第四話 木槌と確定
「――死刑」
その二音は驚くほど柔らかかった。子守歌に似ていた。
けれど意味だけが刃で、胸骨の裏側を冷たく撫でた。
床が、鳴った。
コン、コン、コン。
そして、縦に割れた。
僕は思わず後ずさる。
足元が空洞で後ろにも左右にも、落ちる以外の選択肢が見当たらない。
黒い仮面の役人が一歩進み、僕の前に小さな木槌を差し出した。
「合図を」
「……何の」
「被告自身による判決の確定。ここではそれが礼儀だ」
木槌は思っていたより軽かった。手に収まる。それ自体が罪の重さを持たない道具。
だからこそ、振り下ろす腕が重い。
「嫌だ」
観客席から傍聴席から風でもないのに風の音が起きた。失望の合唱。
「合図を」
三人の男が同時に繰り返す。
「……僕は」
言葉は喉で絡まる。
親友だ。
親友だ。
その反復だけが、声になる前の僕を支えていた。
「合図を」
低く、深く、空気の底を擦る声。
そのとき、胸ポケットのスマホが震えた。
ヴ…ヴ…画面は見えない。
けれど、誰からかは分かる気がした。
“ユウスケ”
僕は木槌を持った手を、ほんの少しだけ持ち上げた。
その角度で世界が傾いた。
「……僕は無罪だ」
自分でも驚くほど小さな声だった。
だが三人の男の唇がわずかに歪み、観客席の影たちの空洞が一瞬だけ狭まった。
「訂正」
中央の男が冷たく言う。
「――被告の自白を確認した」
「僕は自白してない!」
コン、コン、コン。
木槌が、僕の手の中で勝手に落ちた。
乾いた一打。
それが合図だった。
床が完全に抜けた。
観客の影たちが、鐘の音を三度鳴らす。
落ちる。
今度は速度が生まれ、内臓が遅れてついて来る。黒い仮面の役人が上の縁に立っているのが見える。
彼は何も見ない。何も見ないことが仕事のすべてだ。
闇の途中で光が差した。きわめて細い針金ほどの光。
そこに、人影がいた。
「よう」
声に心臓が跳ねた。堕ちつつある僕の目の前に、逆さの世界の上でユウスケが立っていた。
彼は笑っていた。
いつもの“ネタを持ってきた”顔だ。
でも、目の奥は笑っていなかった。
「終わりじゃないよ」
彼はそう言った。
「ここからだ。全部ここから始まる」
手を伸ばす。掴める距離だ――はずなのに、僕の指は彼の手をすり抜けた。
体の輪郭が輪郭のまま異なる層に存在している。
「ユウスケ……」
名を呼ぶと彼の顔が、一瞬だけ“僕”と重なった。
炎の反射がガラスの欠片に揺れてふたりの輪郭が混ざる。
親友だ。
親友だ。
祈りにも呪いにもなる二語が落下の風圧にちぎれながら、それでも僕の中で反復された。
闇の底は思っていたより浅かった。足が地面を捉え膝が粉砂の上に沈む。
そこは、灰色の荒野だった。
空は低く雲の代わりに“重さ”が漂っている。
遠くに塔が一本さっきの塔と同じ顔をして突き立っている。
背後で鐘が三度鳴った。
僕は膝に手を置き呼吸を整えた。
喉の奥に金属の味がする。
胸ポケットのスマホが、もう一度だけ震えた。
ヴ…
画面を開く勇気は、まだ無かった。
風は吹かない。
それでも、誰かの足音が近づいてくる気配がした。
乾いた砂を踏む無音の足音。
僕は顔を上げた。
灰色の空の下、輪郭だけで構成された世界の地平線。ひとつの影が立っている。
彼は剣を持っていた。
「行こうぜ」
ユウスケの声が灰の向こうで笑った。
その笑いは優しく、そして冷たかった。
「ここからは、ちゃんと筋を通すだけだ」
彼の言葉が、再び僕の足を前へ押し出した。
裁判は終わった――はずなのに世界は終わっていなかった。
僕は歩き出す。
灰の大地を塔の方へ。
背中で無数の“罪を言え”が遠くなり、代わりに胸の内側で同じ言葉が小さく芽を出す。
罪を言え。
誰の声でもない、僕の声で。
それが何を意味するのかまだ分からないまま、僕は親友の背中を追った。
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