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第15話 灰の最上層

籠は音を立てず上がった。


上がる証拠は、耳の奥で三度だけ息をする世界のリズムだけ。


コン。

コン。

コン。

音は鳴らず、骨だけが鳴る。


扉が横に滑り薄い白の部屋が現れた。

図書室にも役所にも、印刷工場にも似ている。

壁一面に浅い引き出しが無数に並び、取っ手には細い活字が刻まれている。


〈順序〉〈合図〉〈必要〉〈運搬〉〈判〉〈名前〉〈呼称〉〈証跡〉……


床は静かで天井は低い。

中央に置かれた大きな机の上には、紙に見えるが紙ではない白い板が一枚。

角に小さく刻字。


〈ここから先、“書き足す”のみ〉

〈刺す/刺さない は参照として保存〉

〈名前は判決ではない〉


ユウスケは一歩だけ中へ。

左手は開き、右手はポケット。

利き手は決めた。僕=右、ユウスケ=左。

決めたはずなのに、この部屋の白は左右をさらに薄くする。


胸骨を三度、爪で叩く。

コン。

コン。

コン。

“確かめ”はここでも効いている。保留は確定じゃない。


赤紙の封筒を胸ポケットから出して、机の上の白板に置く。

板はかすかに温まり封筒の位置を“正しい”として受け入れた気配を見せる。

角の刻字が一行増える。

〈証跡:受理〉


「ここが心臓の上…書式の層だ」

ユウスケが言う。

声は低いが響きに装飾がない。

「世界はまず見出しを欲しがる。本文は後で追う」


「見出し、ね」

僕は白板の左上に指を置き、ゆっくりとなぞる。

インクは使わない。指の熱で字が浮く。

〈向き:書き足す〉


浮いた字を部屋が読み、壁のどこかで見えない棚が一つ、軽く息をする。


引き出しの取っ手を一つ引いた。

〈順序〉の引き出し。

中には薄い帯のようなものが整然と並び、端に数語ずつ。小さな語が縫い込まれている。

〈学校→家庭→恋人〉〈軽減〉〈逆順=加重〉


僕は帯を一本取り出し、白板の右縁に重ねた。

板がうなずくように沈む。

〈採用:暫定〉


「まず遅くする」

僕は言う。

「判が押されるまでの“間”をこちらで伸ばす。押さない世界を優先するなら」


〈判〉の引き出しは深かった。

中は空っぽに見える。

けれど手を入れると風のような手触りで薄い赤色が指に絡む。


赤は紙の色。印の色。過去の色。


僕は手を引き、代わりに白板の角へ小さな字を足した。

〈判押下:停止(優先)/遅延(代替)〉

板は静かな肯定で応じ、壁のどこかでさらに二、三の引き出しが自動で明滅する。


ユウスケは何も言わない。

左手だけで部屋の“呼吸”に合わせ、目に見えない空気のタイルを並べ直しているように見えた。


「合図」

僕は合図の引き出しを開ける。

中は三本の細帯。

〈胸骨×三〉〈机×三〉〈鐘×三〉

胸骨の帯を白板へ置き、机の帯は裏返して参照に回した。

鐘は…帯ではなく、薄い金属片。

触れると、遠くで一度だけ鳴る。

コン。


板の角に追記。

〈合図=胸骨/机(参照)/鐘(参照)〉

〈同時性要件:二者(必要/運搬)の小合意〉


ユウスケがそこで初めて頷いた。

「二段にするのは賢い。必要が言い運搬がうなずく。二つの息で実行」


必要の引き出し。

中に細い定規のような札。

端に発注主という文字。

僕はそれを白板の左下に置き、上に小さく書き足す。

〈必要側=匿名(現:裁く者)〉


運搬の引き出しには配送の印が繰り返し押されている布が入っていた。

布は硬い。

布の上に*〈運搬側=ユウスケ(現:被告)〉*と書くと布は柔らかくなった。

役割は動詞にすると軽くなる。


「黙秘は?」

ユウスケが短く訊く。

黙秘の引き出しは浅い。

中には黒い糸が絡まっていた。


触れると糸はしゅるりとほどけ、帯になって伸びた。

〈黙秘=合図にならない〉

僕はそれを板の下辺へ貼る。

板の角に記録の項が増える。

〈記録:黙秘→合図扱いせず〉


白板はすでに小さなメモで埋まり始めていた。

〈名前=判決ではない〉

〈呼称“親友だ”=免罪符として失効〉

〈再発行は双方同時〉

〈刃:紙へ/人には当てない〉


そのとき。壁の一角が開き細長い額縁がゆっくりせり出した。

薄い映像が走る。

…冒頭の部室。


白い画面、黒い文字、笑う用意の整ったユウスケ、うまく笑えない僕。

刃の輪郭が、どちらにも吸い寄せられては拒まれる。


額縁の下に、注釈のための細い帯が出てくる。

〈未来注〉と印刷されている。

僕は帯を一本抜き、映像の下に貼った。

〈“刺す/刺されるは参照本体は“書き足す”〉


映像は割れず薄いまま強度だけを増す。

“現実の方で決める”ための枠が強調される。


ユウスケが引き出しの前から動かず目線だけで僕を見た。

「名前の扱いも、はっきりさせた方がいい」


名前の引き出しは意外にも重かった。

開けると鏡が入っている。

鏡には何も映らない。

代わりに縁に刻字。


〈名前=証明/証明≠判決〉

〈記載:必要時のみ〉


鏡を白板の脇に立てると、板の角にもう一行。

〈署名は“合図後”〉

