第12話 灰の証明
鳥居をくぐると灰の匂いが薄く変わった。
焦げではなく紙を擦ったときの粉の匂い。
“ここでは、確かめのみ”
札は風もないのに読み終えるのに合わせて一度だけ揺れた。
敷石は四方向へ細く延び行き先にそれぞれ小さな門が立っている。
門の額には鏡文字のような白い刻印。
〈右〉/〈左〉/〈必要〉/〈運搬〉
ユウスケが肩越しに僕を見る。
右手か左手か判別のつかない手が空を一度切っただけで止まる。
「順番は、そっちが決めろ」
胸骨を三回、爪で軽く叩く。
コン。
コン。
コン。
僕だけの合図。世界はまだ意味を与えない。なら、与える側に回る。
「右から」
右の門の中は小さな手洗い場だった。
蛇口は一本、鏡が一枚、金属の皿が一枚。
鏡には誰も映らない。代わりに白い字幕がふわりと浮かぶ。
〈右手を見て〉
〈今のあなたの〉
美咲の文だ。
僕は右手を差し出す。木槌の跡は…やはりない。
代わりに、うっすらと“刃の重さ”が掌に沈んでいる。握った覚えのない道具の残像みたいな重み。
金属の皿に右手指を触れると、皿の縁が淡く光り、灰色の液体が一滴だけ落ちた。
雫は皿の中央で止まり、形を崩さない。
字幕が増える。
〈決定:右手=今ここ〉
ユウスケが皿を覗き込み、わずかに眉を上げる。
「早いな」
「“今ここ”しか、ここにはない」
返すと、鏡が一瞬だけ僕を映しすぐにただの金属に戻った。
左の門。
同じ手洗い場、同じ構造。
僕は左手を皿に触れさせる。
雫は落ちない。代わりに、皿の底で音だけが生まれた。
コン。
字幕。
〈保留:左手=未確定〉
ユウスケが肩をすくめる。
「だから言ったろ。利き手はいつも遅れて決まる」
「遅れて決まるなら、今は決めない」
言いながら、鏡の枠に触れる。金属は温かく、温かかったことにされていない実温を持っていた。
僕らが外へ出ると、鳥居の影がわずかに濃くなる。
札が一枚、増えていた。
〈確かめは結果の前に置け〉
結果より前に。
“ここでは結果が先に来る”が基本のはずなのに、鳥居の中は逆さだ。
入っただけで世界の癖が変わる。
必要の門。
薄暗い部屋に机がひとつ。
机の上に赤い紙、一本の鉛筆。
紙の見出しは太字で 〈発注〉。
ユウスケは手を組み、机の向かいに立つ。
「書け。お前が何を必要としたか」
喉が渇く。
“信じろ”を止め、“確かめろ”に置き換えてここまで来た。
なら、必要の書き方はひとつしかない。
僕は短く書く。
〈必要:確かめ〉
鉛筆の芯が紙を掴む手応え。
すぐに文字が増殖する。僕の筆跡のまま、勝手に。
〈必要:確かめ/裏切りの不使用/言葉の刃の限定〉
限定。
紙は僕の意図を拡張し、世界が読みやすい文法で整形してくる。
僕は追記する。
〈免罪符“親友だ”の無効〉
紙がふっと軽くなり、机の引き出しが自動で開く。
中に封筒が一通。
宛名はない。差出人は…僕。
開くと、白い紙片。
〈停止権:必要側に付与〉
ユウスケが短く息を吐く。
「それで、お前の言葉は刃になり刃は浅い」
「深い刃を、ここでは使わない。確かめだけだ」
そう言い切ると、部屋の照明に似た灰色の光が一度だけ瞬き、扉が開いた。
運搬の門。
壁一面に、宛名のない封筒がびっしり刺さっている。
すべての封に同じ押印。
〈配送済〉
ユウスケは無言で壁に手を置く。
右か左か、判別のつかない手。
封筒はわずかに温まり、押印が*〈配送保留〉*に変わる。
「止められるか」
僕が訊く。
「止めることにするなら」
即答。けれど、その即答に、さっきまでの壁の固さはない。
ここは“確かめ”の側。即答の速度に遅れが混じる。
封筒のひとつを抜く。中の紙は薄い。
〈黙る〉
それだけ。
僕は紙を二つに折りユウスケへ渡そうとする…が、指が触れない。
空気が紙を保持し、指と指のあいだは別の層のままだ。
「触れないのは、まだ裏の規則が強いからだ」
ユウスケが言う。
「“確かめ”は触れるを要求する。触れるためには、辻褄を合わせる必要がある」
「合わせよう」
僕は封筒を胸ポケットへ戻す。
(黙る、を保留。黙秘を合図にしない、と記録したまま運ぶ)
運搬の部屋を出ると、鳥居の中央に秤が現れていた。
皿は二つ。右と左。
皿の縁に刻印。
〈右=今ここ〉
〈左=未確定〉
秤の柱に、もう一枚の札。
〈触れて、決めろ〉
ユウスケが僕を見る。
「“確かめ”はそう言ってる」
胸骨を三度、爪で叩く。
コン。
コン。
コン。
僕は一歩、秤に近づく。
「触れる」
言葉にした瞬間、空気の粘度が下がった。
右手を上げる。
ユウスケも手を上げる。
どちらの手か、いつものように判別できない。
でも今はどちらでもいい。
