第17話 試験運用
見出しが胸に挟まったまま、世界は薄く遅れた。
遅れの隙間で、息を三度揃える。
コン。
コン。
コン。
0:00 校舎外/自販機の明かり
夜の校舎を出ると運動場の端にある自販機が、まるで信号機みたいに赤青白をくるくる並べていた。
ユウスケは左手をポケットから出さない。僕は右手で胸骨を三度、軽く叩く。小合意。
白い画面の底で細字が一行だけ増える。
〈試験運用:開始〉
自販機の蛍光灯が一瞬だけ四度点滅した。
コン。コン。コン。コン。
四打。帳尻を足そうとする音。
自販機の投入口から、銀紙に包まれた細いモノがすっと半分だけ顔を出す。刃の参照。
参照は参照のまま現れる。触れられない。ただ、“ある”ことにして揺れる。
「止める」
僕は胸骨を三度。
コン。コン。コン。
ユウスケが頷き、左手で空気を一度切る。小合意。
白い画面に小さく〈参照:刺す→保留〉。
銀紙の縁が自販機の口へ戻りかけ…止まる。
落とし箱の糸が、どこかでひっかかっている。
美咲からの短い一行が、ポケットの内側で灯った。
〈言葉で刺せ。浅く〉
「……“親友だ”は免罪符にしない。ここでは確かめる」
声に出す。浅い刃。
自販機は何も吐かず、代わりに温かい缶を一本だけ落とした。
ラベルの裏に細字。
〈合図は“確かめろ”〉
夜風が弱くなる。銀紙はもう出てこない。
7:30 登校/廊下
朝、廊下の空気はミルクみたいに白かった。
観客の空洞が少し後ろに下がって、顔の輪郭まで戻りかける。
「開廷」
担任がいつもの声で教室に入ってきて、黒板を三度、軽く叩こうとして…止めた。
チョークの粉が浮かび、見出しだけが先に浮く。
〈本日の確かめ〉
〈学校→家庭→恋人の順/軽減〉
〈黙秘=合図不成立〉
「出席を確かめる」
担任の言い直し。
“確かめる”は、ここでは儀式の動詞になっていく。
僕は胸骨を三度叩く。
ユウスケが左手で小さくうなずく。
二つの息。
黒板に勝手に白いチェックマークが並び、僕の欄は匿名のまま薄いグレーで塗られる。
「遅刻と忘れ物、申告」
“罪を言え”の言い換えだ。
僕は立たない。座ったまま座っていないことにして、短く言う。
「居眠り。返事がそっけない。未返信。」
順序を守る。
教室の床がほんの少し柔らかくなり、黒板の隅に〈軽減〉が一つ付く。
判は押されない。
押されない代わりに、見出しが一段濃くなる。
ユウスケは笑いを用意しない。
左手で机の角を一度だけ叩く。
コン。
小合意の音。
クラスの空気は、昨日までの“裁判ごっこ”から少しだけ現実に寄る。
12:20 屋上/パンと牛乳
昼休み。
屋上のドアには施錠の札がかかっているのに、扉は最初から開いていたことになっている。
風はやさしく、ベンチは日向と日陰の境界に置かれている。
ユウスケは牛乳。僕は甘いパン。
「四打が、また来る」
彼はベンチの背に左手を乗せたまま言う。
「落とし箱の底から。第三者が参照を押し上げてる」
「第三者は誰だと思う」
「お前の“免罪符”の残骸か、俺の“世界が決める”の癖か。どっちも形は似てる」
“似てる”と言いながら、彼の目は笑いを準備しない。
僕はパンの袋を指で破り、紙を一枚に畳んで胸ポケットへしまう。
刃は紙に。判は押さない。名前は判決ではない。
見出しは胸の上で規則の代わりに拍動を整える。
足元で、鳩が二羽、三度だけ首を振った。
コン。
コン。
コン。
鳩が合図を真似る世界は、少しだけ滑稽で、少しだけ恐ろしい。
17:10 下校/交差点
帰り道。
横断歩道の信号が黄のまま、長く延びた。
四打の音が、歩道橋の下から一度だけ上がる。
コン。
