第5話 灰色の荒野
灰は軽い。
風がないのに、足首より下でだけ流れていく。
足音は生まれず、代わりに心臓の鼓動が足場になった。
コン、コン、コン。さっきの机のリズムを、僕の身体が勝手に踏んでいる。
ユウスケが数歩先を歩く。剣は鞘に収まり手は空だ。指はいつでも何かを掴める形を覚えている。
「焦るな。筋を通す。ここでは、それがいちばん早い」
「筋って、どこまでの話?」
「全部だよ」
ユウスケは振り返らない。肩だけがわずかに笑った。
「来た理由、進む理由、戻る理由。合図の意味。鐘の三打。……ぜんぶ辻褄が合えば、扉は開く」
辻褄。
その言葉は、灰の上に線を引くみたいで、すぐに見えなくなる。
道は一本だけ、のはずなのに、歩くたびに分岐が見えた。
右と左。是と非。正と誤。
標識は記号だけで、意味のインクが抜かれている。
「右」ユウスケが言う。
「どうして分かる」
「ずっと、そうだったから」
その答えは、過去形と現在形のあいだで薄く揺れた。
道のわきに低い樹が一本立っていた。葉の代わりに赤い紙が無数に結ばれている。風がないのに、赤だけがゆっくり揺れる。
僕は一本、手を伸ばして引き抜いた。紙は温かかった。
〈親友を、言い訳にする〉
喉が乾いた。
別の紙をめくる。
〈親友だ、と二度言う〉
僕は紙を握り潰そうとした。だが繊維はちぎれず、指の跡だけが赤に沈んだ。
ユウスケが近づき、僕の手から紙をするりと奪う。二枚の赤を指先で重ね、ゆっくり擦った。
紙は音もなく、灰に変わった。
「……燃やしたのか?」
「燃えたことにした」
ユウスケは指を払う。「ここは結果だけあればいい」
「結果だけ」
「うん。理由は、あとから付ければいい」
彼の横顔に見覚えのない影が差した。
いつからだ。ユウスケは右利きだったか、左利きだったか。記憶が抽象化されて、グレーになっていく。
歩きながら、僕はどうでもいい話をした。
中学の時に流行ったカードゲーム。購買の焼きそばパンが争奪戦になった火曜日。雨の日に傘をどっちが貸したか…
「お前だよ」ユウスケは即答した。「俺が忘れてお前が貸してくれた」
そこで彼は一拍置いて、笑いを足した。「いや逆だったかもな」
僕は立ち止まった。
記憶はひとつだったはずだ。
けれど二つの可能性が並びどちらも同じ温度を持ちはじめる。
「どっちでもいい」ユウスケが言う。「貸し借りがあった、それで充分だろ」
充分。
充分、という言葉は便利すぎて、穴の位置を隠した。
灰の谷に、狭い橋が架かっていた。
欄干はなく、幅は三歩。橋桁の下、底の見えない闇が口を開けている。
「先に行く」ユウスケが言った。
彼は剣の柄に軽く触れる――左手で。
僕の胸で、何か小さくひっかかった。
(左だったか?)
橋に足を乗せると、遠くの塔が一度だけ鳴った。空気ではなく、骨が鳴る音。
コン。
一歩。
コン。
二歩。
コン。
三歩。
橋の向こうに、扉がひとつ待っていた。
途中で、胸ポケットのスマホが震えた。
ヴ…
画面を開かなくても、送信者の名前は分かった。
ユウスケ。
横を見る。ユウスケは目の前の扉を見ている。
僕の横にいるユウスケから届く、僕のスマホの中のユウスケ。
〈次の分岐で右に行くな〉
喉が詰まる。
すぐに、もう一通。
〈左は遠回り、右は近道。近い方が早く着く〉
(どっちなんだ)
「どうした」ユウスケが振り返る。
目は穏やかだ。声も穏やかだ。
「右だ。近い」
僕はスマホを見せなかった。
文字はポケットの布越しに、皮膚へ移ってくる気がした。
扉の先は、広場だった。
市場のように見えるが、品物はない。机だけが等間隔に並び、誰もいないのに、机は自分で微かに震えている。
その震えが、やがて三度の合図へ育つだろう。と分かった。
広場の中心に背の高い立て札があった。
〈ここで嘘をつくと…正直になる〉
粗い字。子供の板書みたいで意味だけが大人だった。
「ここを抜ければ、塔は近い」ユウスケが言う。
「訊くけど」僕は立て札を見たまま言う。「お前は俺を刺すのか」
ユウスケは笑った。
笑ったように見えた。
だけど目の奥で、ガラスが一枚ずれる音がした。
