第10話 灰の教室
「……先に、罪を言う」
その一言で、部室の空気が一度だけ揺れた。
拍手の代わりに静寂が三度、息をする。
コン。
コン。
コン。
ユウスケが眉をわずかに上げる。笑う用意をしたまま、笑いが一瞬だけ遅れる。
窓の外は夕方、グラウンドの土はオレンジ色。けれど、光の粒のいくつかが灰色で埃の振る舞いだけが異世界の重さを持っていた。
「は? 何の、罪だよ」
ユウスケが机の端に腰をかけ、いつもの調子で言う。
“異世界裁判アプリ”の白い画面が僕らの顔色を均一に平らにする。
僕は息を整え、順序を並べる。
(学校→家庭→恋人。軽くなる順)
「……居眠り」
胸の内で、机の震えがわずかに弱まる。
「……返事がそっけない」
空気の重さが一枚、剥がれる。
「……未返信」
窓ガラスの縁で、光が弛む音がした。
黒板の隅に白い文字が自然発生する。
〈順序の遵守:軽減〉
誰もチョークを持っていないのに。粉が空気中に増え意味だけが板に残る。
ユウスケは肩を竦める仕草で笑う。
「まじめかよ。…で? タップは?」
「まだ」
僕は首を振る。
「“親友だ”を免罪符に使った。それが僕の一番軽くない罪だ」
言った瞬間。黒板の文字の列が一段ずつ沈む。
〈自白:成立〉
〈軽重:再配分〉
教科書のような語彙が、儀式の速度で整列する。
ドアが静かに開いた。
担任が立っている。手にしているのは出席簿―に見える赤い紙の束。
「開廷」
チョークの先で黒板を三度、軽く叩く。
コン。
コン。
コン。
教室の空気が、まるで“ここはずっとそうだった”かのように裁判所の温度へ置き換わる。
傍聴席…観客席はない。
代わりにクラスメイトがいつもの席に座っていて、顔の輪郭だけが一瞬空洞になりすぐに戻る。
“見えること”と“いること”が別個に動いている。
「被告、名を述べよ」
担任の声は板書の行間と同じ角度で落ち着いている。
「匿名」
僕は答える。
言った途端。出席番号一覧の欄が一つ空白になり、出席簿の赤が一枚だけ灰に変わった。
ユウスケが机の脚をコツ、コツと二度蹴る。
合図の模倣。
「お前、遊んでる?」
「筋を通してる」
僕は黒板に目を戻す。
白い文字列が勝手に分岐を表示する。
〈審理対象:匿名/親友〉
矢印が二本、左右に伸び。ゆっくり点滅している。
胸ポケットが震えた。
ヴ…
画面:差出人 美咲。
〈右手を見て〉
〈今のあなたの〉
右手―木槌の跡はもうない。
触れなかった僕と触れたことにされた僕。二人の二重露光は、現実の光の中で薄く剥がれていく。
「では、匿名」担任が言う。
「最終弁論を許可する」
僕は立ち上がらず、椅子に座りもしない。
座ったまま座っていないことにする。
教室の床が、少しだけ柔らかい家の床になる。
沈みが罪の秤になる。
「—僕は、“親友だ”という呼称に頼った」
声が自分の喉で反響し、黒板の右下に細字で加筆される。
〈呼称の乱用:認定〉
〈免罪符の使用:自認〉
〈軽減:順序遵守により維持〉
クラスの数人が笑う。
笑いの音は音にならず、机の表面を指で叩くリズムに変換される。
コン、コン、コン。
三拍子で教室が起立した。
「判決」
担任が赤い紙を一枚、上げようとして—止めた。
止めたことにしたのかもしれない。
指先が迷って代わりに別の手が紙に触れる。
僕自身の手か、ユウスケの手か。見分けがつかない。
黒板の文字列が、ふっと書き換わる。
〈審理対象:匿名〉の右に、小さく×がつき、左の〈親友〉へ矢印が集約する。
〈審理対象:ユウスケ〉
教室の空気が温度を変えずに内容だけを裏返した。
「待て」
僕は口に出していた。
ユウスケがゆっくりこちらを向く。
笑いは間に合っている。目の奥のガラスだけが、一枚遅い。
「被告の切り替えに異議は?」担任。
誰かが手を上げる。誰かの顔が空洞になって、すぐに戻る。
「異議なし」
「異議なし」
「異議なし」
“異議なし”が教室語になる。
頷きの記号が空中を飛び、僕の胸に冷たく沈む。
「じゃ、続行」
担任が出席簿を閉じる音は木槌一打に等しい。
コン。
黒板の上部に、今日の日付と時刻が自動で書かれる。
〈9/19 Fri 21:03〉
現実の時計が儀式に編入された瞬間。
