第18話 灰の規約
雨上がりの朝。見出しは胸に挟まったまま、拍を数えていた。
コン。
コン。
コン。
廊下の掲示板に、白い紙が一枚。先に貼られていた。
インクの濃さは印刷だけど、字の癖は僕の手のものに近い。
〈灰の規約〉
・合図は*「確かめろ」*
・判は押さない(停止/遅延)
・刃は紙に当てる
・名前は判決ではない
・黙秘は合図にならない
・必要は必要側が言う。運搬は運搬側が運ぶ
・呼称「親友だ」の免罪符効力は失効。再発行は確かめ合い直後のみ
参照が現実へ上がる条件=必要/運搬/証人の三者合意。
(証人:美咲)
ユウスケが肩越しに見て、左手でうなずく角度だけ空気を切った。
「運用の紙になったな」
「見出しが、掲示物へ」
僕は胸骨を三度、爪で軽く叩いた。
コン。
コン。
コン。
黒板の端に〈本日の確かめ〉が勝手に灯る。
ここでは“掲示→運用”が速い。
1限 HR/読み上げ
担任は出席簿(赤い紙束)を机に置いただけで、指先を掲示板へ向けた。
「今日も確かめでいく」
“開廷”と言わない言い方に、教室の温度は裁判所から教室へもう半歩戻る。
彼は規約の二行目で指を止めた。
〈判は押さない〉
「ここ、大事」
チョークで黒板を三度、軽く叩こうとして…止める。
代わりに、胸骨の高さで小さく息を合わせる。
コン。
小合意。
板書は見出しだけが増え判はどこにも現れない。
教室の隅で、誰かが手を上げた。
「匿名くん、その……“親友だ”は戻るの?」
戻る、という言葉は判決に似ている。
僕は立たない。座ったまま、座っていないことにして短く言う。
「条件で、再発行する」
黒板の右に細字。
〈再発行=確かめ合い直後/沈黙を合図にしない〉
ユウスケは笑いを用意しない。
左手で机の角を一度叩く。
コン。
小合意が付記になる。
昼休み 渡り廊下/美咲
渡り廊下の端。陽が斜めに差すところで、美咲が手を振った。
画面越しじゃない目の濃さは、規則の活字よりも信頼できる。
「確かめに来た」
宣言は短い。
僕は胸骨を三度。
コン。
コン。
コン。
ユウスケがうなずき、一歩だけ離れて運搬を降ろす姿勢を取る。
「呼称“親友だ”条件で再発行」
美咲が読み上げ、目だけで問い返す。
「今ここで?」
「今ここで」
僕と美咲は互いに触れない距離で立ち、声で確かめる。
「理由を後にしない」
「沈黙を合図にしない」
「世界が決めるを引用しない」
三つを言い切ったところで、胸骨の拍とうなずきを重ねる。
コン。
合意。
掲示板の紙は何も言わない。
代わりに、見えないところで印のない承認がひとつ増えた。
〈呼称“親友だ”:条件式で再発行〉
ユウスケは見ていただけだ。
左手をポケットから出さず、目の奥のガラスをずらさず。
優しく、そして冷たい。
その温度で、筋が通る。
放課後 生徒会室/“署名”の罠
放課後、掲示板の下に小机が出ていた。
〈規約に賛同する者は署名を〉
という見出しに似た別紙が置かれている。
ペンが三本、名簿が一枚。
“賛同”という単語は判の影を引く。
「罠だな」
ユウスケが低く言った。
「“署名=判”のやり方に戻したがってる。世界が」
「書き足すで受ける」
僕は別紙の上段に小さく追記した。
〈署名は“合図後”の記録**。判決ではない〉**
紙がわずかに明るくなり、名簿欄の左端に小さな欄が増えた。
〈合図:胸骨×三/うなずき〉
〈合意:必要/運搬/証人〉
欄が埋まっていなければ、署名欄が反応しない。
書式が運用を縛る。
