからイブお義姉様は、いつまでたっても聖女にはなれなかったでしょう? それにお兄様との結婚だって……。邪魔だったの。だから私が殺したの。川に突き落としたら、流されていったわ……」
川は王城を守るように流れ、王城と街へは跳ね橋を渡って行き来するのだが、年に数人、誤って川に落ちる者もいる。
「だから、パーティーにユリセナがいたなんて、そんなはずがないの!」
リリシアのきんきんした声が、カイレムを刺激する。
頭が割れるように痛い。
「お兄様?」
「殿下!」
カイレムがソファに倒れ込むように身を預けると、ダリオンが駆け寄り、その身体を支えた。
「王女殿下。王太子殿下もお疲れのようです」
「ええ、そうね。ごめんなさい、お兄様」
洗練された所作でリリシアが頭を下げ、部屋を出ていった。
「殿下。お部屋に戻られますか?」
「いや……しばらく、ここで休めば問題ない。水を頼む……」
今朝から変な話ばかり聞いている。
イブリンも王妃も妹も、ユリセナを殺したと、そればかり。
「なぜ……ユリセナが死んだ、殺したと、そのようなことを言うのか……死体が見つかったわけでもないのに……」
カイレムの本音が、つい、ぽろりとこぼれた。
「ええ、そうですね」
ダリオンが水の入ったグラスを手渡しながら、カイレムの言葉に同意する。
「ただ、そう思う気持ちもわかるような気がするのです」
「ダリオン?」
冷たい水に口をつけたカイレムは、いぶかしげにダリオンに視線を向ける。
「……いえ。王女殿下がおっしゃるように……ユリセナ殿は死してもなお、カイレム殿下を悩ます根源となっているのだと……そう思っただけです」
「ダリオン。おまえまでユリセナが死んだと、そう言うのか! 彼女が死んだというのなら、証拠を出せ。なぜ死体が見つからない?」
「それは……きれいに炭くずになったからですよ。彼女が殿下の婚約者になってからというもの、殿下も悩んでいらっしゃったでしょう?」
ユリセナは聖女という名にふさわしい、気高き女性だった。さらに、誰にでも分け隔たりなくやさしく、悪いことは悪いとはっきり口にする性格だった。
それゆえ、王妃や妹王女から疎まれていたのも事実。そして、カイレムも――。
「だから、安心してください。ユリセナ殿は、私が殺しておきました」
ビシャッ――。
感情高ぶったカイレムは、手にしていたグラスの水をダリオンに向かってぶちまけた。
「ダリオン。いくらおまえとて、言っていいことと悪いことがある」
ぽたり、ぽたりと、ダリオンの前髪から滴が落ちる。
「殿下……?」
「黙れ。先ほどから、なんなんだ? 自分がユリセナを殺したと、その話題ばかり。そんなことがあって、いいはずがないだろう!」
カイレムは身体を起こし、ダリオンの胸ぐらを掴んだ。
「ユリセナを殺したのは……」
ユリセナは知ってはならない秘密を知った。そして、それを暴こうとしていた。
あれを知られては王家の終わりだ。
結婚パーティーでユリセナを見た気がした。だが、それは他人のそら似にすぎない。ユリセナ本人であるはずがない。
なぜなら、カイレムは確かにユリセナを刺し、その冷えゆく身体を土に埋めた。今頃、彼女は土の下で冷たくなっているだろう。
カイレムは、次期国王として責任を持ち、王家の秘密を知ったユリセナを殺したのだ。
だから死体は見つからず、行方不明者として扱われている。
それなのに、イブリンも、王妃も、妹も、ダリオンも、ユリセナを殺したのは自分だと口にした。
だが、彼女を殺したのは――。
「この私だ」
カイレムの苦々しい声が、室内に静かに響いた。
続きはあるようでありません。
そのうち、気が向いたら長編にしたいなぁとも思います。
お読みいただき、ありがとうございます。