小さな、でもあきらかに“余分”な一打。
参照がまた口を開けている。
スマホの画面の裏から、細字が浮かんだ。
〈仮定:次の一行が“刃”なら成立〉
昨日の夜の条件が、形を変えて戻ってきた。
ユウスケは左手で僕の袖を引き、横断歩道から半歩外へ出す。
「ここで“刃”を書くなら、事故が刃の役になる」
「書かない」
胸骨を三度。
コン。
コン。
コン。
小合意。
信号が青に変わる。
参照は落ちる。音はしない。
ただ、風の匂いが一瞬だけ鉄っぽくなる。
19:30 家/食卓
皿が三枚、箸が二膳、コップが一つ。
“あの窓”と同じ配置。
母は黙っている。黙秘は合図にならない。
だから、僕が言う。
「片付けなかった。返事がそっけなかった」
順序を守る。
「ごめん」
謝罪は判ではない。
母はゆっくり頷き、テーブルの木目を一度だけ指で叩く。
コン。
小合意。
台所の蛇口の滴る音が止まる。
鍵の束が壁に触れ、わずかに鳴る。
家が軽くなる。
21:00 部屋/メッセージ
スマホが震えた。
ヴ…
差出人:美咲。
〈“確かめろ”のうなずき、送る〉
〈右手を見て。今のあなたの〉
右手は軽い。
木槌の跡はない。
刃の重さは…紙に移された分だけ、皮膚を離れている。
〈“親友だ”の再発行、条件そろってる?〉
画面の向こうで、美咲の目だけが濃い。
僕は胸骨を三度叩き、短く返す。
〈今は保留。確かめ続行〉
送信の直後、画面の下で細字が勝手に付記される。
〈沈黙は合図に使わない〉
癖が規則に編入され、世界のほうが言い直す。
23:59 校舎前/再び
一日目が終わる直前。僕とユウスケは校舎前に立っていた。
鳥居の横木は現実の街灯に紛れ、合図を待たずに風だけが通る。
「四打が減った」
ユウスケが言う。
「参照の“刺す”は、出てきても仮定止まりになってる。書き足すが勝ってる」
「二日目で、別の方向が来る」
僕は空を見た。
星が少ない夜。
灰の層は薄く、境界が目で見えるほどには粗い。
そのときだ。
校舎の中から、机の三打が重なって聞こえた。
コン。コン。コン。
それから…四打目が、いきなり大きく、胸骨の高さで響いた。
コン。
どこかが、帳尻を合わせに来た。
「落とし箱じゃない」
ユウスケが顔を上げる。
目の奥のガラスが、わずかにずれた。
「こっち側の四打だ」
部室の明かりが、勝手に点く。
白い画面。
黒い文字はまだない。
だが、机の右上にカッターナイフが一本。一本置かれていた。
昨日僕が「紙へ」使った校務用より新しく、刃がまだ折られていない。
ラベルに小さく印字。
〈証跡〉
…参照じゃない。現物。
世界は刃を参照から証跡へ上げて、紙に当てたという既成事実にすり寄せてきた。
「帳尻のやり方を変えてきたな」
ユウスケの声は低く、温度は二つ。
優しく、そして冷たい。
「どうする」
「見出しで受ける」
僕は胸ポケットから赤紙の裏の見出しを抜き出し、机の上に重ねた。
〈刃は紙にのみ。当てるときは理由を後にしない〉
カッターナイフの影が、薄くなる。
現物は現物のまま、意味だけが参照に戻る。
刃は刃でありつつ、紙の側に偏る。
白い画面がゆっくりと目覚める。
〈試験運用:経過 24:00〉
〈検証:刃→紙(維持)/参照:刺す(仮定止まり)〉
〈次の12時間:第三者の四打を要監視〉
「第三者の四打」
口に出すと廊下の端で影がひとつ揺れ、すぐに薄れた。
僕の顔をした誰か。
ユウスケの笑いの角度だけを持った僕。
“最初の映像”の残響が、現実の照度で自分を保つのに苦労しているように見える。
「規則を足す」
僕は短く言って、白い画面へ一行。
〈“刺す”が参照から上がる条件=必要/運搬/証人の三者合意〉