「刺さない。守る」
間。
「守るために、刺すことになったとしても、それは“守る”に入る」
「それは、嘘だろ」
「ここでは嘘は正直になる」
ユウスケは立て札に指を触れた。「だから安心しろ」
安心、という言葉は、危険物のラベルみたいに赤かった。
広場の端に、細い小径が二つ口を開けている。
右は明るい。近い。
左は暗い。遠い。
スマホは震えない。僕の鼓動だけが、三拍子を保っていた。
「右」ユウスケが言う。
僕は頷いたふりをして、一歩、左に足を入れた。
足首に冷たい水が触れる。灰のはずなのに、水だ。
左の道は、時間を奪う代わりに。音を返すみたいだった。
遠くで、誰かが机を叩く音。
近くで、誰かが息を呑む音。
背後で、ユウスケが舌打ちする音。
「おい遠い方は――」
「筋を通すんだろ」
僕は振り返らなかった。「近道は辻褄を壊す」
しばらく沈黙が続いた。
沈黙は音より騒がしい。
やがてユウスケの足音(があると仮定した気配)が、僕の後ろに戻ってきた。
「……お前、変わったな」
「変わったのは世界だよ」
左の行き止まりで古い掲示板を見つけた。
紙は色を失い、文字だけが残っている。
〈校則改定:遅刻は罪〉
〈家庭内規約:食器不片付は罪〉
〈恋愛条項:未返信は罪〉
掲示板の最後の一枚だけが新しかった。
紙は赤く文字は太い。
〈親友という呼称は、免罪符としての使用を禁ず〉
僕は紙を剥がそうとした。
爪が赤に沈むだけで剥がれない。
ユウスケが横から手を添え―今度は右手で―紙の下辺を持ち上げた。
紙は簡単に剝がれた。
彼はそれを折り畳み、僕の胸ポケットに戻した。
「持っておけ」
「なんで」
「証拠は持っていた方が早い」
ユウスケは視線を逸らさない。「ここでは結果だけが先に来る」
(さっきと、言い方が違う)
燃えたことにする/持っていたことにする。
同じ“先に来る”でも辻褄の作り方が変わっている。
「ユウスケ」
名前を呼ぶと彼の目の奥でまたガラスがずれた。
「お前、いつから左利きになった」
「最初から、右だよ」
「今、左で―」
「最初から右だ」
返事の速度が速すぎた。
考える前に言葉が用意されている。
僕はもう何も言わず、赤い紙の角で指先を切った。
血は出ない。出ない代わりに、鐘が小さく鳴った。
コン。
暗い道を抜けると高台に出た。
視界が低い白で満たされ遠くの塔がかすむ。
風がないのに耳の中だけに風が吹く。スマホは沈黙したままだった。
「着く前にひとつだけ確認させてくれ」僕は言った。
「何を」
「俺は被害者か?」
ユウスケは答えず、ポケットから何かを取り出した。
赤い紙。
さっき僕の胸に戻したはずの紙と同じ折り跡。
彼はそれを開き僕に見せる。
〈裏切ったのは、お前だ〉
「それ、どこで」
「どこにでもある」
ユウスケは紙を今度は左手でちぎった。赤い繊維は簡単に裂けた。
さっきはちぎれなかったのに。
紙の断面から白い灰が舞い上がる。灰は風に運ばれず僕の胸の内側に積もった。
「答え」僕は言う。「俺は被害者か」
「……それを言うのはお前だ」
ユウスケは視線を塔に向けた。「ここで“罪を言え”って迫られるのは、いつもそうだ」
いつも。
その二音で、世界が微かに二重露光になった。
いつも―何度も―何周も。
「いつもって何回だ」
ユウスケは笑った。
笑いは、答えの代用品だ。
高台の端に石の鳥居が立っている。
鳥居の額には粗い字でこう刻まれていた。
〈ここから先、裏切り禁止〉
ユウスケが鳥居の下で立ち止まる。
「行くぞ」
鳥居をくぐる瞬間、スマホが短く震えた。
ヴ…
画面には、たった一行。
〈ここから先、裏切りのみ〉
指が冷たくなる。
顔を上げると、ユウスケは鳥居の向こうでこちらを見ていた。
その目は、優しく、そして冷たい。
剣の柄に触れる手は―右か左か、もはや判別がつかない。
「筋を通すだけだ」彼が言う。
「うん」僕は答えた。
「じゃあ、確かめよう。どちらが、誰を」
鳥居の奥で、鐘が三度鳴った。
コン。
コン。
コン。
灰の世界が瞬きをやめ、刃の輪郭だけがはっきりしていく