第14話 灰の署名
机が一度だけ鳴った。
コン。
意味はまだない。
意味を与えるのは次だ。
部室の空気は白く。アプリの画面は黒い一行を待っていた。
机の上、赤い紙は相変わらず短い問いだけを置いている。
〈最初に“親友だ”を言ったのは…。〉
ユウスケは左手をわずかに開いて、僕のペン先の高さに揃えた。
触れない。触れないまま、触れる直前の温度だけが共有される。
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
僕だけの合図。
“確かめ”の規則はここでも効いている。保留は確定じゃない。
僕は書いた。
〈僕〉
インクが紙の繊維に沈む音はしない。
代わりに部室の蛍光灯が一度だけ息を吸う。
アプリの白画面がわずかに遅れて反応し、黒い文字が増えた。
〈起点の起点:僕〉
〈合図:確かめろ(維持)〉
〈免罪符“親友だ”:失効(維持)〉
ユウスケが笑わない。
笑わなかったという事実が、僕の胸を軽くする。
軽くなった分だけ、別の場所…空席が重くなる。
赤紙の下の余白に印刷のような細字が後から現れた。
〈向きを決めよ〉
〈刺す/刺さない/書き足す〉
〈三打で実行〉
机の木目が、僕の指の下で三拍子の予備動作を始める。
コン、コン、コン…
来る。
この世界は“刃を一度は使いたがる”。
「…段取りどおりだ」
僕は小さく息を吐く。
「言葉→触れる→刃。刃は保留」
アプリが反射的に打ち消す。
〈保留=未実行〉
“確かめ”の側だから、保留は先に進まない。
ユウスケが左手で机の角を軽く叩いた。
コン。
「段取りを守れば、世界は従う。でも最後に帳尻を合わせに来る」
「なら帳尻の方を書き換える」
僕は赤紙の余白にペン先を落とし、小さな規則を足す。
〈判を押さない世界を優先〉
〈刃が必要なときは、紙へ〉
アプリの画面のスクロール底に、規約のような細文字が自動で生成されていく。
〈親友=確かめ合う/理由を後にしない/沈黙は合図に使わない〉
〈“世界が決める”を引用しない/必要は必要側が言う〉
〈失効と再発行は双方同時〉
〈刃の一次使用は記録媒体に限定〉
蛍光灯がふっと明滅し部室の空気が一段落ち着く。
鐘は鳴らない。
鳴らなかったという記録だけが、アプリの隅にログとして刻まれる。
【審理ログ 11】
21:38 起点の起点:僕(署名)
21:39 向き:保留(確かめ規則下)
21:40 追加規則:刃→紙
21:41 判押下:停止(優先)
「試すか」
ユウスケが言い、今度は右手を少しだけ上げた。
利き手は左のはずだ。
でも“確かめ”は触れ方で手を決める。
僕は頷きペンを置いた。
触れる。
右手を差し出す。彼の左手が受け取る。
掌同士が今度ははっきり触れた。
熱が移動し空席の位置が、机と机の間から僕らの後ろへずれる。
空白は背中に回る。
背中に回れば向きは前に開く。
「言葉で刺す」
僕は彼の掌に触れたまま、はっきり言った。
「“親友だ”を免罪符に使った。その言葉で、お前を運び屋にした」
浅い刃。
浅さの記録が画面の隅へ保存される。
〈刺:言葉(浅)〉
ユウスケも言う。
「“世界が決める”を免罪符にした。その言葉で、必要の責任をお前に押し付けた」
浅い刃が相殺し机の木目が一度だけ静かに呼吸した。
赤紙がわずかに波打つ。
〈向きを決めよ〉の文字が薄くなる。
代わりに、新しい行が浮いた。
〈実行対象:紙〉
〈刃を当てよ:証跡化〉
世界が“刃の一度”を紙で満たしてよいと認めている。
帳尻はこちらで取れる。
「やる」
僕は短く言って机の引き出しから校務用のカッターナイフを取り出す。
刃は小さく光は弱い。
アプリがそれを*〈検証用〉*として認識した。
ユウスケが一歩。後ろに下がる。
剣には触れない。
左手は開いたまま、右手はポケット。
“運ぶ”構えをやめて“見る”構えだけを残す。
僕は赤紙の中央〈僕〉の字の右脇に薄く刃の腹を当てた。
刺さない。切る。
紙の繊維が静かにほどける。
音はしない。
代わりに蛍光灯が一度だけ深く息を吐く。
画面に太字が現れる。
〈刃:一次使用(紙)〉
〈実傷:なし〉
〈証跡:確定〉
…その瞬間だった。
冒頭の光景が部室の壁に投影された。
夕焼け色の部室、白い画面、黒い文字。
ユウスケの顔。
僕の胸。
刺す/刺されるの輪郭が二重に重なって、どちらとも決まらないまま静止する。
映像は音を持たない。
代わりに机が三度、短く鳴った。
コン。
コン。
コン。
“刃は使われた”…世界がそう言いたがり、紙の上で満たされたことを確認している。
赤紙の下段に空白が現れた。
〈向き〉
枠だけ。僕はペンを握る。
ユウスケが頷く。
「書き足すだ」
「うん」
書く。
〈書き足す〉
インクが乾くより速く、アプリの画面に同じ一語が増えた。
〈向き:書き足す〉
〈判押下:不要〉
〈遷移:塔/最上層(確かめ維持)〉
塔。
灰の街の中心。
最初に鐘が鳴ったあの場所。
“判”が並ぶ心臓のさらに上。
赤紙は自動で三つ折りになり封筒に収まって、僕の胸ポケットへ落ちた。
重さはない。
ないのに心臓の少し上で確かな位置を占める。
ユウスケが呼吸を整え、左手で扉を押す。
廊下の向こうに、夜の鳥居が立っている。
“確かめ”の横木が月を支え、三打の気配が空気の底に眠る。
そのとき、スマホが短く震えた。
ヴ…
差出人:僕。
〈合図を〉
句点はない。
癖。
でも、意味は僕が与える。
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
僕は言う。
「確かめろ」
部室の白が一度だけ収縮し扉の向こうに塔のエレベータのような細い籠が現れた。
中は暗く、壁に札が一枚貼られている。
〈ここから先“書き足す”のみ〉
〈刺す/刺さない は参照として保存〉
〈名前は判決ではない〉
名前は判決ではない。
新しい規則だ。
誰かが…僕らが…足した規則。
ユウスケが先に一歩入る。
左手で内扉を引き、右手をポケットから出さない。
「行こう」
優しい。
そして、冷たい。
その両方の温度で筋が通る。
僕が続き扉が滑る。
赤紙が胸ポケットで軽く鳴った。
コン。
音は一打。
二打目と三打目はまだ来ない。
来ない“ことにして”上へ。