第二章 無音の街
白はやがて薄れていき、色ではなく質感が戻ってきた。
僕は立っていた。
見渡すかぎり灰色の街。
建物は高くも低くもない。どれも同じ高さで、同じ色で、同じ形で、窓もドアも記号のように貼り付けてある。
道路はまっすぐに伸びて、どこまで行っても曲がらない。
信号も標識もあるがどれも絵に描いたみたい。意味だけが抜け落ちている。
空は曇っていない。雲の代わりに白い光の層が何層も重なっていて、遠近感という概念を押し潰していた。
風は吹かない。
匂いもしない。
音――が、ない。
(夢だろ……?)
口の中で呟いた声は、自分の喉で確かに震えた。
夢にしては、呼吸が生々しすぎる。肺が膨らむ度に肋骨がきしみ、汗が首筋を滑る。
靴底が地面に触れて、わずかにゴムが擦れる感触がある。
現実だ、と認めるには十分すぎる材料が五感の隅々に散らばっていた。
「……誰か、いるのか」
返事はない。
けれど、遠くで“何か”が蠢いている。
音はしないのに、ざわめきだけが空気の密度を少し上げた。
それは影だった。人影の形に似ているが、顔がない。
顔があるべき場所に、楕円形の空洞だけが穿たれている。そこからこちらを見ている――見られている、という感覚だけが確かに存在する。
僕は一歩、後ずさる。
影が一歩、近づく。
彼らは歩くたびに、足元の地面と同じ灰に沈み、また出てくる。
足音は最後まで生まれなかった。
(見られてる……? いや、測られてる?)
背中に冷たい汗が広がる。
影は数を増やし道の両側に間隔を空けて並んだ。歓迎にも見えるし検問にも見える。
僕は真ん中を通ってみる。影は動かない。
けれど空洞は僕を追って動いた。
その瞬間、声が響いた。
誰の口も動いていないのに、街全体が共鳴するみたいに。
「罪を言え」
心臓が跳ねる。
罪? 何の? 誰の?
頭の中で言葉が小石みたいにぶつかり合って、意味の縁が欠けてく。
「間違いだ……僕じゃない、僕は何も」
否定は途中でちぎれ、影たちの声に押し潰された。
「罪を言え。罪を言え。罪を言え」
反復。反復。反復。
同じフレーズが、同じ抑揚で、同じ間を置いて、無数の喉で同時に発される――いや、喉はない。
声はどこから生まれている?
目の前の空洞? 地面? 空の層?
足元から乾いたリズムが響く。
誰も机を叩いていないはずなのに、あの音が…“コン、コン、コン”が地の底から伝わってくる。
僕は耳を塞いだ。
だが声は、耳の外ではなく内側から鳴っていた。
影の空洞が口の代わりに僕の鼓膜の裏側へ音を直接流し込んでるみたいだ。
それでも、否定したかった。
これは夢だ。
夢だ。夢だ。
そう三度唱えると、さっきの“コン、コン、コン”と同じ拍で言葉が並んだ。
まるで僕自身がこの街のリズムに合わされていく。
「やめろ……やめろ!」
叫びは空気に溶けず、喉の手前で跳ね返った。その反動で、影のひとつが前へ出る。
近い。
手を伸ばせば触れられる距離まで来て影はゆっくり手を上げた。
指は五本。人間と同じ形をしている。ただし、爪だけが欠けていて、指先は紙を破るみたいに鋭い。
影が空中を引っかく。
灰色の空間が、その指先に合わせて裂けた。
亀裂の向こうに、塔のような建物が立っていた。
目測を拒む高さ。どの程度高いのか、脳が計算をやめてしまう高さだ。
入口は口のようにぽっかり開き、奥は真っ黒で何も見えない。
影が掌をその入口へ向ける。
行け――そう命じていた。
逃げる道を探して僕は視線を左右に走らせた。
道はまっすぐすぎて隠れる場所がない。
建物は扉も窓も絵で取っ手は描かれているだけ。
影は数を増やし背後にも前にも並んで、灰色の壁を作っている。
(行くしか、ない)
一歩、塔の方へ足を出す。その瞬間、街全体が拍手を始めた。
乾いた音。
それは机の木の表面を指の第二関節で叩いたときの音に酷似してる。
でも誰も机を叩いていない。机も椅子もここにはないのに音だけが生まれ、重なり、厚みを増していく。
拍手はやがて鐘の音に変わり、三度、そうあの三度と同じリズムではっきりと鳴った。
僕は振り返る。
影の空洞に、ほんの一瞬、何かが映った気がした。
それは、部室の窓に映った僕の顔――と、隣に立つユウスケの横顔。
親友だ。
親友だ。
反復は祈りにも呪いにもなる。
僕はどちらの使い方をしているのか、自分でも分からなかった。
塔の入口は、口のように開いたまま待っている。中からは風も匂いも来ない。
ただ黒い。黒は色というより、定義のない場所。
「……行くよ」
自分に言い聞かせる。
声は小さく、けれど確かだった。
一歩。二歩。影たちが左右に分かれて道を作り、空洞が僕の歩幅に合わせて揺れる。
足の裏に伝わる地面の硬さは、学校の廊下に似ていた。それなのにあそこまで戻る道はどこにも描かれていない。
入口の手前で僕は立ち止まった。
黒の縁に人差し指を近づけると空気がわずかに冷たい。
温度の差で境界線の存在がやっと分かる。
胸ポケットの中でスマホが一度だけ震えた。
ヴ…
一回分だけの短い振動。誰からなのか見る勇気が出なかった。
「親友だ」
小さく呟くと、喉の奥が痛んだ。なぜ今、その言葉なのか。
誰に向かって言ったのか。
自分でも分からないまま、僕は黒の内側へ足を踏み入れた。
直後、拍手は一斉に止んだ。
世界が息をひそめる。
灰色の街は僕を裁判所へと押し出していた。
そして裁かれるのが誰なのかを、もう知っているように見えた。