第13話 起点の起点
扉をくぐると夜の校舎の匂いがした。
ワックスとチョークと誰かの忘れた体育館シューズ。
それらの重なりに灰の街の薄い粉が混ざっている。
廊下の蛍光灯は半分しか点かない。
教室のドアは勝手にスライドして開き、黒板に時刻が自動で書かれる。
〈21:22〉
席は昼の配置のまま。窓の外、鳥居の横木が夜風に揺れている“ことになっている”。
担任が出席簿(赤い紙束)を机に置き、声を落とす。
「最終検証。起点の起点」
白い粉が浮いて、黒板にタイトルが出る。
〈誰が、最初に“親友だ”を言ったか〉
〈書き言葉/話し言葉/思考言語…どれが最初か〉
〈結果→物語 の順を“確かめ”に裏返したうえで判定〉
ユウスケは僕の隣に立った。
左手を軽く開いたまま、右手はポケット。
利き手はさっき決めた。僕=右、ユウスケ=左。
決めたはずなのに、目が油断すると右と左がまた灰に溶ける。
胸骨を三回、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
僕だけの合図。世界はまだ意味を当てない。なら、当てにいく。
「証拠室」
僕が言うと、教室後方のロッカー群が低い音を立てて口を開いた。
引き出しそれぞれに白いラベル。
〈アルバム〉〈連絡帳〉〈健康観察カード〉〈学級名簿〉〈自由記述欄〉
ユウスケが小さく笑う。
「どれからだ」
「言葉の浅い順」
僕は書き言葉から辿ることにする。刃が浅く済む方から。
1) 書いた「親友だ」
連絡帳。
四年の夏。水泳大会の週。
先生への返事の末尾に幼い字で〈親友:ゆうすけ〉。
…声に出してはいない。書式が先だ。
名簿のコピー。
五年の春。座席表の裏に相関図。〈親友〉の線が、僕からユウスケへ向いている。
…相互ではない。片矢印。
自由記述欄。
中学の終わり卒業文集。
〈親友の定義は僕が決める。親友=彼〉
…発行済。配布済。世界に回覧済。
黒板に自動で列が増える。
〈最古の書面:連絡帳(僕)〉
〈相関の矢印:僕→ユウスケ〉
〈定義の宣言:卒文(僕)〉
〈書式の優位:高〉
机が微かに震え三度のリズムが薄く流れる。
コン。
コン。
コン。
“書いた”は言ったに準ずる。ここでは。
世界が読みやすい方に寄るから。
1) 話した「親友だ」
教室の空気が薄く青を帯び、窓の外のグラウンドに昔の放課後が再生される。
ホームベースの近く日が斜めに低い。
僕が言っている。
…言っているはずなのに、音が出ない。
代わりに字幕。
〈親友だな〉
ユウスケの口は、笑う形を作っている。
〈ああ〉の字幕。
短い。受け止めたのは返事で定義ではない。
返事は返事。宣言は僕。
黒板が淡く光る。
〈最古の発話:僕→ユウスケ〉
〈相互承認:あり〉
〈主導:僕〉
机の音が一打だけ強くなり、すぐに落ち着いた。
コン。
3) 思った「親友だ」
教室の天井が少し下がり、蛍光灯の光が文字の影を濃くする。
頭の中の最初の記憶。
…一年の遠足。
僕の弁当の海苔が風で飛び、ユウスケが笑って半分分けた。
そのとき思った。
〈親友〉
音は出ていない。
言語化はしていない。
けれど、その瞬間の“定義”は確かに僕の中で成立した。
黒板に細字。
〈最古の思考:僕→ユウスケ〉
〈書式/発話より先行〉
〈ただし“結果=僕の内側”〉
担任がチョークで黒板を三度、軽く叩く。
コン。
コン。
コン。
「総合」
白い粉が列を結び、太字が浮かぶ。
〈起点の起点:僕〉
ユウスケは笑わなかった。
笑いの準備をやめ、息を落とした。
「……そう、だな」
胸の内側で、何かが軽くなる。
軽くなったものの代わりに、別の部分が重くなる。
免罪符の重さだ。
僕が最初に書き、言い、思った。
なら「親友だ」を僕の側から外すこともできる。
「言葉で刺す」
僕は黒板に向き直り一行書く。
〈“親友だ”の免罪符効力を今ここで失効〉
書いた瞬間、出席簿の赤い紙が一枚、灰に変わる。
〈効力:失効/対象:匿名→ユウスケ 間の呼称〉
〈副作用:空席化〉
空席化。
僕とユウスケの間に置かれていた椅子が一本“かたん”と倒れて横になる。
空いた席は世界にとって危険だ。空白は埋められるためにある。
「触れる」
僕は続ける。
ユウスケが頷き左手を出す。僕は右手を出す。