ユウスケは机から腰を上げ一歩だけ前に出た。
右手か左手か判別不能の軌道で空を軽く切る。
「やっと、こっちが筋だ」
声は穏やか—だからこそ、冷たい。
胸ポケットがもう一度震える。
ヴ…ヴ…
差出人:僕。
〈合図を〉
句点はない。
僕はスマホを閉じ、机の角を指で一度だけ叩く。
コン。
自分の音。
合図の模倣ではない合図。
黒板に走る文字。
〈権限の一部、匿名へ移譲〉
〈起立:裁く者〉
椅子が僕の膝裏を押し上げ、立ち上がったことにする。
“裁く者”の席は、壇にない。
僕の席そのものが壇に認定される。
「被告ユウスケ」担任が読む。
「第一の罪状」
白い粉が空中に集まり、黒板の中央に太字で浮かぶ。
〈ガイドの利き手、未確定〉
教室の何人かが笑う。
笑いはすぐに机のリズムに変換される。
コン、コン、コン。
ユウスケは肩を竦める。
「くだらない。ここでは利き手なんか結果の後に決まる」
「第二の罪状」担任。
〈“世界が決める”の乱用〉
チョークの粉が雪のように降って僕の靴に積もる。
僕は息を吸い、順序を思い出す。
軽くするには、学校→家庭→恋人。
でも今は“ユウスケ”。
世界は彼の罪状に順序を要求しない。
ならば、僕が順序をつくる。
「—証人」
自分の声が教室を満たす。
「学校」
黒板の右に窓がひらき担任の姿が字幕をまとって立ち上がる。
〈一昨日:遅刻/昨日:忘れ物/本日:居眠り〉
「それは僕の罪でした」
僕は先に言う。
字幕が滲み、軽減の印がつく。
〈軽減:他者の罪を自認〉
教室の空気が少し温かくなる。
「家庭」
母の背中が窓に貼り付く。字幕。
〈食器不片付/そっけない返事〉
「それも僕の罪です」
滲み。軽減。
「恋人」
美咲の目だけがこちらを向き、字幕が遅れて浮く。
〈未返信〉
「それも」
滲み。軽減。
—僕の秤が、目に見えないところで水平に戻る。
黒板の中央に新しい太字。
〈審理対象:ユウスケ(維持)〉
〈起点の確認〉
白い矢印が今日の午後へ引き直される。
部室で白い画面、黒い文字。
『異世界裁判アプリ』
そこに立つ二人。僕とユウスケ。
ユウスケがようやく僕と正面で視線を合わせた。
目の奥のガラスは今度は割れない。
「で? どうする。裁くのか守るのか」
「その二択は狭い」
僕は答える。
「筋を通す。結果が先に来る世界で物語を書き足す」
ユウスケの笑いが準備をやめた。
本当に笑った。
その笑いは優しくそして冷たい。
「じゃあ、合図を」
僕は机を二度叩いた。
コン。
コン。
三度目の手前で黒板が先に叩かれる。
コン。
三打は揃う。
誰が叩いたのかは問題ではない。この世界では揃ったことが先に意味になる。
「—審理開始」
担任の声と、僕の声と、ユウスケの呼吸が、同じテンポで折り重なる。
黒板の片隅に、小さなログが走った。
【審理ログ 07】
21:05 被告:匿名→切替/ユウスケ
21:06 権限:匿名に部分移譲
21:07 裁判地:教室/部室 同期
21:08 起点確認:アプリ提示
21:09 次指示:刺す/刺さない/書き足す
窓の向こうの灰の街が教室の外に重なっている。
観客の空洞が廊下に立ち。見えることといることを交互に切り替える。
ユウスケは一歩、僕に近づいた。
右手か左手か判別不能の手が、僕の肩に—触れたように見えた。
「決めろよ」
囁きは子守歌の高さで、刃の意味を持つ。
胸ポケットが震えた。
ヴ…
差出人:美咲。
〈今は、言葉で刺せ〉
〈それがいちばん浅い〉
僕は黒板に向き直り、チョークのない空中に一行書く。
〈被告ユウスケ——“利き手の決定を保留”〉
書いた瞬間、教室が揺れずに進む。
保留=確定。
結果が先に来て、物語があとから追う。
ならば追わせる。
ユウスケの目が細くなる。
「保留で逃げるのか」
「逃げない。次で決める」
僕は名乗らないまま、裁く者の立場で言う。
「—証人:ユウスケ。お前の口から、最初の合図を言え」
ユウスケは息を吸い、笑いを切り落とした。
目の奥のガラスが、音を立てずにずれる。
教室の天井が一瞬だけ低くなり、灰の街の鐘が遠くで三度、逆向きに鳴った。
コン。
コン。
コン。
彼が何を言うか。
その言葉がどちらの刃になるか。
空気は静かで、意味だけが飽和していた。