生徒会長が近づいて、少し困った笑いの角度で言った。
「形式が増えすぎると、回らないよ?」
「増やすためじゃない。減らすためだ」
僕は掲示板の規約を指差す。
「判と刃を減らすために、合図と合意を置く」
会長は肩をすくめ、一度だけ机を叩いた。
コン。
小合意。
名簿欄は灰色のままだ。
“とりあえず判”の道は閉じられた。
夕方 体育館裏/影
校舎の影が長い。
体育館裏の路地であの影が待っていた。
僕の顔をした誰か。
笑いの角度はユウスケに似ている。
そして胸骨の高さで四打目を叩いた。
コン。
遅れを足す音。帳尻の音。
白い画面の片隅に、小さな穴。
〈参照:刺す〉
枠だけ。
ここでも条件は同じだ。
三者合意がなければ、穴は落ちる。
……落ちなかった。
影は証人になりすました。
画面の隅に、細字。
〈証人:美咲(影写)〉
(影写=影の写し)
「偽の合意だ」
ユウスケが左手をわずかに上げ、空気を切る。
「確かめる」
僕は胸骨を三度。
コン。
コン。
コン。
スマホに短い一行。
差出人:美咲。
〈今ここにいる〉
続けて、もう一行。
〈右手を見て。今のあなたの〉
右手は軽い。刃は紙に移されている。
影写は、その軽さをなぞれない。
穴の縁が崩れ、落ちる。
影は笑いを準備し、そのまま笑えなかった。
「……名乗れ」
僕は影に言った。
「名前は判決ではないけど、証跡になる」
影は口を開き、僕の名前を言いかけて…言えない。
言えば、落とし箱へ自分で落ちるからだ。
世界の帳尻は、参照の側に留まる。
影は一歩下がり、胸骨を四度目で叩こうとして、やめた。
やめたという記録だけが残る。
〈四打:不成立〉
僕は白い画面に一行足した。
〈影写を証人から除外。証人は現場で確かめる〉
ユウスケが一度うなずく。
コン。
規約の欄外に小さく追記が増えた。
〈証人:現認〉
盲印の余地が、なくなる。
夜 空白の席/再発行
夜、部室。
空席だった椅子は、もう空ではなかった。
僕とユウスケの間に置かれているのに、誰も座っていない椅子。
条件式で、呼称が戻っているからだ。
“親友だ”は免罪符を失い、条件になった。
「再発行の記録を置く」
僕は赤紙の裏へ、細字で書く。
〈親友=確かめ合う/理由を後にしない/沈黙を合図に使わない〉
〈失効と再発行は双方同時〉
〈更新:必要/運搬(小合意)+証人(現認)〉
白い画面がそれを見出しに拾い、胸の上の拍が一拍だけゆっくりになる。
ユウスケは笑いを用意しない。
左手で机の角を一度だけ叩く。
コン。
「文化祭が近い」
唐突に言って、彼は窓の外の校庭を顎で示した。
「規約を現場で走らせるなら、人が多い日がいい。衝突も、祝祭も、刃なきで捌けるか」
「運用テストか」
「祝祭テストだ」
目の奥のガラスはずれない。
優しく、そして冷たい。
その二つの温度で、筋が通る。
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
ユウスケがうなずく。
二つの息。
白い画面に小さく次の見出しが灯る。
〈文化祭運用:灰の規約〉
〈合図:確かめろ〉
〈試す:三者合意/落とし箱/署名=記録〉
〈禁止:判押下/刃の現物使用〉
窓の外、夜の校庭に提灯の骨が組まれ始めている。
骨はまだ灯らない。
でも、灯る場所はもう決まっている。
世界は、祝う手順を欲しがる。
手順があれば、判は遅れる。
遅れれば、僕らが先に書ける。
赤紙が胸ポケットで小さく鳴った。
コン。
意味はまだない。
意味を与えるのは…次だ