第一話 放課後の部室
教室のざわめきが消えてから、どれくらい経ったのか分からない。
窓の外には淡い橙の残り火が漂っていて、遠くのグラウンドからは部活の掛け声が切れ切れに届く。掛け声はまるで別の国の言葉みたいに意味を持たず、ただ空気を震わせている。
放課後の部室は、静かすぎて不安になるほど静かだった。
机の角は何度も磨耗して丸くなり、木目に走る細い傷は誰かの書いた線みたいに一定の方向へ流れている。壁の張り紙は端から色が抜けて、剥がれた部分が人の横顔に見えた。
そんな空間に、僕だけ。
スマホの画面だけが現実につながっていて、指先のスワイプ音だけがここでの生存証明だった。
SNSのタイムラインは今日も果てしなく長い。誰かの昼食、誰かのテストの点数、誰かの新しいスニーカー。
見たそばから忘れていく、乾いた泡の列。
(今日も、何も起きなかった)
そう考えると、胸の奥で小さく擦れる音がする。
何かが減り続けている。だけど、何が減っているのか分からない。
授業は眠く、先生の声は子守歌みたいで、笑いが起きてもそこに自分はいない。
積み木は崩れる前提で積み上げられ、僕はただ見ているだけ。
ソファのスプリングは弱っていて、体重を預けるたびに悲鳴を上げた。
天井の蛍光灯は一本だけ生き残っていて、時々一瞬だけ瞬く――世界がまばたきしているみたいに。
「おーい」
ドアが乱暴に開いて、音が部屋の空気をひっくり返した。
僕は反射的に顔を上げる。
ユウスケだ。
肩で風を切るみたいにいつもの歩幅でずかずか入ってきて、何の許可もなく僕の机の端に腰を下ろす。癖のある前髪を手で整えて、笑う準備をするように口角を上げた。
「相変わらず暗いな。今日もひとりでスマホいじってんのか」
からかう声。
それは、ここで聞きたかった唯一の人間の声だった。
親友だ。
クラスの中心にいて、笑い方を知っていて、僕の沈黙を笑いに変える方法まで知っている――はずの。
親友だ。
その二語を心の中で反芻するたびに、どうしてか胸の奥で軋む音が強くなった。
「まあ、俺も練習サボったんだけどな」
ユウスケは足をぶらぶらさせ、机を靴の踵で軽くコツコツ叩く。定期的なリズムが部屋の木材に伝わって、机の群れが小さく共鳴した。
「で、何見てんの。猫? 炎上? テストの解答速報?」
「……何でもないやつ。見たそばから忘れるやつ」
「だろうな」
ユウスケは笑った。
笑うとき、目尻に小さな皺が寄る。そこにいつも安心する。
世界が一瞬だけ軽くなる。
「なあ、これ見ろよ」
彼は自分のスマホを取り出し、ロックを雑に外して僕の目の前に突き出した。
画面には見覚えのない白いアイコンがひとつだけ浮いている。枠も色もなく、ただ白い小さな穴のようだ。
「何それ」
「知らん。気づいたら入ってた。消しても戻ってくる。ウイルスかって思ったけど、動きは軽いし広告も出ねえ」
「消しても戻ってくるって……」
僕は思わず笑った。けれど喉はからからに乾いていた。
「名前は?」
「押すと出る」
ユウスケがタップする。
画面は真っ白になり、ワンテンポ遅れて黒い文字が浮かび上がった。
『異世界裁判アプリ』
「……は?」
「タイトルからしてネタ臭いだろ」
ユウスケは肩をすくめる。
「でもさ、戻ってくるってのが、ちょっと面白いじゃん」
僕はスマホから目が離せなかった。
白が強すぎて、向こう側に何もない穴を覗き込んでいるみたいだ。
黒い文字は印刷ではなく、網膜に直接書き付けられている。焦点をずらしても消えない。
「タップしてみろよ」
「やだよ。マジでヤバいかもしれない」
「いいから。信じろって」
親友だから、信じたい。
けれど、“信じろ”という二音がやけに重く、床板の下に沈んでいった。
信じた瞬間に何かが壊れる未来が、脳の奥で薄く反射する。
ユウスケは机から腰を上げ、僕のすぐ隣に立った。
距離が近い。
洗いたてのTシャツの柔らかい匂いがする。
「大丈夫。ドッキリでも怪談でも、俺が隣にいる」
親友だ。
その言葉は、合言葉としては完璧だった。
僕は息を吸い、ほんの少し笑って、指先を画面へ伸ばした。
触れた瞬間、白が弾けた。視界が裏返る。
光が音になり、音が匂いになり、匂いが重さになって胸にのしかかる。床が、消えた。
「――ッ!」
叫んだつもりだったのに、声は出なかった。
代わりに、世界の方が声を上げて僕から遠ざかっていく。
黒板が天井になって流れ蛍光灯が星座になって散り、扉が口のように開いて僕を飲み込む。
落ちる。
けれど、落下の衝撃は訪れない。
衝撃の手前で世界が止まり、縦方向の速度だけが音になって耳鳴りを作り、耳鳴りが白い膜になって視界を塞いだ。
何かが手首を掴んだ気がした。指の節の硬さと温度――ユウスケ? と考えるより先に、その感触はすっと消えた。