掌が合い熱が行き来する。
“親友だ”の外側で別の言葉の形を探す触れ方。
判は押されない。
木槌は鳴らない。
代わりに鳥居の札が裏返った。
〈検証:完了(言語/触覚)〉
〈残り:刃(任意)〉
〈推奨:書き足す〉
担任が出席簿を閉じる。
「判は押さなくていい」
声が少し柔らかかった。
「押さない規則をここに足すなら」
ユウスケが息を吐く。
「押さないで済む“筋”が一つだけある」
「何だ」
「呼称の条件を作る。二人で。免罪符にしない条件」
黒板の右が空白になる。
書き足すための余白。
僕はチョークのない空中に、ゆっくり書いた。
〈親友=確かめ合う/理由を後にしない/沈黙を合図に使わない〉
〈“世界が決める”を引用しない/必要は必要側が言う〉
〈失効と再発行は双方同時〉
粉が散って、列が整う。
出席簿がもう一枚、灰に変わる。
〈規則:暫定採用〉
〈判押下:停止〉
胸ポケットが震えた。
ヴ…
差出人:僕。
〈合図を〉
句点はない。
さっきまでの命令がいまはただの癖に見えた。
僕はスマホを閉じ、胸骨を三度、軽く叩く。
コン。
コン。
コン。
意味は僕が与える。
〈合図:検証完了→次段〉の細字が黒板に滲む。
窓の外、鳥居の向こうの夜が薄く開いた。
灰の塔の縁に、現実の街灯が重なる。
境界は混ざり、世界は次の辻褄を待っている。
「…最後の一つ」
担任が静かに言う。
「起点の起点が確定した以上、向きを決めなければならない」
黒板中央に、三つの太字が並ぶ。
〈刺す〉〈刺さない〉〈書き足す〉
それぞれに矢印がつき、どれでも筋が通ることを示している。
ユウスケが僕を見る。
笑いはない。
目の奥のガラスは今度はずれない。
「選べ」
「段取りどおりに」
僕は頷く。
「言葉→触れる→刃。いま、言葉と触れるは終わった。
刃は…保留」
黒板の片隅に、細いログが流れた。
【審理ログ 10】
21:22 教室へ遷移
21:24 証拠提示:書式/発話/思考
21:28 起点の起点:僕
21:30 免罪符「親友だ」失効/空席化
21:32 検証:言語・触覚 完了
21:34 規則:親友=条件式(暫定)
21:35 刃:保留(保留=確定 外)
保留はここでは確定ではない。“確かめ”の側だから。
鳥居の札が小さく鳴る。
コン。
「そのまま向こうに行こう」
ユウスケが言う。
「部室へ。アプリの画面へ。起点の起点を抱えたまま」
教室のドアが開いた。
廊下の先、部室の扉が半開きで白い光が漏れている。
スマホの画面が何も映していないのに僕の顔を照らす。
鏡の役目を押しつけられた光だ。
廊下を歩く。
同じ歩幅。
同じ呼吸。
“親友だ”を失効させた二人の歩調は不思議と前より揃っている。
免罪符は軽い。条件の方が重い。
重いものはガタつきを抑える。
部室の前で立ち止まる。
中から未来の残響が微かにした。
剣の柄へ触れる音のような。スマホの微振動のような。机の三拍子のような。
「開けるぞ」
ユウスケが左手で扉を押す。
僕は右手でスマホを握る。
画面が白くなり黒い文字が後から現れた。
『異世界裁判アプリ』
前と同じ。
でも起点が違う。
黒板に書いた条件が、スクロールの底に小さく見える。
〈親友=確かめ合う/理由を後にしない/沈黙を合図に使わない……〉
アプリはそれを規約として読み込んでいる。
ユウスケが僕を見る。
「じゃあ、合図を」
僕は胸骨を三度、叩く。
コン。
コン。
コン。
そして、言う。
「確かめろ」
白い画面に黒い一行が先に増えた。
〈起動合図:確かめろ〉
〈起点:僕〉
〈運搬:ユウスケ〉
〈利き手:右/左〉
部室の空気が、一度だけ深く息をつき、刃の映像を呼び込もうとして…止まった。
保留。
刃はまだ来ない。
来ない“ことにする”のではなく。来ない。
かわりに机の端に赤い紙が一枚。静かに現れた。
そこには短い文。
〈最初に“親友だ”を言ったのは、〉
僕はペンを持つ。
ユウスケが頷く。
「向こうで言え」
灰の街ではなく現実で。
僕は息を吸い名前を書きかけて…止めた。
止めた指先に彼の左手が軽く触れる。
触れただけ。
“親友だ”の外側の触れ方で。
机が一度だけ鳴った。
コン。
意味はまだない。
意味を与えるのは、次だ。