第3話 裁判
塔の入口は口のように開いていた。
黒は色ではなく“定義の無い場所”で、その縁に指を寄せると、温度の段差だけが境界線の存在を証明した。
一歩踏み出した途端、外の拍手がふっと消えた。
代わりに内側から細い擦過音が聞こえてくる。ペン先が紙をこする音。
(誰が、何を書いている?)
廊下は細く真っ直ぐではなく、わずかに螺旋を描いて上へ伸びていた。壁は灰色の石で、ところどころに“刻印”がある。近づくと刻印は文字だった。
〈遅刻〉
〈忘れ物〉
〈居眠り〉
〈母にそっけない返事〉
罪状――そう読めた。
だが刻印は次第に曖昧になっていく。
〈心ここにあらず〉
〈沈黙〉
〈目の中の笑わなさ〉
それはもう言葉の領分ではない。
罪が行為から状態へ、そして存在の揺らぎへ移っていく。
「被告、入廷」
背後から声がして振り向くと黒い仮面の役人が立っていた。黒曜石のように光る仮面。
目の穴からは何も覗かず覗かないこと自体が秩序の顔をしている。役人は何も言わず、先を指し示した。
たどり着いた広間は、不自然に広かった。奥に机が一つその背後に三人の男が座っている。どの顔も同じ。
膨れた頬、乾いた唇、虚ろな瞳、そして笑っているのか否か判別不能な口角の角度。
周囲の観客席には顔のない影がびっしりと並んでいる。鼓動と同じ間隔で、足元から“コン、コン、コン”が伝わってきた。
「被告、名を述べよ」
三人が同時に言う。声は同じ高さ同じ速さ同じ抑揚だった。
「……僕は」
名前を言おうとして、喉がつまる。
胸ポケットの内側で、スマホがわずかに震えた気がした。
ヴ…
だが画面を見ることは許されてないと背後の空気が告げていた。
「被告の名、確認」
三人の男の中央が手元の書類をめくる。ペンの音がやけに鮮明に響いた。
そこに書かれているのは、僕の字に似ている――けれど僕はここに署名した覚えがない。
「被告よ」「罪を言え」「罪を言え」
反復。反復。反復。
その言葉は命令であり儀式であり、呼吸の代用品だった。
「何の話だ。僕は何も……」
「第一の罪状」
左端の男が赤い紙を掲げる。
〈一昨日の遅刻〉
「第二の罪状」
右端の男が別の赤い紙。
〈昨日の忘れ物〉
「第三の罪状」
中央の男が赤い紙。
〈本日の居眠り〉
くだらない。生活の失敗だ。そう思った瞬間、観客席で机を叩く音が連鎖した。
コン、コン、コン。拍手。鐘。三度。
役人が僕の背後に立つ気配がする。見なくても分かる。仮面は何も映さない光で僕の肩甲骨のあたりに冷たい影を落としている。
「弁明はあるか」
「……ただのミスだ。誰にだってある」
ペンの音が一瞬止まり次の瞬間いっそう速く走り始めた。
「補足の罪状」
中央の男が、淡々と読み上げる。
〈母にそっけない返事〉
〈食器を片付けなかった〉
〈恋人のメッセージに返信をしなかった〉
文字が増えるたび、胸の内側で何かが重くなっていく。
赤い紙の束は目視で数ミリしか厚みがないのに、手首に鉛を吊るしたみたいな重さを持っていた。
「異議あり」
口が勝手に言った。裁判ごっこのゲームみたいに軽く、でも声は震えていた。
「それは、罪じゃない」
「被告」
左端の男の唇が、少しだけ笑ったように見えた。
「罪の定義は、あなたが決めるものではない」
「じゃあ誰が」
「世界が」
ぴたりと答えが返ってきた。
観客席の影たちが同時に頷いた。顔はないのに、確かに頷いたと分かった。
“頷く”という行為の記号だけが空中に浮かび、僕の胸の前で形を取り冷たく沈んだ。
「証拠の提出」
右端の男が言う。
すると僕の胸ポケットから赤い紙がするりと抜け出した。自分で取り出した覚えはない。そこには太い字で、僕の名前と罪状が記されている。
〈遅刻〉
「これは――」
「被告が保持していた。有罪の自認とみなす」
「違う、勝手に――」
言葉の途中で、机のリズムが強くなった。コン、コン、コン。反論が一拍遅れるたびに、世界の方が先へ進んでしまう。
「被告」
中央の男が身を乗り出し視線を真正面から僕に突き刺した。その瞳の奥で薄いガラスがはじける音がした。
僕は自分の顔を見た。
一瞬。ほんの一瞬、そこに映ったのは僕自身の顔だった。
膨れた頬、乾いた唇、虚ろな瞳――いや、違う。僕はそんな顔をしていない。でも鏡がそう言うなら、それは僕なのだろう。
「証人を喚問します」
左端の男が言った。
黒い仮面の役人が扉を開ける。
入ってきたのは教壇に立つはずの担任だった。彼は白紙のノートを抱えて、僕を見ないまま口を開いた。
「一昨日、遅刻。昨日、忘れ物。本日、居眠り。事実です」
「異議――」
僕が言うより先に観客の影たちが一斉に机を叩いた。
コン、コン、コン。拍手。鐘。三度。
それは“異議を無効化する儀式”としてこの世界に埋め込まれているらしい。
担任の次に入ってきたのは母だった。彼女は正面に立ち、同じ口調で言う。
「食器を片付けなかった。返事がそっけなかった。沈黙が多かった。事実です」
「美咲」
彼女の次に呼ばれたのは僕の恋人の名だった。彼女は赤い紙を胸に当てて、微笑んだ。
「昨日、LINEの返信をしなかった。それは私を不安にした。罪です」
罪。
その二文字が、日常の細部に印をつけていく。そうして世界は僕を“裁くための形”に組み替えられていく。
「証人、退廷」
彼らは僕を一度も直視しなかった。背中だけが均等な速度で、扉の向こうに消えていく。
「被告よ」
中央の男が言う。
「最終弁論を許可する」
僕は口を開いた。喉の奥が焼ける。なぜだか“親友だ”という言葉が先に浮かんだ。
「ユウスケは――」
三人の男のペンが同時に動いた。
〈誤った呼称の使用:親友〉
〈責任転嫁の傾向〉
「違う、そうじゃない。彼は……」
言葉は机のリズムに切り刻まれていく。
コン、コン、コン。僕の文は三拍子で断たれ、意味だけが床にこぼれた。
「いずれにせよ」
右端の男が淡々と言う。
「罪は確定している」
中央の男が、紙を束ね直した。赤い紙の端が光を受けて、薄い刃のように見えた。
「判決」
ペンの音が止む。広間の空気が凪ぐ。観客席の影が一斉に体を前傾させ、空洞を僕の胸に向ける。
世界が息をひそめた。