触れることが先に来るなら、あとから手が決まる。
指先が指先に触れた。
熱は同じだった。
手のかたちは同じではなかった。
重なった瞬間。秤の皿が同時に一目盛り沈んだ。
字幕が走る。
〈決定:利き手=“今この触れ方を選んだ側”の手〉
僕の右手。
ユウスケの…左手だった。
触れたことで、やっと決まる。
ユウスケが息を詰め、すぐに緩める。
笑いは作らない。
「それで、辻褄は合う」
秤が静まると、鳥居の奥に広い空間が開けた。
床は体育館の板、天井は灰色の空、壁は教室の緑。
現実の素材が薄く重なり、裁判所の温度に整えられていく。
中央に円卓。
円卓の上に、刃と木槌が並んでいた。
刃には刻印。
〈検証用〉
「ここで、最後の“確かめ”」
ユウスケが円卓の反対側に立つ。
剣には触れない。
さっき決まった左手は、卓の縁に軽く置かれている。
胸ポケットが震えた。
ヴ…
差出人:美咲。
〈言葉で刺せ。浅く〉
〈そのあとで、触れる〉
僕は頷く。
円卓に置かれた刃を持たない。
代わりに言葉を選ぶ。
「…僕は“親友だ”を免罪符に使った。お前を合図の運び屋にして」
ユウスケは目を閉じ、うっすら笑った。
「俺も“世界が決める”を免罪符に使った。お前に、必要の責任を押し付けて」
言葉の刃は浅い。
浅いが秤は反応する。
皿がわずかに沈み、鳥居の札が一枚。裏返った。
〈検証:完了(言語)〉
〈検証:残り(触覚)〉
「触れる」
僕は言う。
円卓の刃に右手を伸ばす。
今度は、重さがちゃんと掌に落ちた。
刻印の冷たさが皮膚へ映り、世界が一拍遅れて意味を与える。
ユウスケは左手を卓から離し、空の掌を前へ。
受け入れる姿勢。
守るために刺す、の代わりに…確かめるために触れる。
「刺さない」
僕は刃を持ったまま言う。
「触れるだけだ」
刃の腹を彼の掌にそっと当てる。
冷たさが移動する。
掌の上で刃は音を立てない。
代わりに、鳥居の上で鐘が一度だけ鳴った。
コン。
字幕。
〈触覚検証:浅度=合格〉
秤が静まり円卓の中央に白い紙が一枚、現れた。
見出しは太字。
〈起点の訂正〉
本文は短い。
〈信じろ(凍結)→確かめろ(暫定)〉
〈必要側=匿名(現:裁く者)〉
〈運搬側=ユウスケ(現:被告)〉
〈利き手=右(匿名)/左〉
〈刃=未使用〉
未使用。
その二字が、思っていた以上に重かった。
“使わなかった”事実は、次に“使う”可能性を濃くする。
世界は空白を嫌う。
空白は埋めるために存在する。
「——最後に一つ」
ユウスケが言う。
左手を下ろし今度は右で円卓の縁を軽く叩いた。
コン。
「起点の起点を確かめる」
「起点の、起点?」
「部室より前。アプリより前。刺された未来よりも、もっと前」
ユウスケは机上の木槌を見ない。
代わりに、僕の右手…刃を持つ手を見る。
「誰が、最初に“親友だ”を言った?」
喉の奥が、冷たくなった。
言われてみれば、覚えていない。
僕か、彼か。
必要が先か、配送が先か。
結果が先の世界を“確かめ”に裏返しても、起点の起点は曖昧のまま残る。
胸ポケットが震えた。
ヴ…ヴ…
差出人:僕。
〈合図を〉
句点はない。
いつもの一行。
でも、鳥居の中でそれはまだ意味を与えられていない。
「筋を通す」
僕は細く息を吐く。
「言葉で刺す。いちばん浅いところから」
ユウスケは頷く。
「それで足りなきゃ、触れる」
「それでも足りなければ?」
「そのときは、刃だ」
三つの段。
浅い/触れる/刃。
世界は段取りを欲しがる。
段取りがあれば判は遅れる。
遅れれば僕が追いつける。
僕は刃を下ろし、紙の余白に一行を書いた。
〈最初に“親友だ”を言ったのは…〉
ペンは走る。
止まりかけ、また走る。
名前を書けば、証明になる。
証明は、判決だ。
鳥居の上で鐘が三度鳴る。
コン。
コン。
コン。
世界が、決定の形を整えに来る。
僕は書かなかった。
代わりに指を止めた。
止めた指先にユウスケの左手がそっと触れる。
触れることが先に来て起点が一拍遅れる。
「次で、言え」
ユウスケの声は低い。
優しく、そして冷たい。
「ここではなく、向こうで」
鳥居の奥、扉が開いた。
現実の校門と灰の塔の門が重なり、夜の空気が流れ込む。
札が最後の一枚をこちらに向ける。
〈最終検証:教室〉
〈刺す/刺さない/書き足す〉
〈必要:発話〉
扉の縁で影がひとつこちらを覗いた。
僕の顔をした、誰か。
ユウスケの顔をした、僕。
一瞬で消える。
世界は次の辻褄を待っている。
僕は胸骨を三度、爪で叩いた。
コン。
コン。
コン。
合図は、まだ意味を持たない。
意味を持たせるのは…次だ。