結果の前に原因を置く“確かめ”の癖を、ここでは一段戻してバランスを取る。


胸ポケットがかすかに震えた。

ヴ…

差出人:美咲。

〈“足す”なら“落とす”も決めて〉

〈削除じゃない。“落とす場所”〉


「落とす……?」

ユウスケが首を傾ける。

「ゴミ箱じゃないだろうな」


引き出しの列のさらに上、天井近くに細い投入口があった。

〈落とし箱〉

刻字の下に小さく*〈仮説〉*とある。

必要の反対、運搬の余剰、合図の行き場を作る箱。


僕は白板へ追記した。

〈余剰=落とし箱へ〉

〈落下物は参照のみ〉

世界から消すのではなく参照に回す。

“削除”でなく“裏面化”。

それなら辻褄は壊れない。


部屋の呼吸が深くなる。

遠くの鐘が一打だけ、逆向きに鳴った。

コン。


「……書き足すだけで、本当に降りられるのか?」

ユウスケが初めて不安そうな声を混ぜた。

「押し返しは来る。世界はいつでも帳尻を合わせようとする」


「来るなら、遅くする」

僕は板の角にさらに小さな字を足した。

〈帳尻=遅延〉

〈“確かめ”が勝つ〉

板が静かに頷く。

壁の見えない棚が一斉に微細な明滅を行い、ルールの反映が終わったことを示す。


白板の余白はもう多くなかった。

最後に目立たない位置に小さく書く。

〈“合図を”の自動送信=停止〉

〈必要:手動〉

スマホがポケットの中で一度だけ震え、すぐに静かになった。

“僕”から“僕”への短文は癖だった。

癖をルールに編入し直す。


ユウスケがほんのわずか笑った。

「じゃあ、降りよう」


籠へ戻ろうとしたとき、部屋の奥で小さな活版機が自動で動いた。

レバーは誰も触っていない。

鉄の板が下がり薄い紙片が一枚だけ、吐き出される。

拾い上げると見出しのような太字。


〈世界見出し:合図は“確かめろ”〉

小さな本文。

〈判押下:停止(優先)〉

〈刃:紙〉

〈親友=条件式/免罪符失効〉

〈必要→運搬(同時)〉

〈黙秘は合図にならない〉


見出し。

世界の上段に置かれる文字。

それを胸ポケットの赤紙の裏へ重ねると、二枚は音もなく同じ厚みになった。

判の代わりに見出しを胸に挟む。


「これで書式は変わった」

ユウスケが呟く。

「向こうで効くかどうかは向こうで確かめる」


籠の扉に手をかけたとき、天井から細い札が一枚。するりと下りてきた。

〈最後の校正〉

〈“向き:書き足す”は、刺す/刺さないの参照を保存する〉

〈参照の更新者を指定〉


「更新者?」

僕が札を読むと、ユウスケが左手を軽く上げる。

「運搬でいい」

「いや、必要が持つ」


目がぶつかり、二人とも笑った。

今度の笑いは、本当に笑いだった。

優しく、そして冷たい笑い。


両方の温度を持ったまま僕は白板の一隅に小さく書く。

〈参照更新:必要/運搬 同時〉

〈同時性要件:胸骨×三/うなずき〉


札は満足げに揺れ天井へ戻った。


籠に入り扉が閉まる。

降下の音はない。


降りる証拠は、胸の奥で三度だけ息をする世界のリズムだけ。

コン。

コン。

コン。


扉が開くと、夜の鳥居と、校舎の廊下が重なっていた。


“確かめ”の横木が月を支え、教室の前には観客の空洞が間隔を保って立っている。

顔は見えずいることと見えることが交互に切り替わる。


部室の扉は開いている。

机の上。アプリの白画面が待っている。


画面の底、細字の規約がスクロールし、さっきの見出しが一行で再掲される。

〈合図は“確かめろ”〉


胸骨を三度、爪で叩く。

コン。

コン。

コン。

ユウスケがうなずく。


二つの小合意が重なり、白画面に黒い一行。


〈終審〉

〈ここから先、“書き足すのみ”〉

〈“刺す/刺さない”は参照〉

〈参照の更新:必要/運搬 同時〉


風は吹かない。

けれど、未来だけがわずかに前のめりになる。


観客の空洞が一歩、後ろへ下がった。

空いた床に、薄い影が二つ重なる。

僕の影と、ユウスケの影。


影の輪郭は最初の夜の刃のかたちに似ている。

似ているだけで同じではない。


「行こう」

ユウスケの声は低く温度は二つ。

優しくそして冷たい。

「書き足して、終わりにする」


僕は頷き、机へ歩く。

赤紙の裏に挟んだ見出しが胸に触れ、判の代わりに心臓の拍を整えた。

ペンを持つ。

白い画面が、意味を受け取る準備を終える。


…その瞬間、廊下の端で影が動いた。


僕の顔をした、誰か。

ユウスケの顔をした、僕。

最初の映像の二重露光が、現実の照度で濃くなっていく。


胸骨を三度、叩く。

コン。

コン。

コン。

僕は言う。

「確かめろ」


白画面に、黒い見出しが先に灯った。

〈起動:終審(書き足す)〉

〈参照:刺す/刺さない〉

〈更新者:必要/運搬〉


ペン先が白に触れる。

ユウスケの左手がうなずきの角度で、空気を一度だけ切る。

二つの息で、世界が一拍、遅れる。


…次の一行は、終わりと始まりの両方になる。

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