〈証人:美咲〉
画面の片隅で、細い印章がコツンと押される。
判ではない。参照の承認印。
三者合意がない限り、参照は穴から出られない。
ユウスケが左手で机の角を一度だけ叩く。
コン。
「これで、四打は三つのうなずきがないと成立しない」
「うん」
胸骨を三度叩く。
コン。
コン。
コン。
重ねるうなずき。
白い画面は静かになり、カッターナイフはただの文具へ下がった。
刃は紙に。
判は押さない。
名前は判決ではない。
36:10 朝のホームルーム
「今日の確かめ」
担任が言うたび、黒板の見出しは同じ強さで灯る。
クラスの一人が手を上げる。
「昨日、匿名くんとユウスケくん、屋上にいました?」
質問は裁きではない。
僕は胸骨三度。ユウスケがうなずき、二つの息で「うん」と言う。
理由を後にしない。
「確かめの準備をしてた。二日間の」
理由は短い。
短いが、空洞が一歩引くだけの強度がある。
44:00 夕方/雨
雨が降り始めた。
濡れた廊下の匂いは灰よりも具体的で、記憶のほうが先に動く。
四打は来ない。
代わりに、三打の間隔が短くなる。
コン。コン。コン。
世界が急ぎたがっている。
急がせない。
僕は白い画面へ一行。
〈三打のテンポは必要の心拍に合わせる〉
画面の隅で、心拍のような緩い波が一つだけ増える。
胸の中の見出しが、拍を整える。
47:59 校舎前
二日目の終わり。
鳥居の横木は雨粒を受け。確かめの文字を濡らしながら、でも崩れない。
ユウスケは左手を雨に差し出し、僕は右手で胸骨を三度、静かに叩いた。
コン。
コン。
コン。
白い画面に、黒い見出しが先に灯る。
〈試験運用:終了〉
〈採用:見出し“合図は確かめろ”〉
〈維持:刃=紙/判押下=停止/黙秘=合図不成立〉
〈条件:呼称の再発行=確かめ合い直後〉
〈更新:必要/運搬/証人(三者合意)〉
観客の空洞は、今度はいない。
いることと見えることが、やっと同じになっている。
雨音が三拍子で屋根を叩き、どこか遠くで鐘が一度だけ、逆向きに鳴った。
コン。
「終わった」
ユウスケの声は低い。
優しく、そして冷たい。
その温度で、筋が通る。
「これからは、書き足すで進む」
「うん」
僕は頷く。
「それでも刃が必要になったら?」
「紙へ」
即答。
壁の固さではなく見出しの固さで。
ポケットの中で、スマホが一度だけ震えた。
ヴ…
差出人:美咲。
〈うなずき〉
小さな、短い、でも三者合意の最後の一角を満たす一行。
画面の隅に、再発行が小さく灯る。
〈呼称“親友だ”:条件式で再発行〉
〈発行者:必要/運搬 同時〉
僕とユウスケは視線を合わせ、笑いを用意しないで笑った。
優しく、そして冷たい笑い。
両方の温度で、空席が消えた。
そのとき、校舎の角で影が一つ雨の幕を裂いた。
僕の顔をした誰か。
ユウスケの笑いの角度で四打目を胸の高さで叩いた。
コン。
遅れて、白い画面に小さな穴。
〈参照:刺す〉
枠だけ。
条件は満たされていない。
三者合意はない。
穴は落ちるはずだ。
落ちなかった。
雨水が表面張力で穴を支え、一拍だけ持ちこたえた。
世界は、まだ帳尻を諦めていない。
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
ユウスケの左手がうなずき、ポケットの中で美咲の短いうなずきがもう一つ灯る。
三者合意。
穴は音もなく落ちた。
落とし箱の蓋が静かに閉まる。
雨がやむ。
夜が浅くなる。
見出しは胸に挟まったまま、判の代わりに拍を数える。
コン。
コン。
コン。
三拍子のうちに、僕らは校舎を後にした。