第16話 終審
ペン先が白に触れ世界が一拍遅れる。
遅れのうちに息を三度揃える。
コン。
コン。
コン。
白い画面の上部に〈終審:書き足すのみ〉が先に灯り。観客の空洞は廊下の端で間隔を広げた。
ユウスケの左手が、うなずきの角度で空気を一度だけ切る。
必要(僕)と運搬(彼)の小合意。
二つの息で実行される。
僕は一行書き足した。
〈刃は紙にのみ当てる。判は押さない。名前は判決ではない〉
インクが乾く前に白い画面がそれを見出しとして拾い上げ、胸ポケットの赤紙の裏で同じ厚みになる。
観客の空洞がほんのわずか後退し、床の木目が小さく呼吸する。
コン。
参照の刃がどこか高いところから落ち、落とし箱へ吸い込まれた音。
鋭さは残るが、参照になった。触れられない。
この世界で少なくとも今は…。
ユウスケが笑わないまま頷く。
「帳尻は?」
「遅延で固定した。確かめが勝つ」
言い切るとアプリの隅に細字のログが走る。
〈判押下:停止(優先)/遅延(代替)〉
〈刃:一次=紙/参照=落とし箱〉
机の端に赤紙が自動で一枚追加された。
〈追記:呼称“親友だ”の取り扱い〉
空席に近い議題。
僕は短く書く。
〈呼称の再発行は“確かめ合い”の直後に限る〉
〈沈黙は合図に使わない〉
〈世界が決めるの引用禁止〉
ユウスケが左手で机を一度だけ叩いた。
コン。
小合意。
赤紙は三つ折りになり、胸の上で軽く整う。
教室の黒板に映像が浮かぶ。
…最初の夜。
白い画面。黒い文字。笑う用意の整ったユウスケ。
刺す/刺されるは二重露光のまま参照へ落ち像は薄く強くなった。
割れない。
参照だから。
「向こう(現実)で、これが効くかどうか」
ユウスケが息を飲む気配を隠さずに言う。
「確かめに行く」
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
画面に黒い一行。
〈遷移:現実/部室(終審)〉
〈合図:確かめろ〉
〈更新者:必要/運搬 同時〉
ドアが開き、夜の廊下に階調が戻る。
グラウンドの土、掲示板の画鋲、消しゴムの粉。
灰色は残るが上から現実が刷り直されている。
部室の机の前に立つ。
アプリは白いまま、待っている。
画面の底にはさっき最上層で打ち出された世界見出しが、見落とすほど小さく貼られていた。
〈合図は“確かめろ”〉
ユウスケの左手が、僕の右手と触れないところで止まる。
触れないまま、温度だけが共有される。
それでも足りなければ、触れる。
それでも足りなければ刃…参照の中で。
「書くよ」
僕は言った。
「終わらせるために、書き足す」
ペン先が白に触れ、今度は世界が遅れない。
遅れずに、読もうとしている。
〈“親友だ”を免罪符にはしない。必要は僕が言う。運搬はユウスケが運ぶ。沈黙は合図にならない。刃は紙へ、判は押さない。…そして、〉
そこで、机が二度鳴った。
コン。
コン。
三打目の前に、別の指が机を軽く叩いた。
コン。
遅れずに揃う三打。
誰の指かは重要ではない…はずなのに、アプリの隅で小さな警告が瞬いた。
〈参照の更新:第三者/不明〉
〈出所:落とし箱〉
落とし箱…参照の溜め。
そこから、細い線が一本だけこちらへ伸びている。
線の端に、僕の顔をした誰かが立っている。
廊下の端で、照度の僅かな谷に紛れ、笑いの角度だけがユウスケに似ていた。
「……来たな」
ユウスケが囁く。
「参照は、参照のまま上書きしてくる」
アプリの白がわずかにざらつき、画面の片隅に空欄が開いた。
〈参照:刺す〉
枠だけ。
入力を待つ四角い穴。
落とし箱の底に残っていた**“刺す”の向き**が、参照として這い上がろうとしている。
「止める」
僕は言い、胸骨を三度叩いた。
コン。
コン。
コン。
必要の停止権。
ユウスケが頷き、左手でうなずきを重ねる。
小合意。
しかし、空欄は消えない。
参照は、消えずにいる。
美咲からのメッセージが、音もなく画面の裏から浮かぶ。
〈言葉で刺せ。浅く〉
〈それでも消えないなら、触れて落とせ〉
「…分かった」
僕は続きの一行を浅く書いた。
〈“親友だ”の無効は維持する。あなたを免罪符にしない。〉
〈“世界が決める”の引用はしない。必要はここで言う。〉
参照の空欄が薄くなり、落とし箱の口がほんの少し狭くなる。
足りない。
触れる。
僕はペンを置き、ユウスケの左手へ右手を出した。
掌が合う。
確かめの温度が行き来し、空欄の縁が崩れ落ちる。
参照の“刺す”は、縁から滑り、再び落とし箱へ…
…その瞬間、第三の指が机を叩いた。
今度は、机ではなく胸骨と同じ高さで。
コン。
僕とユウスケの三拍に、**“もう一拍”**を足す音。
四打。
帳尻の強制。
画面の右上に細字。
〈更新:参照/刺す→仮定形〉
〈仮定:次の一行が“刃”なら成立〉
世界が条件を出してきた。
こちらの“書き足す”の規則を受け入れたうえで、参照の出口に仮定をつける。
次の一行が刃なら、参照は現実へ上がる。
刃でなければ、落ちたまま。
ユウスケの左手が、僕の掌から離れる。
目はまっすぐ、笑いは用意しない。
「決めろ」
優しく、そして冷たい。
二つの温度で、筋が通る。
僕はペンを握り直し、白へ向き直った。
観客の空洞は、廊下の端で息を止める。
落とし箱の底で、“最初の映像”が薄く揺らいだ。
ユウスケの顔をした僕。僕の顔をしたユウスケ。
どちらでもあり、どちらでもない参照。
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
ユウスケがうなずく。
二つの息。
四打目は誰も足さない。
僕は書く。
〈刃は紙にのみ。当てるときは理由を後にしない〉
仮定は満たされない。
参照の穴はもう一度落ち、箱が静かに閉まる。
落ちる音はしない。
代わりに、机が一度だけ呼吸した。
コン。
白い画面の上で、見出しが二度強調された。
〈合図は“確かめろ”〉
〈終審:書き足すのみ〉
その光が薄れると、黒板に最後の指示が浮かぶ。
〈退出〉
〈現実での試験運用:48時間〉
〈参照更新:必要/運搬 同時〉
「試験運用…ね」
僕は息を吐き、ペン先を置いた。
「世界がこちらの書式を一度採用してみるってことだ」
ユウスケは頷く。
左手で扉を押し、右手はポケットの中で動かない。
「二日。刺さないで済むなら、そのまま採用。
…刺さないで済まなかったら?」
「紙に当てる」
僕は胸ポケットの赤紙を指で叩いた。
コン。
意味は僕が与える。
廊下を踏み出す。
観客の空洞が左右に割れ、夜の校舎に生活の色が戻り始める。
“灰”は一枚下がり、確かめが表面に出る。
二日間。
試験運用。
見出しはもう胸の上にあり、判はどこにも置かれていない。
ユウスケが隣で歩幅を合わせる。
笑いはない。
目の奥のガラスはずれない。
二つの温度で筋が通る。